パティパダー巻頭法話
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No.18 (1996年8月)
「人生の目的 PART-2」
〜一切の束縛から逃れる為に〜
A・スマナサーラ長老

 道徳的な生き方により人格を完成することを人生の生きる目的としましょうと先月号で述べました。
道徳的な面で気づきながら生きることもなかなか大変なことです。瞬間的に生まれる感情が生きる衝動になっていることがごく普通のことなのです。生きる上で、社会的にも精神的にも様々な問題が現れるのも、我々が感情に支配されているからです。感情的に生きる道を人格完成の道に変えることは大変なことです。それを実行するには、常に自分に気づいていることが必要になってきます。言いかえれば、いつも目覚めている状態を保つことが必要なのです。

ひとつの方法を具体的に説明しますと、まず我々は、世の中のことも自分の生命のこともよく知らないということを認めることです。我々はどう生きるべきかとか、将来どうすべきかとか、何のために生きているのか、などということも、わからないのだということを正直に認めるということです。人生に対して宗教家も思想家もいろんな意見を言っていますが、我々はそれも正しいかどうかを自分で確かめたことはないので、結局は自分にとって人生というものは、理解していないものになるのです。ですから物事を、正しい、正しくないなどと判断したがる気持ちを抑えておかねばなりません。この世の中は、結局何が正しいのか、何が正しくないのか、判断しにくくなっています。世間が今日正しいと認めるものが明日になって正しくないということもたびたびあります。世の中の価値観はよく変わるものです。それに左右されて生きている我々人間もよく苦労します。我々には、これが正しいとしがみついて生きる生き方は本来あり得ませんので、判断したがる気持ちを抑える努力をして無知になるために励みます。無知になるとはただの馬鹿になることではないことを理解して下さい。物事をありのまま理解するのだから、すぐの判断、結論などは不可能になったということでしょう。

 普段私たちには、あれをやりたい、これはやりたくない、また、ああなりたい、こうはなりたくない、という判断が無数に心の中に詰まっています。でもその判断どうりには生きていられないのです。やりたくないことをやらなくてはいけないときも、なりたくないものにならなくてはいけないときもよくあります。たとえば、教育ママだけにはなりたくないと思う若い女性が母になったところで、教育鬼ママになることもあります。サラリーマンになるのはいやと思う若者が、結局サラリーマンにならなくちゃいけないことになるケースもあります。人が悩みにぶつかるのはやりたくないことをやるときばかりではありません。自分のやりたいことをやっているときも問題を作ります。やりたいことばかりやっているときには、他の責任を忘れたり、自分勝手な人間になるということも起こります。自分の人生についても世の中のことについても、結局判断はしにくいと知っている人は、人生においても、あれをやりたい、これをやりたくないという考え方はやめた方がいいです。そのときそのとき、やらなくちゃいけないことを、しっかりとするべきです。自分の好みに関係なく、責任を果たす人は、この世の中で幸福にトラブルなく生きられます。

 しかしただそれだけでは人格完成を得られません。何をしてもそのすることから人格を向上させる何かを学ばなくてはいけません。何をしたかより何を学んだかが重要です。学ぶという意味は、人格を少しでも向上させることです。たとえ人が不幸にあっても、それは不幸だと見ないで、その出来事から何を学べるかを発見するべきです。たとえば合格して学ぶこともあるし、落第して学ぶこともあります。いやなことをやらされたからといって悩むのではなく何かを学ぶ、好きなことをやれるからといって酔うのではなく何かを学ぶ。つまり、我々が生きるなかで出合うことの中に無駄なことはないと知ることです。何か学べると常に気づいていると、する事に関係なく我々の人生は意義あるものになります。

 感情的な生き方では、欲、怒り、嫉妬、高慢、わがままが生まれる、心の狭い人間になる、協調性を失う、人間として堕落する、そして最終的には不幸になるし、生きることが無意味にもなるのです。学ぶことというのは嫉妬、怒りなどのかわりに慈しみの精神、欲のかわりに無執着の心を持つ、そしておおらかな人間になり、よく物事を理解できるようになる、何が起ころうが混乱しない精神的安定、平安が生まれる…そのように徐々に人格を向上させていくということです。つまり何をしても生きることそのものを成長の道とすることです。そこまでが人生のリハーサルなのです。

 では何のために人格を完成させるのでしょうか。感情的に生きる生命は、存在の真理はなにひとつも知らない暗闇のなかで、ああではないか、こうではないかとただ手探っているだけです。苦しみはいやといいながらも苦しみを乗り越えることもできない、人格完成することによってこの暗闇に智恵の光を照らすことができます。生命を束縛されている、この生きるという現象は、無意味で空しいものであり、無常である、幻想であるという智慧が現れます。無常なるものに執着してとらわれていくら苦しみを味わっても無意味であると、存在に対して、明らかになります。それによって心の一切の束縛、煩悩が消えて、解脱という自由を体験できます。その人の智慧は完全であり、すべての人の智慧よりすぐれているのです。解脱を得ることは人生の最終の目的であり、人生の本番です。その人にはそれ以上、なすべきことは何もありません。この状態は最高なる幸福だと、お釈迦さまはおっしゃっています。毎日自分に気づいて何かを学ぶことによって人格完成を目指す人こそ、その状態に達することができるのです。人間は自然に精神的に向上していくという意見がありますが、常に自分に気づき、学ぶことによってのみ、向上するのです。ただ適当に生きているだけでは堕落するだけです。

今回のポイント

◎経典の言葉
Yathâ sankhâradhânasmim ujjhitasmim mahâ pathe
Padumam tattha jâyetha sucigandham manoramam
大通りのそばの泥の沼に清らかな香りを放つ美しい蓮の花が咲くように、
Eavam sankhârabhûtesu andhabhûte puthujjane
Atirocati paññâya sammâsambuddhassa sâvako
泥沼に似たような無知で生きている人々のなかで、仏陀の弟子は智慧を持って光輝く。
(Dhammapada 58,59)
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