パティパダー巻頭法話
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No.178 (2009年12月)
隣の芝生は確かに青い

 〜不満を増やす妄想の悪循環を破る〜
 Towards the greenest pasture
A・スマナサーラ長老
◎今月の巻頭偈
Dhammapada Capter XXI PAKINNAKA VAGGA
ダンマパダ(法句経) 第21章 種々なるものの章 (302)
 
302. Duppabbajjam durabhiramam,
    Durâvâsâ gharâ dukhâ;
    Dukkho' samâna samvâso,
    Dukkhânupatitaddhagû;
    Tasmâ na c'addhagû siyâ,
    Na ca dukkhânupatito siyâ.

302. 出家は難しく好めない 
    しかし在家も同じく難しい    
    心合わぬ共棲(ともずみ)も苦しい 
    輪廻の遍歴もまた苦なり
    されば苦の遍歴たる 
    輪廻の旅人にはならぬこと

 (訳 アルボムッレ・スマナサーラ長老) 

  隣の芝生は青く見える(The grass is alays greener on the other side of the fence)。このことわざは、我々の生き方を表しています。自分が持っているものではなく、持っていないものに対して未練を感じる、羨ましくなる心理状況を表現しているのです。仏教の角度から見ると、この言葉はより深い意味を持っています。

 自分が持っていない物事について未練を感じるということは、いま現在、不満を感じているという意味です。持っていないものは、持っているものとは比較にならないほど多いのです。ですから、軽い精神的な不満で終わらないのです。様々な物事に気づくたびに、気になるたびに、心に不満の波が立つのです。人々は現実的な思考より、妄想、空想が好きです。私の身長は170センチだ、体重は65キロだ、などの考えは面白くない。身長は180センチであれば、体重は55キロであれば最高だ、という思考は面白がる。要するに、妄想が好きなのです。妄想には、非現実的であること、実現は不可能、という二つの特色があります。ですから、いくら妄想を続けても飽きないのです。実現できないものだから、妄想して喜ぶより他に方法がないのです。

 これでいくつかの問題が起きます。好んでしていることだから、妄想する人にそれを中止するのは、無理と言えるほど難しいのです。妄想は好きだと言っても、この「好き」は喜びではないのです。自分は持っていない物事に対する妄想なので、不満の感情が激しく波を立てているだけです。残念ながら不満の波は、さざ波ではないのです。荒波です。時に、大時化(おおしけ)にもなります。渦巻になることも、津波になることもあるのです。たかが妄想ぐらいと、軽く見てはならないものです。妄想を引き起こすのは不満です。不満は無量にありますから、いくらでも妄想できるのです。さらに妄想によって、不満が膨張する。両者は相互依存関係なのです。妄想で不満が生じ、不満で妄想が生じるのです。この循環は、人が自己破壊になるまで進んでいくのです。

 隣の芝生は青く見える、という現象は、我々の人生そのものになっています。欲しい、羨ましい、と思うことに挑戦するという考えもあります。たとえば、ピアノを弾けたらいいなぁ、と思う人は、ピアノの練習をすればよいでしょう。しかし、挑戦できるのは、現実性に近い妄想の場合に限るのです。

六十歳の人が飛行機の操縦士にあこがれても、実行できるとは思えません。現実に近い妄想の場合でも、挑戦しても不満の荒波が渦巻にならないとは限らないのです。いったんピアノを弾けるようになっても、世の中には、いくらでもプロの演奏家たちがいます。悪いことに、世界的に名声を博している子供のピアニストもいるのです。自分にないものをほんのわずか手にはしたが、世の中を見ると比較にならないことになるのです。料理を上手になりたいと思っている人がいるとしましょう。苦労して料理を学びますが、満足はできないのです。世の中には、あまりにもじょうずな料理人たちが無数にいることを思い知らされるのです。心の中にある妄想の舞台で、恐怖を演じることになるのです。

 この状況を論理的に言えば、次のようになります。
足りない何かを手に入れようとすると、「足りない」という不満がますます増えるだけです。ピアノが弾ける人は、さらにじょうずに弾けたらいいなぁ、と思ってしまうのです。この現象は、世の中にあるどんな分野にも適合します。世の中の誰を見ても、自分にできない何かをできる人、自分が持っていない何かを持っている人で溢れているのです。羨ましくなる気持ち、欲しくなる気持ちは、制限が成り立たない。いつまで経っても、隣の芝生はより青いのです。

 それでもまれに、「世界一」になる人々もいることは確かです。では何かに対して世界一になった人に、不満の病が無いのでしょうか? いくらでもあります。一つのことで世界一になっても、その人にできないことは、また持ってないものは、無数にあります。
それらに憧れてしまうのです。音楽家として一流の世界的な人物になっても、その人は次に、商売に手を出してしまう。それで倒産して、あげくの果てに逮捕までされて終わる。だから、たとえ世界一になった人であっても、隣の芝生は青く見えてしまうということです。

 妄想にふけらないで、現実離れをしないで、自分にできないのは何か、自分の短所は何かと観察する人は、成長するのです。現実離れしない人は、何かに憧れてもそれを目指して努力するから、達することが可能です。しかし、「私にできないもの、私にないもの」ばかりを見出す人は、不満の渦巻に吸い込まれて自己破壊するのです。人は「私になにができるのか、それを完成するためにどうすればよいのか」と現実的に観察するならば、自己破壊へ進む「隣の芝生は青く見える」症状は、いくらかは無くなります。最低、発病しない程度で留まるのです。

 遠くから見ると、富士山はとても美しいのです。
感動します。釘づけになります。自分は何の美しさもない、周りにゴミも溜まっている場所に立って、美しい富士山を観賞すると、「私がいま立っているところは汚いですが、遠くに見える富士山の風景は桃源郷のように美しい」のです。それで、富士山に登りたくてたまらなくなる。苦労して富士山を登る。
その道のりでは、厳しいことばかりで、美しいと感動するものは一つも見つかりません。ひたすら頂上に挑戦するしかないのです。それで、富士山の頂上に登る。何を発見しますか? 富士山の頂上はあまりにも険しい、危険なところなのです。美しいものは一つもないのです。そこで、富士山の頂上に立って、遠くを見る。ものの見事に、富士山から見える遠くの景色は、桃源郷のように美しい。口まで開いてしまうほどです。「私がいま立っている富士山の頂上は険しくて美しくないが、遠くに見える風景はあまりにも美しい」のです。結局、いつまで経っても美しいものと一体になること、憧れるものを手に入れることは、不可能ということになるのではないでしょうか? しかし人間はみな、この無駄なことに挑戦しているのではないでしょうか?

 不安という恐ろしい怪獣は、絶えず生きとし生けるものを追いかけています。生きとし生けるものは、それを振り返って見ないのです。不安という怪獣が自分を追っていることに、やがて襲われることに気づかないのです。その代わりに遠く美しく見える蜃気楼を目指して走っているのです。止まって振り返って、不満という怪獣を倒せばいいのに、それは発見しないのです。ここまで書いたのは、ブッダが説かれた真理を学んでいない人々の生きざまです。

 エピソードがあります。お釈迦様の時代、ワッジ国の王家の一人が出家しました。このワッジ国は議会制度で統治される共和国でした。王家の人々が順番で議長(王)になるのですが、その人は自分に議長の順番が回ってきたのに、それを止めて出家したのです。出家してから、森の中で庵を作って、一人で修行していました。年に1回、インドでは最大の星祭があります。これは日本でお盆にあたる時期に行うお祭りです。王家の人々はみな、派手に身を飾って、家来と国民と一緒に祭をします。国じゅうが音楽、踊り、その他の芸術で大騒ぎになって、飲み物や食べ物で溢れるのです。みなお洒落をして、食べて飲んで、芸術を鑑賞したり踊ったりするお祭り騒ぎが、森の中にも届いてきました。庵に一人でいたこの比丘は、突然、淋しさに襲われたのです。自分も在家でいたならば、大勢の人々に囲まれて楽しく遊ぶことでしょう。いま、自分のことを振り返ってくれる、心配してくれる人は一人もいない。「私ほどついてない、不幸な人がいるのか」と思ったのです。彼は自分を寂寥感をこのような詩句で表しました。

 Ekakâ mayam araññe viharâma,
 Apaviddhamva vanasmim dârukam;
 Etâdisikâya rattiyâ,
 Kosu nâmamhehi pâpiyo. (S. 1.229)

 用無しとして捨てられた枝のように、
 私は独りで森に住む
 喜びに溢れた祭の夜、
 寂寥が私をかこんでいる


 その森に住んでいたある神霊が、この詩句に応えるのです。

 Ekakova tvam araññe viharasi,
 Apaviddhamva vanasmim dârukam;
 Tassa te bahukâ pihayanti,
 Nerayikâ viya saggagâmina. (S. 1.229)

 捨てられた枝のごとく、
 まさに汝は森に独住する
 昇天者を地獄の衆が羨むように、
 汝は諸人に羨まれる

 神霊の詩句を聴いたこの比丘は、正気に戻りました。自分にないものを羨む病から立ち直った比丘は、この出来事を釈尊に報告しました。釈尊が人間の揺らぐ心について、真理を語られたのです。出家したら、出家は厳しいものだと思って別なものに憧れる。在家生活は苦しいものである、出家生活は平安であると思って出家したのに、いったん出家してからは「出家生活は厳しい」と思うのです。この状況は、富士山のたとえで分かりやすいのです。麓にいれば頂上が美しい。頂上に登ったら麓が美しい。このような中途半端な気持ちでいる場合は、人になんの成長もないのです。会社にいると家が恋しくなり、家にいると会社が恋しくなるという、どうにもならない精神状態です。お釈迦様は、「このいい加減な気持ちの揺らぎに打ち勝つように」と励ますのです。出家が在家を羨み、在家が出家を羨む場合は、出家が出家生活を厳しい、在家が在家生活を厳しいと勘違いしているだけなのです。

 勘違いではなく、ほんとうに厳しい苦しい現状があるのです。それは、煩悩を脱していない生命が限りなく輪廻転生することです。ですから現実的に、「輪廻転生する性質を持っている自分のいまの状況が苦しい」と思うべきなのです。修行が苦しくて、在家生活は楽だと勘違いすることではないのです。それから、性格の合わない人々と同居することも、確かに厳しいのです。これは人が出家在家に関わらず気を付けるべきポイントです。気が合う仲間がいることは、たいへん楽しいのです。人格を成長させたいと思う人は、善友と仲よくしなければいけないのです。悪友と絡むと、在家生活も出家生活も失敗に終わるのです。

 隣の芝生は青く見える、という言葉は、現状で満足しなさい、という意味だと一般的に思ってはいますが、仏教は別な角度でこの言葉を解説するのです。
要するにいつまで経っても、人間には、隣の芝生は青く見えてしまうということです。現状に満足すると、進歩は無くなるのです。「現状に満足」とは、注意が必要な言葉です。人の成長、進歩を妨げてはならないのです。ですから、持っていない物に憧れても構いません。しかし、憧れるものは実現可能なものでなければなりません。

 そこで、仏教的に冒頭に述べたことわざを文字通りに使用してみましょう。
隣の芝生は青く見える。いま自分が立っている芝生は、輪廻転生する状況という荒れた土地です。隣は、青々とした芝生なのです。その芝生とは、煩悩を脱して達する究極の幸福である、「涅槃」なのです。仏道を歩む人は、「隣の芝生は青く見えるのではなく、確かに青い。ですから、私は隣の芝生へ行きます」という立場をとるのです。
「隣の芝は、青く見えるのではなく、確かに青い」のです。

今回のポイント

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