パティパダー巻頭法話
Sabbe satta bhavantu sukhitatta
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No.177 (2009年11月)
昏睡状態から目覚めて生きる道

 〜清らかなこころは最強のお守りになる〜
 Awareness breaks down the comatose state of the mind
A・スマナサーラ長老
◎今月の巻頭偈
Dhammapada Capter XXI PAKINNAKA VAGGA
ダンマパダ(法句経) 第21章 種々なるものの章 (296--301)
 
296. Suppabuddham pabujjhanti,
    Sadâ gotamasâvakâ;
    Yesam divâ ca ratto ca,
    Niccam buddhagatâ sati.
297. Suppabuddham pabujjhanti,
    Sadâ gotamasâvakâ;
    Yesam divv ca ratto ca,
    Niccam dhammagatâ sati.
298. Suppabuddham pabujjhanti,
    Sadâ gotamasâvakâ;
    Yesam divâ ca ratto ca,
    Niccam sanghagatâ sati.
299. Suppabuddham pabujjhanti,
    Sadâ gotamasâvakâ;
    Yesam divâ ca ratto ca,
    Niccam kâyagatâ sati.
300. Suppabuddham pabujjhanti,
    Sadâ gotamasâvakâ;
    Yesam divâ ca ratto ca,
    Ahimsâya rato mano.
301. Suppabuddham pabujjhanti,
    Sadâ gotamasâvakâ;
    Yesam divâ ca ratto ca,
    Bhâvanâya rato mano.

296. 日夜 ブッダに向けた気づきを 常に実践する仏弟子は
    見事に目覚めるのです
297. 日夜 真理に向けた気づきを 常に実践する仏弟子は
    見事に目覚めるのです
298. 日夜 サンガに向けた気づきを 常に実践する仏弟子は
    見事に目覚めるのです
299. 日夜 身体に向けた気づきを 常に実践する仏弟子は
    見事に目覚めるのです
300. 日夜 慈しみに喜びを感じるこころを 常に持つ仏弟子は
    見事に目覚めるのです
301. 日夜 冥想に喜びを感じるこころを 常に持つ仏弟子は
    見事に目覚めるのです

 (訳 アルボムッレ・スマナサーラ長老) 

 仏法僧に帰依している人は、呪文のごとく常に「ブッダに礼拝します namo(ナモー) Buddhâya(ブッダーヤ)」、「法に礼拝します namo(ナモー) Dhammâya(ダンマーヤ)」、「僧に礼拝します namo(ナモー) Sanghâya(サンガーヤ)」という三つか一つを唱えているならば、また、「生きとし生けるものが幸せでありますように」と唱えているならば、また、ブッダが説かれた何かの冥想を常に実践しているならば、何の災難にも遭遇しない、という御利益があります。人生は順調に進みます。詐欺に騙されたり、財産を持ち逃げされたり、などには遭いません。どのような悩み苦しみに遭遇するのかというと、病気にかかることや、老いることや、親しい人々と死別することくらいです。

 仏教徒たちは、神も信仰していないし、神々に向けての儀式供養なども行っていないし、身を守るための誰でもやっている呪文などのお守り行為もしないのです。しかし、他の人々と違って、とても平安に生きているのです。災難、災害なども免れるのです。
この現象は、当時のインド人に不思議に思われていたようです。その理由を説明するのは難しいのです。
呪文・占いなどを信じる迷信に囚われている人々に、「我々はもっとも優れた最強のお守りをしているのだ」と言えば、話は簡単に済みます。仏教徒でない人々は、迷信という自分たちの主観から判断して、「うらやましい」と思うことでしょう。または、邪見に固執している人は、「こんなことはあり得るはずがない」と疑問に思うことでしょう。

 三帰依する人はなぜ守られるのか、という理論の説明にはまったくならないエピソードを注釈書は紹介します。舎衛城で、仏教徒家族の子供一人と、他宗徒家族の子供一人が、仲良くボール遊びをしていたのです。仏教徒の子供は、習慣になっていたので「ブッダに礼拝する」という文句を唱えてボールを打つ。確実に当たって、勝つのです。他の子供は、自分が信仰している宗教の聖者たちを念じて、ボールを打つ。しかし外れる。負けた子は、相手の呪文を教えてもらいました。そして自分も「ブッダに礼拝する」という呪文にしてしまったのです。それでやっと、勝敗はそれなりに対等になりました。それからその子は、「ブッダに礼拝する」という文句をいつでも口ずさむようになってしまったのです。

 ある日、他宗徒の親子三人は、牛車に乗って薪を探しに町を出たのです。牛を放してあげて親は薪を集めて、子供は牛車のそばで遊んでいました。親が薪集めから帰ってきたら、牛が見つからない。草を食べながら、牛たちは王舎城の中に入ってしまっていたのです。そこで、親も牛を探して王舎城に入ったのです。牛は見つかりましたが、牛車まで戻ろうとすると、午後になったので城門は閉ざされていたのです。子供は森のそばで一人ぼっち、夜を明かすはめになったのです。王舎城は他の町と違って、常に悪霊がひしめいているところ。その上、牛車を停めたところは墓場に近いところでした。暗くなったところで、子供は待ちくたびれて寝てしまいました。
二人の神霊が夜、食べ物を探しに出かけました。一人の霊は仏教徒で、もう一人は邪教徒の霊でした。
邪教徒の霊が寝ている子供を見て「この子を守る人は誰もいない。エサにしましょう」と言ったところ、仏教徒の霊は「止めた方がいいと思いますよ」と言いました。それを聞かず、邪教徒の霊が子供を足で引っぱりました。子供は口癖になっていたので、なにも思わず寝言で「ブッダに礼拝する」と言ったのです。霊は怯えて、震えだしました。震えが止まりません。仏教徒の霊がこのように言いました。「私たちは間違いを犯しました。何かの償いをしないと、この怯え震えは止まらないと思いますよ」。何をしましょうかと二人で考えたところ、子供は何も食べていないでお腹が空かせて寝ていることに気づきました。では、ご飯をあげましょう、と決めた二人の神霊は、王舎城に入って国王がご飯を召しあがる金の皿に宮廷の料理を入れて運ぶと、子供の両親の姿に変身して食べさせてあげたのです。さらに、国王にしか見えないように、その出来事を皿に刻んで、子供のそばに置きました。それから朝方まで、両親の姿で子供を見張っていたのです。

 朝、王宮では王様の金の皿がなくなったことで、泥棒が入ったと大騒ぎになりました。町中も、町の外も、家来が調べたところで、金の皿を子供が持っているのを見つけて、王様のところに連れて行きました。皿を取った王様は、皿に記された文字を読んで何が起きたかわかったのです。子供は朝までお母さんお父さんと一緒にいて、ご飯を食べて寝たと話しましたが、情報を聞いた両親は王様の宮殿に走って行って、「我々はお城が閉門になったので朝まで町にいたのです」と告げました。幸いに、王舎城の王様は仏教徒でしたから、問題はなかったのです。しかし王様は、この三人と一緒にお釈迦さまに会いました。「悪霊にも大事にされるくらいの強力な呪文とは、『ブッダに礼拝する』という文句だけですか?」と訊かれたので、お釈迦様は返事をしました。法に礼拝する、僧に礼拝する、慈しみを実践する、身体の動きと感覚に気づく、その他の冥想に励んでいる、なども同じく強力なお守りになる文句だよ、と説かれたのです。

 このエピソードでは、どのような理由で強力なお守りになるのかということは、説明しないのです。
ただ、インド人の迷信に付き合わされているだけです。Namo(ナモー) Buddhâya(ブッダーヤ) だけが強力なお守りの文句だというと、仏教も一神教とはそれほど変わらなくなるのです。お守りになる文句はいくつかあるのです。

 それから、その理由を考えてみましょう。仏教の実践は、現世利益のために行うものではありません。
子供は別として、大人にはその腹黒い目的はないのです。「商売繁盛したければ、早起きをして、怠けず汗を流して仕事に励みなさい」というのが、ブッダの戒めなのです。仏教徒はそれを知っています。現世利益を目指して、ブッダの教えを実践することは、偉大なる正覚者とその教えに対する冒涜になることも知っているのです。では、現世利益を目指してもないのに、なぜあらゆる災難を免れることができるのでしょうか。

 人生の失敗とは、こころが汚れている証拠です。
汚れたこころで、汚れた思考で、汚れた判断で、生きることに挑戦しても、失敗するに決まっているのです。欲に目がくらんで、怒りで頭が狂うと、なんでもいいからと思ってさまざまなことに挑戦するので、災難を免れることはできないのです。詐欺に騙されたり、財産を持ち逃げされたりするのです。税金などを正しく納めないので、王様に全財産を没収されることも、罰を受けることもあり得ます。仏法僧に帰依する、仏法僧に礼をする、などの文句を唱えると、自ずから不善思考がなくなるのです。悪いことはできなくなるのです。その気が起こらないのです。善因善果の法則で、つねに善果を得るのです。ここには、何の不思議もありません。また、 kâyagata(カーヤガタ)_sati(サティ) 身至念とは、身体に対して気づきを実践することです。皆様方がよく知っている、歩く冥想も、立つ冥想も、身至念なのです。日常のことを実況中継で行うことも、身至念です。清らかなこころで生きるから、清らかな、幸福な結果になるのは、自然法則(因果法則)なのです。三宝に帰依することに勝るお守りがないというのは、迷信の範疇に入りません。

 それから、妨害業という業があります。順調に生きていても、突然、調子が狂って不幸になることは珍しくありません。業から逃げるのは、至難の業です。
しかし、人は三帰依を唱えたり、気づきを実践したりする生活を行うならば、妨害業が割り込んできても清らかなこころに影響を与えることはできなくなるのです。今日、結果を出すべき業が、今日、機能することができなかったならば、その業に次のチャンスはないのです。既有業(結果を出せなかった業)になるのです。たとえ業であっても、因果法則なのです。特権はないのです。すべての妨害業は避けられませんが、こころを清らかにしておくと、たくさんの妨害業を避けることができます。でも、気づきを実践する人は、そのようなはたらきは知りません。ただ、人生は順調であると知っているだけです。

 今月のダンマパダの偈では、suppabuddham(スッパブッダン) pabujjhanti(パブッジャンティ) というフレーズが繰り返されています。
注釈書は「気持ちよく熟睡して、気持ちよく目覚める」という意味で理解していたので、今月の解説は、現世利益に重みを置いてみたのです。だからといって、仏教は神秘的な力について語っているのではありません。仏教は現世利益を目指す実践でもないのです。
究極の幸福を目指す道なのです。ブッダが説かれた道そのものも、完全無欠なので、覚りに至るまでの生き方も、自ずから幸福な生き方になるだけの話です。たとえば、多数派が五戒を守る国であるならば、経済的に豊かになることも、みな幸福で平和になることも、あたりまえの話です。敵国に襲われないというより、周りの国々がその国を敵視する理由がなくなるだけの話です。

 ダンマパダの偈は、仏説なのです。解脱を語る教えなのです。Suppabuddham(スッパブッダン) pabujjhanti(パブッジャンティ)  とは、ものの見事に正しく目醒めるという意味です。要するに、無明という酔いを破って、覚りに達するという意味になるのです。仏随念(ずいねん)、法随念、僧随念などの冥想実践を日夜行うと、徐々に、また楽に、解脱に達するのです。三宝に帰依すると、神霊さえもボディーガードになってくれるのだという話は、神秘好きな現代の方々の興味を惹き起して、やる気を出す気になるかもしれません。興味に水を差すようですが、この偈で説かれているのは、ごく当たり前の理性にもとづいた仏教の真理です。要するに、清らかなこころで生きるべき、という戒めに、例外はないのです。

今回のポイント

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