パティパダー巻頭法話
Sabbe satta bhavantu sukhitatta
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No.179 (2010年1月)
愚者は尊敬を期待する

 〜エゴを無くすことが尊敬に値する〜
 Only psychotics request obeisance
A・スマナサーラ長老
◎今月の巻頭偈
Dhammapada Capter XXI PAKINNAKA VAGGA
ダンマパダ(法句経) 第21章 種々なるものの章 (303)
 
303. Saddho sîlena sampanno
    Yasobhogasamappito
    Yam yam padesam bhajati
    Tattha tattheva pûjito

303. 確信と戒を満たし
    また財産と声望を持つ者
    行く先は何処でも
    皆の尊敬を受けり

 (訳 スマナサーラ長老) 

 お釈迦さまが住んでいた国から遠く離れたマッチカーサンダという地方に、チッタ(citta) という居士がいました。彼は在家信徒の中で智慧の第一人者でした。お釈迦さまに会ったこともなかったのに、サーリプッタ尊者の説法を聞いて不還果の覚りに達していました。チッタ居士は仏教徒になった時点から仏教の世界で名声を博しており、みなに尊敬されていたのです。出家比丘たちさえも、チッタ居士の前では緊張してしまうほどでした。彼は仏教徒として覚りに達していた智者というだけでなく、在家としても名声と財産に恵まれていました。しかし、チッタ居士は尊敬してもらうために仏教に興味を抱いたわけではないのです。自我意識を無くした人なのです。それでも、彼がどこへ行っても、行く先々でたいへん尊敬されるようになっていたのです。本人にとっては迷惑でしたが、相手の方々が勝手に尊敬したり供養したりするので、仕方がなかったのです。仏道を経験した先輩として、みなに仏法を教えたり、出家比丘たちの疑問などを解決してあげたりして、在家であっても指導者としての義務を果たしていたのです。今月の法句経の偈はチッタ居士がつねに尊敬されていたことについて語られたものです。ですから、尊敬とは何かと学んでみましょう。

 特に宗教の世界に見られる現象ですが、他人に尊敬されること、信仰されることを期待するのです。信仰してもらうために、何でもやるのです。他人が自分を尊敬の意で仰ぎ見るべきだと思うこと自体、精神病以外の何者でもありません。自我・エゴの丸出しです。普通の人々は、自我病で悩んでいてもその病状は良いことだと思わないのです。できることなら、謙虚に人の話にも耳を傾けて、生活したいと思っているのです。それほど問題を起こす人々ではないのです。しかし、自分が病気だと気づかない人々が、突然、精神の世界に興味を抱くことにするのです。自分の幻覚・妄想状況は特別な能力であり、超自然現象であり、神のお告げであり、等々のことを考えるのです。人は自分の精神的な不安、こころの悩み、ストレスなどは、誰かに言いたくなるのです。他人に認めてもらうことで、気持ちが楽になるのです。ですから、こころの内を他人に明かす時は、共感してくれる人、賛成してくれる人、認めてくれる人を選ぶのです。ダメ出しをする人を極力避けるのです。

 それで賛成してくれる人々を探すのです。気が弱い人、他人の話に簡単に乗る人、神秘世界・精神世界が面白いと思う人、もしかすると何かあるんじゃないかと思う人は、社会にあり溢れています。だから、私は神様だ、私はいま神の力を授かっているのだ、私には死霊が見えるのだ、霊界と通信しているのだ、人の心を読めるのだ、人の将来を見られるのだ等々と言う人には、その話を信じてくれる人々がいくらでも現れるのです。そこで宗教が成り立つのです。開祖様が尊敬されて、拝まれるのです。治療しないので、精神病は進む一方です。病気の進み方次第で、信者さんにも、社会にも、様々な迷惑をかけるのです。開祖様の程度に成りあがると、明らかにmegalomania(誇大妄想症)という病名に当てはまります。

「他人に尊敬してもらいたい」というエゴで病んでいる人の病気は、自分のことを納得し、また賛成してくれる人々の数が増えるほど悪化していくのです。ある程度まで信者が増えていくと、神の使者になったり、次に開祖様になったり、最終的に自分が神になったりするのです。病気の進行具合は、信徒の数で決まります。発病するかしないかに関係なく、妄想そのものが精神病のウィルスなのです。妄想とは、簡単に増幅するものです。「人は自分のことを尊敬するべき」と思う妄想が、自分を信じてくれる人々の数によって増えていくのはごく当たり前の現象です。

では、信じる人々が、相手が詐欺師だと分かって出ていく場合は、病気が治るでしょうか? 治るならば有難い話ですが、治らないのです。本人は、社会に対して激しい怒りを抱くようになるのです。破壊的になるのです。それも失敗すると、自己破壊して終わるのです。

 それからこの問題について、仏教的な立場を説明します。「敬うべき人々を敬いなさい(pûjâ ca pûjaneyyânam)」と、吉祥経に記してあります。それは、幸福になる項目の二番目です(全部で三十二あります)。ということは、人を敬うことは、一概に悪くないようです。しかしお釈迦さまは、「人を敬いなさい」と無条件には説かれていないのです。条件があります。敬うに値しなくてはいけないのです。

ですから、「敬うべき人を敬いなさい」と説かれたのです。「では、敬うべき人は誰ですか?」という説明を後回しにして、別なことを考察してみましょう。「私のことを敬って欲しい」と思うこと自体、恐ろしい妄想なのです。敬うべき人を敬うのは、理性ある人の正しい生き方です。なぜならば、人は学ぶことで成長するからです。神秘・超能力・予言などに憧れることは、迷信主義です。その人々は、自分で事実を発見すること、真偽を調べることはしないのです。豊かになるためには、宝くじを買うことが正しい道だと真剣に思い込んでいる人々なのです。(ダメもとの遊びで宝くじを買ってみる人々は、この枠に入りません。)これでは、人は成長するどころか、精神的に退化してしまうばかりです。ですから、尊敬を求める人々と付き合ってみるのも一つの研究かも知れませんが、いつでも逃げられるように非常口を確認しておいた方がいいのです。尊敬を求める人々は、超能力・神のお告げなどを商品として出してきます。相手を何としてでもマインドコントロールしておこうとするのです。信仰があることは、世の中ではたいへん善いことだと思われています。しかし、信仰するとは、実証されていない概念を信じることなので、マインドコントロール以外のなにものでもありません。実証されていない概念は、仮説か妄想かです。仮説の場合は、これから実証しようという方法論を持っています。「汝は○○神を信じるならば、死後、永遠の天国に召されます」と言われる場合は、実証する手段はありません。だから、明らかな妄想です。妄想を真剣まじめに他人に解き明かす人は、言うまでもありません、精神病です。

 宗教における妄想と仮説の区別を考えてみましょう。「隣人を愛しなさい」と言われると、妄想ではなく仮説です。私たちは隣人を愛してみて、どんな結果になるのかと確かめることができる。善いことは一つもなければ、「隣人を愛しなさい」とは正しくないと決めることもできる。「神が汝を愛するからこそ、隣人を愛しなさい」は妄想です。神が私のことを愛するならば、私が神を愛するべきだと言うならば、理屈だけは通じます。しかし、神とは何でしょうか?

 実証不可能な概念でしょう。したがって、完全に妄想です。言葉を言い換えてみましょう。「田中さんが、困っていた私に百万円を無利子で貸してくれたのです。私は感謝を込めて、鈴木さんに百万円を返します」と。このようなことは、論理にもならないことは明確でしょう。ですから、「神が汝を愛するからこそ、隣人を愛しなさい」というのは、完全な妄想で、人々をマインドコントロールする狙いで言う言葉になるのです。

仏教を学ぶ人々も、ブッダの言葉は仮説と妄想に分けられるのかと調べても構わないのです。事実・仮説・妄想という三段階に分けてみるのは楽だと思います。

しかしこれは上手くいかないと思います。ブッダの言葉とは、すべて実証済みの言葉なのです。ですから、事実というカテゴリーに入ります。修行実践なども、仮説にならないのです。幸福・解脱という結果が確実に現れることを実証されてから、説かれているのです。修行に励む人にだけ、実践方法は仮説になります。だから、仏教は信仰に反対なのです。マインドコントロールに反対なのです。マインドコントロールされている人々に、仏教を理解することも難しくなるのです。

 私を敬いなさい、私のみを信仰しなさい、他を信仰するなかれ、などの言葉は、精神病に罹っている人々の妄想です。したがって危険なのです。次の問題は、「敬うべき人」とは誰のことかと理解することです。

 自我・エゴとは、危険な概念です。概念とは言えないのです。概念と言うためには、何かそれなりの情報が必要になります。自我とは、妄想であり錯覚なのです。五感から入る情報によって、我々に、「自我がある」という錯覚が起こります。五感から入る情報を、我々は自分の都合で合成するのです。ありのままに観るのではなく、あってほしいままに世間と自分を観ているのです。この誤った認識プログラムによって、自我・エゴという錯覚が生まれるのです。
仏教は、自我とは錯覚であることを実証するために語ります。実証する方法も教えるのです。錯覚であると発見することは、言葉を変えると、「自我が無い」ということになるのです。

 仏道を実践すると、自我の錯覚が無くなることになります。自我・エゴの錯覚が無い人、自分が何者でもないと発見している人は、「我を尊敬しなさい」とは思うことすら無いのです。その人に、「我」は幻覚なのです。簡単に敬ってもらう手段として、仏教の修行に励む人々もいます。ここは大いに困るところです。Megalomania で病んでいる人は、尊敬してもらうために、信仰してもらうために、何にでも頼るのです。しかしその人々には、仏道はたいへん苦しい実践になります。何でもいいから超能力っぽい何かの体験を得て、早くこの苦しい修行を止めたいという気持ちになるのです。自我の誇大妄想を肯定したいと思って自我の錯覚を破る実践に励むということは、理論的に成り立たないのです。気持ちよく、明るく、実践できるはずもないのです。寒さは大嫌いな人、寒さにまったく耐えられない人が、冬の雪山に挑戦するようなものです。このような人々は、仏教の世界でトラブルをつくります。尊敬してもらうために、あらゆる手段を使うのです。大寺院を造営したり、世界一の大仏を建立したり、何十万人もの人を集めて大法要を行ったりするのです。人を占ってあげたり、祈祷してあげたり、結婚する相手が本人の性格に合っているか否かを調べてあげたりもするのです。人の人気と信仰を買うために、歩き方、話し方、坐り方、衣の巻き方、等々に精密に注意をするのです。お釈迦さまの言葉をそのまま言うならば、「この人々は、大便小便をする時でさえ、誰かに尊敬してもらうように企むのだ」ということです。

 自我が成り立たない世界に、自我を肯定する目的の人が入るということは、仏道に入ってから邪道で精進することになるのです。当然ながら、解脱の道に進むのではなく、逆行するのです。尊敬してもらう道とは、ブッダの教えでは、健康で長生きしたい人に青酸カリを飲ませるようなものです。仏道は尊敬してもらうために歩む道ではありません。尊敬してもらいたくなる、「自我」という恐ろしい精神病を治す道なのです。

 それでも、「敬うべき人々を敬いなさい」とは、ブッダの言葉なのです。そこで「敬う」というのは、自分を導いてくれる指導者を仰ぐことです。逆らったり、攻撃をしたりしないで、素直に指導されたとおりに実践する気持ちのことです。分かりやすく言えば、指導者には、「敬ってほしい、尊敬されたい」という気持ちは起こることさえもないのです。逆に、弟子が指導者を自分勝手に敬わなくてはいけないのです。敬ってほしい人は、相手を奴隷にする。マインドコントロールする。褒め称えたり、おだてたりする。出来の悪い弟子を一人前の仏弟子として育てること、煩悩で汚れているこころを悟りの境地に達するまで導くことは、指導者にとってたいへんな苦労なのです。尊敬されると師匠として責任ばかり増えるので、決して気持ちのよいものではありません。ありがた迷惑なのです。自我の幻覚を無くした人には、独りで生きることは安らぎなのです。弟子たちが入ることで、厳しい修行を経て達した精神的な安らぎを味わう暇もない、迷惑以外の何でもないのです。それでも、無知のせいで輪廻転生して苦しんでいる人々のことをあわれむから、指導をするのです。

お釈迦さまの四十五年間の伝道は、人類に尊敬してもらうために行ったものではありません。後世の人々に大寺院を建立させて、巨大仏像を造らせて、自分のことを尊敬してもらうために行ったわけではないのです。お釈迦さまは、涅槃に入る少々前に、「私を尊敬する者は、私が説いた仏道を歩む者だ」と告げられました。戒律を守り、仏道を実践してエゴの錯覚を破る努力をする人が、他人に尊敬されてしまうことに、他人から導きを請われることに、結果的になるだけです。目的ではありません。

今回のポイント

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