パティパダー巻頭法話
Sabbe satta bhavantu sukhitatta
HOMEパティパダー巻頭法話→憎しみを生きる力にしないこと
No.174 (2009年8月)
憎しみを生きる力にしないこと

 〜幸福を目指す人は敵を慈しむ〜
 Why human life is nourished by hatred?
A・スマナサーラ長老

 戦争、テロ行為、経済制裁、抗議活動、暴力、おどし、脅迫、いじめ、侮辱、非難、殺し、喧嘩。 これは現代人が何かの目的に達するために使う手段のリストです。国の発展と平和、民族の自由、信仰の自由、会社の成長、個人の成功などなどの目的に達して、幸福になりたいのです。その方法として使う手段は、以上のべたリストです。それで、その悲願する目的に達して、幸福になるものでしょうか。現実を調べてみると、誰ひとりも悲願する目的に達した形跡はありません。

無限に戦い続けるのです。試しに一度だけでも成功した例があるならば、このリストに書いた手段も捨てたものではないと言っても構わないのです。しかし、一度たりとも成功した試しはないのに、なぜこの手段に拘泥(こうでい)するのでしょうか。

 では、我々の心の中身を調べましょう。自分の身を守って、平和で幸福でいるためには、自分ならどんな手段を取るのでしょうか。正直に考えてみましょう。

最初から使う手段のリストを記したので、その中の一つにも入らない答えを出そうと、いま頭を悩ませているところだと思います。「そんな品のないことを、私がやるわけはない」と、いま頭の中で戦っていると思います。

 ほとんどの人々は、心の表面を見ると、平和が好きなのです。調和を保ち、仲良く生きたいと思っているのです。しかし現実に生きてみると、どうもその方法は逆さまになるのです。結局我々は、自分の気持ちと違った、もしかすると逆らった、生き方をすることになってしまうのです。

 これは真剣に考えるべき問題です。ひったくりをやりたくはないが、やってしまいます。万引きをして恥をかきたくはないが、ついやってしまいます。痴漢や性的虐待、未青年とのわいせつ行為はよくないことだと知っているし、やりたくもないのです。しかし、ついその罪を犯してしまうのです。子供を虐待したい親はいません。だからといって、子供の虐待もけっこう起こります。虐待どころか、我が子を殺そうとは夢にも思わないでしょう。なのに、小さな子供たちが親に殺されるケースもあるのです。極限に頭がいかれている人以外は、誰かを殺してみたいとは思わないのです。

人を殺すことは、想像もしないのです。しかし、ついカッとなって、いままで仲良くしていた友人を殺してしまうのです。政治家は国民のためにまじめに働きたいのですが、結果は賄賂をとったり不正献金に手を染めたり、国民のためより自分の身の安全を確保するために、政党の繁栄のために、働いてしまうのです。自分の会社に愛着はあるが、運営管理する過程で破産に追い込まれるのです。健康で安全な食品を提供することでのみ成り立つ食品製造会社が、ラベルを張り替えたり、賞味期限を偽ったり、産地を偽装したり、禁止されているものを混入したりするのです。そういうことをやったら、信頼を失って会社は倒産するのだと、誰よりもよく分かっているのです。ですから、人間は自分が理想としている道からいつのまにか脱線して、逆の道を歩むはめになる、ということは決してまれな現象ではないのです。精密に調べてみると、みな何の躊躇(ちゅうちょ)もなくやっているのです。

 偽善という言葉がありますが、この場合はその言葉は適しないのです。やむを得ないことになっているのです。そのつもりはないのに、やっているのです。

 ではなぜ、自分の気持ちと違った道を歩むことになるのでしょうか。生きるとは、次から次へと問題に遭遇して、それを解決してゆく道なのです。仕事をすると言っても、同じことです。次から次へと解決しなくてはいけない問題が、連続して起こるのです。滝が流れるように、何の障害もなくスムーズに、人生は流れないのです。人生の道に無限に障害が立ちはだかるのです。障害の前で止まってしまえば、それで人生も終わるのです。ですから、必ず障害を越えなくてはならないのです。予測された障害なら、解決策も考えておくものです。しかし、そんな人生はあるのでしょうか。悩み、トラブル、障害などの特色は、予測できないことです。天災は忘れた頃にやってくる、と言うでしょう。天災だけではないのです。インフルエンザに罹る、怪我するなどのトラブルも、突然起こるものです。「来週、私は肺炎に罹ります」と言えますか。一瞬先は分からないのです。

 一瞬先は分からない、というのは、まぎれもない事実です。無始なる過去から一度も変わったことのない事実です。地球が太陽を回っていると言うような事実です。もしかすると、それよりも確かな事実です。しかしこの人間という生き物は、考える能力があるにもかかわらず、この事実を断固として無視するのです。

事実・現実を無視して、何の計画を立てるのですか? 何を希望するのですか? うまく行くと思うのでしょうか。 いま思い出したのは、あるローン会社の「ご利用は計画的に」というコピーです。計画能力がなかったからこそ、ローンに手を出すはめになるのです。その人は、どのような計画を立てて金を借りるのでしょうか。自分が計画的に考えていると思っているかもしれませんが、それは計画ではなくて、ハチャメチャな妄想の結果なのです。

 それで、まとめて考えましょう。一瞬先は分からない。それは無視する。何でも自分の妄想のとおりにスムーズに進むことを前提として決めつけておく。言いかえれば、人生については何の安全対策も考えない、ということです。危機管理は管轄外なのです。ここで私はあえて、この社会で耳にたこができるほどうたっている単語を使ったのです。言いたいポイントは、安全対策・危機管理などはスローガンだけで終わってしまうのだ、ということです。ものごとを見る見方は、幼稚園の子供の世界観とそれほど変わらないというと、必ず怒られるでしょう。危機管理とは、東海大震災が起きたらどうしましょう、火事になったらどうしましょう、突然、心臓発作を起こしたらどうしましょう、糖尿病になったら、ガンに罹(か)かったらどうしましょう、という程度のものではないのです。経済大国の金融管理は、天才的な能力のある専門家に運営されているのです。しかし、今回の経済不振は「青天の霹靂(へきれき)」だと思ったのはどういうわけでしょうか。結局は、専門家だと名乗っている人々は、何でもうまく行きますよという、恐ろしい自信過剰に捉われているのです。その人々のアドバイスに乗ったら、どんな酷い目に遭うかは分かったものではないのです。

 そういうわけで、期待しなかった、予測しなかった、起こると思わなかった、そんなはずがないと思っていたことが、起こるのです。しかし、問題に遭遇した人は、危機管理ゼロの人なのです。そんなはずがないと思ったことが起こると、途方に暮れるのです。理性が無くなるのです。感情につぶされるのです。その時、「何かをする」のです。その何かには、何の計画性もないのです。自分の本来の気持ちには何の関係もないのです。その時に限って、いままで生きてきた生き方に逆らったことをするのです。結果はみな、冒頭に書いたリストのとおりに生きることになるのです。

 期待しなかったことが起こると、人間は必ず、怒りの感情を起こすのです。一瞬先は分からないという現実を知らないので、人生の中で何が起きても、それは期待しなかったものです。ですから、人は「オギャー」と生まれた時から、死ぬ瞬間まで、期待しなかったものばかりに遭遇しているのです。ということは、人生は怒り一筋に導かれているのです。この文章の二番目の段落で、皆様に宿題を出しました。皆様も私のリストに入らないような返事を出そうと、努力したことでしょう。しかしそれは無理です。人間は、怒りの感情で支配されているのです。

 例えば、子供が有名な大学を受けたいと決める。それはその子供が考える幸せの道なのです。論理的に言えば、その方法とは、怠けないでまじめに勉強することです。しかし、その通りになるでしょうか。自分が入った塾には、能力に富んだ生徒たちがいっぱいいるとしましょう。本人は彼らを無視すると思いますか。
自分の目的に立ちはだかっている敵になるのではないでしょうか。あまりにも競争心・敵意を抱くと、勉強にも集中できなくなる。クラスの仲間を完全に無視して、自分だけの世界で頑張るのも怖いでしょう。あの人々はどこまで勉強しているのかと、どれくらい能力があるのかと、どれくらい点数を取っているのかと、気になります。やっぱり競争心・敵意があった方が、自分が頑張れるかもしれません。これは、頑張る、ではなく、「受験を目指して戦う」ことなのです。どんな例を出してみても、同じことです。お母さんたちも、子育てをする場合は、他のお母さんたちの子供を敵対象にして、負けずに頑張っている(戦う)のです。戦って誰かを倒すことがなければ、スポーツなんかは成り立ちません。ゴルフというのは、一人でやるスポーツでしょう。ではゴルフ界では競争はないのでしょうか。マスコミにしても、ライバル会社より先に自分がスクープを見つけたいのです。民間放送では、他局の名前さえも言わないのです。NHKは公共放送なので、民間局はライバルではありません。ではNHKで競争はないのでしょうか。一番親切に判断しても、NHKは国際基準の一流の番組をつくりたいと思っているのです。戦いはあります。

 最後に仏教の話に帰りましょう。人々は戦って勝つことで自分が幸福になると思う。戦争などで敵国を攻めて、たくさん人々を殺して、財産を破壊して、大勝利を得たと自慢するのです。英雄たちの物語を語り続けるのです。過去の人殺し屋の名前さえも、忘れないのです。英雄としてほめたたえて、後の時代にもその話を伝えるのです。インド文化圏では、ラーマーヤナという活劇があります。タイでも、イスラム教のインドネシアでも、この劇を上演するのです。これは単純に戦いの物語です。インド人には怒られるかもしれませんが、ラーマーヤナは神話であって、史実だという証拠はないのです。インドの正式名はバーラタです。

このストーリーは、バーラタ国の建国物語です。殺すべき恐ろしい敵がいないと、また様々な工夫をしてその敵を全滅にして勝利を獲得しないと、かっこがつかないのです。それが幸福の道だと思っているのです。

戦って勝利する人が持ち帰る戦利品は敵ばかりだと、お釈迦様が説かれるのです。
農業であろうが、商売であろうが、人の心に戦いの意志は潜んでいるのです。競争して戦って、勝利を得て幸福になるのだと、思っているのです。この生き方では、心の中で怒り憎しみ恨みという感情が繁栄するのです。心が怒り憎しみ恨みなどでひどく苦しんでいる場合は、物理的に人の土地を奪っても、財産が手に入っても、皆を抑えてリーダー格を取っても、それで幸福なのでしょうか。もし幸福だとするならば、マフィアのドンが世界一幸福なことでしょう。

 人の心は生まれたときからも怒りに支配されていると、前に述べました。憎しみ恨みなどは、いとも簡単に起こるのです。起きた憎しみ恨みは、なかなか消えないのです。ほんの少々のことで、心の中で恨みが生まれても、それは何十年でも心の中で繁殖し続けるのです。人の安らぎをむしばむのです。戦って勝利を得ることで幸福になるのだ、というのはあまりにも錯覚です。怒りは幸福をむしばむエネルギーなのです。そのエネルギーを増幅して、その衝動で生きていて、幸福に達するとは勘違いもいいところです。もしそれが事実であるならば、北朝鮮はミサイルを開発することで、強力な核兵器を大量に保持することで、世界一豊かな国になるに違いありません。

 戦わずして、生きることにおいて最高な勝利を得る方法は、人間は知らないのです。人間が知っていることは、冒頭でリストアップしました。敵を倒すべきです。それは一般人の思考です。人が敵だと思うのは、自分が怒り憎しみでその人を見ているからです。その人の行動に誤りがあっても、それは真理を知らないから、無知だから、起こることです。知らないことは罪だと思うならば、その思った人の方がより悪いのです。

何も知らない人を哀れむべきです。できることなら、心配して助けてあげるべきです。相手が敵意を持っていても、自分は敵意を持たないことです。怒ってしまうのは、自然で、簡単です。不幸の流れに身を任せない。流れに逆らって、泳いでみるのです。嫌な人を慈しむこと、怒っている人に対して怒りを抱かないこと、ライバルであっても助けてあげること、無知な俗世間に「無知だ」と笑われる生き方かもしれません。無知のどん底の人が、他人に向かって、「汝は無知だ」と言えるものでしょうか。ですから、世間はどう思っても、何を言われても、怒る人に対して慈しみを抱くのはお釈迦様の勧めです。試しに一回だけでもやってみたら、自分が負けてないことに、勝利を得たことに、その上、幸福を感じることに、必ず気づくと思います。

怒りは幸福を破壊するが、慈しみは幸福を実るまで育ててあげるのです。

今回のポイント

◎今月の巻頭偈
Dhammapada Capter XXI PAKINNAKA VAGGA
ダンマパダ(法句経) 第21章 種々なるものの章
 
291.  Paradukkhûpadhânena,
    Attano sukhamicchati;
    Verasamsaggasamsattho,
    Verâ so na parimuccati.

    他の苦によりて我が楽を
    求めるものはいつしかに
    怨憎(おんぞう)互に綯(な)いまじり
    彼は怨みを脱し得ず
      (ダンマパダ291)   (訳・江原通子)
次の法話へ→
HOMEパティパダー巻頭法話→憎しみを生きる力にしないこと
© 2000-2011 Japan Theravada Buddhist Association.