パティパダー巻頭法話
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No.186 (2010年8月)
不倫とはどんなもの?

 〜仏教から見る性行為の話〜
 Promiscuity
A・スマナサーラ長老
◎今月の巻頭偈
Dhammapada Capter XXU NIRAYA VAGGA
ダンマパダ(法句経) 第22章 地獄の章 309〜310
309. Cattâri thânâni naro pamatto
   Âpajjati paradârûpasevî
   Apuññalâbham na nikâmaseyyam
   Nindam tatîyam nirayam catuttham
310. Apuññalâbho ca gatî ca pâpikâ
   Bhîtassa bhîtâya ratî ca thokikâ
   Râjâ ca dandam garukam paneti
   Tasmâ naro paradâram na seve

309. 放逸にして他の妻を
    追い求むれば四事のあり
    先づ禍、楽しく臥することのなく、
    第三 そしり、四に地獄。

310. 悪趣におちておびえつつ
    逢う楽しみは僅にて
    王は苛酷の罰を課す
    親しむなかれ 他人(ひと)の妻
                  (和訳 江原通子) 

 アナータピンディカ居士の甥のケーマカは評判の美男子でした。その人が視界に入っただけで、女性たちはメロメロになって、礼儀作法も忘れて、頭が性欲に支配されてしまいました。この男も、そんな状況が決して嫌ではなかったのです。隙を見て、美女たちの要求に応じたのです。彼の人生は、人妻たちと不倫することに大忙しでした。しかしこの不倫の罪は、当時のインドでは斬首にもなりかねない重罪でした。ある日、ケーマカは王の代官に逮捕されて、王のところへ連行されました。アナータピンディカ居士はお釈迦さまの第一の在家信者であったので、国王も彼のことをたいへん尊敬していました。ケーマカを処罰することで、尊敬に値するアナータピンディカ居士の名誉が傷つくと思った国王は、彼を釈放しました。

 不起訴処分で釈放されたものの、ケーマカさんは自分の女癖の悪さをなかなか改められなかったのです。彼は、同じ不倫の罪で逮捕されて、また恩赦を受けて釈放される、ということを二度も三度も繰り返しました。そうなると当然、王の裁きの公平性について、国民の間で疑問の声が高まります。アナータピンディカ居士の身内だけが特別扱いされているという非難が起こって、当のアナータピンディカ居士の立場も微妙なものになってしまったのです。

 この問題を何としてでも解決したいと思ったアナータピンディカ居士が、強引に甥を連れて祇園精舎にお釈迦さまを訪ねました。居士は状況をお釈迦さまに説明し、「尊師、この男に説法なさってください」と頼みました。お釈迦さまは彼に、邪淫の罪について説法なさったのです。

 男女の関係について仏教は何を語っているのかと、この際、理解したほうがいいと思います。お釈迦さまは、真理を語るときでも、道徳・戒律などを制定するときでも、まず明確な定義をするのです。定義に基づいて真理を語るから、仏教には「あいまい」は無いのです。人々に自分の好みでブッダの教えを改良・改革することもできないのです。

 社会の一員として、女性の立場はどうなるのかと定義しましょう。それは簡単です。女性は守るべき存在です。子供のころから年頃までは、親が守るべきです。守るということは、保護者として責任を持っていることです。もし両親が亡くなったならば、年上の兄弟に、または父方か母方の叔父に守られなければいけないことになっているのです。結婚したら、夫が保護者になるのです。歳をとって夫も亡くなったところで、その女性は自分の子供たちが守って面倒を見てあげるべきです。

 なんだか女性に自由が無いように感じられる話かもしれません。いい加減でワガママで、好き勝手に生活できる自由は、女性に限らず男性にもないのです。仏教でいう「守り」の意味は、男たちは気楽に女性に手をだすなよ、という話です。女性には、生まれてから死ぬまで保護者がいるのです。その保護者が認めない限り、その女性と好きにつきあうことはできない、という意味になります。他宗教で言われているような「女性は手首から先と足首から先以外、家族以外の男性に見せてはいけない。女性は家から出てはいけない。家の事柄について女性には判断する権利がない。子供に対する権利はすべて父親のみで、母親には何の権利もない」などの話は、仏教にはまったくありません。「家の権利はすべて妻に委託するべきです」と釈尊は説かれているのです。
理性のある妻が、夫・子供・家の財産などを見事に管理するのです。夫に雇われている人々がいるならば、その人々の間で問題が起こらないように手を施すのも妻の仕事です。仏教の社会では、女性には仕事が多いのです。女性蔑視などの概念は、仏教徒の頭の中にないのです。

 女性たちは家族に、子供に、強い愛着を持っているので、時々、感情的になってしまう場合はあります。その時、男性は、女性を叱るのではなく、大事に守ってあげなくてはいけないのです。「妻をしょっちゅう褒めなさい」というお釈迦さまの命令があります。それも女性をおだてる目的ではないのです。褒めておだてて女性を自分の好きなようにすることはできると思うこと自体が、女性蔑視なのです。この世の中で、女性たちが命を守り、育て、管理し、それから自由にさせるのです。大人になって自由に生きていても、母親は一生、子供のことを心配するのです。だから女性を褒めるべきなのです。夫は妻を褒める。子供は母親を尊敬する。これが一般的な仏教家族のしきたりです。

 というわけで、定義の言葉に出た「守る」とは、女性を束縛する意味ではなく、男女関係の場合に使う言葉になるのです。ですから、女性と関係を結ぶことができるのは、夫だけになるのです。夫が保護者なのです。妻以外の女性たちは皆、誰かに守られているのです。皆に保護者がいるのです。仏教で戒めている邪淫は、現代的なキリスト教などのパクリではありません。神が一人ひとりの男に一人ずつの女を決めている、という迷信も仏教にはないのです。神が選んだ相手なのに、なんで離婚するのかと疑問です。神の頭がおかしいか、離婚する二人が神を冒涜しているか、どちらかです。

 正式的な結婚儀式というものは、仏教にはありません。男が気に入った女性の両親にお願いを立てて、両親もその女性もその男のことを信頼しているならば、結婚は成立なのです。仏教なら離婚は罪にならないのです。男が約束を破って保護者としての責務を果たさなかったならば、また女性も他の男のことを気に入ってそちらで守ってもらいたいと思うならば、離婚はできるのです。

 なぜ世に結婚制度があるのでしょうか? それは自然法則だと思います。女性は体力的に弱いのです。これは一般的な話で、例外もけっこうあります。妊娠・出産すること、授乳することは、女性の仕事です。人間の子供はやけに弱いのです。一年経っても、ろくに動けないのです。簡単に病気にかかるし、動物たちに襲われて食べられてしまうこともあり得るのです。最低、五、六年間でも、母親が家に留まって子供の面倒を見なくてはいけないのです。これが年中無休の仕事なのです。女性を妊娠させた男に、その女性と子供を守る義務が自然に生じているのです。
それで、結婚という社会現象が成り立っているのです。存在もしない神が決めたことではないのです。子育てに手がかかる動物も、夫婦生活をするのです。生まれてすぐ走りまわる、泳ぎまわる生物の場合は、夫婦関係は成り立たないのです。

 仏教は解脱に達する道を教えるのです。それにはすべての物事に対する執着を捨てなくてはいけないのです。教理的には夫婦関係について云々というのは、仏教の管轄ではないのです。解脱を目的にして出家する男性にも女性にも、性行為は断言的に禁止です。性行為は執着を作る行為であって、なくす行為ではありません。仏道と正反対の道なのです。性行為をした出家は、サンガの一員としての資格を失うのです。在家仏教徒は、家族を守ることで精一杯なのです。社会的な責任から解放されるまで、解脱を目指して真剣に励むことはできないのです。出家以外の人々の性行為に対して、仏教は何の反対もないのです。(反対したからと言って、人が性行為をやめることはないでしょう。)しかし人を妊娠させて逃げるなら、それは悪行為以外の何でもないのです。

女性と遊ぶ男性は、女性の人権を侵害しているのです。人間を遊び道具にしているのです。男性と遊ぶ女性も、女性として社会のために欠かせない責任(子孫を作って育てること)を果たさなくてはいけないのに、それを無視しているのです。また、父親のない子供を産んだら、母も子も苦しむことになるのです。その子は精神的に健全な大人になれない可能性もあります。ですから、夫婦以外の性行為は悪行為になるのです。

 もし社会が認めるならば、一夫多妻であっても邪淫にはならないのです。一人の男が何人かの女性を守っているだけの話です。逆に一妻多夫制度も構わないのです。一人の男に守られるよりは、二人に守られるほうが安全でしょう。しかし仏教徒は社会常識を破ってはならないのです。もし破ったならば、仏教は野蛮な宗教だと非難を受けるのです。世界にある唯一な理性に基づいた教えが非難を受けるような態度を取れば、それは多数の人々を仏教から引き離す行為になるのです。したがって、社会常識を破ることも、場合によって重罪になります。仏教では一夫多妻も一妻多夫もオーケーだとぬか喜びした人がいたならば、残念でした。

 性行為そのものは大したことではないと思った一人の比丘がいました。しかしお釈迦さまは、とても厳しい言葉でその人を戒めました。行為そのものは大したことではないかもしれませんが、「こころを性欲に染めない限り、性行為はできない」と、お釈迦さまが説かれるのです。ですから、こころが汚れること、精神状態が堕落することを覚悟しない限り、性行為に至ることはできません。麻薬と同じはたらきなのです。夫婦関係の場合は、若い時は頭が欲だけでいっぱいになっていても、徐々に冷めてくるのです。最後に残るのは、互いに心配する、いたわりあう気持ちなのです。互いに精神的にも支え合って生きるカップルになるのです。連れ合いが、一生つきあえる、信頼できる友人になってしまうのです。
それは人間にとって幸福なことです。修行することに決めても、その気持ちは支えになるのです。ということは、夫婦の間の性行為は、精神的な堕落に、罪を犯すことに繋がらないと言えるのです。

 邪淫は罪です。その罪を犯したらどのような苦しみを受けるのか、ということがまた問題になっています。注釈書などには、たいへん厳しいことが書いてあります。妄想を活かして地獄物語を語った仏教徒も、生々しく邪淫を犯した人々の苦しみを描写しているようです。日本でもよくお目にかかる地獄絵図にも、けっこうなスペースを割いて邪淫を犯した人が堕ちる地獄の様子が描かれています。性行為をしただけでそこまで酷い目に遭うのか、というのは疑問です。今月の話で、邪淫はなぜ罪になるのかという理論的な立場を説明したのです。結論として、夫婦以外の性行為が無罪ということは成り立たないのです。邪淫は、人間の社会においてのみ罪なのです。社会組織が乱れて、皆、不幸になるのです。精神的にも悩んだり病気になったりもするのです。また、子供を犯したりするなど恐ろしい罪に至ったり、愛憎によって人殺しを犯したりするはめにもなるのです。

 最後に色男のケーマカにお釈迦様が何を説かれたのでしょうかと考えてみましょう。放逸で(性的妄想に耽り)邪淫を犯す人は四つの不幸に陥ります。
 一、不善行為をします。
 二、夜安らかに眠れない。
 三、非難を受ける。
 四、地獄に堕ちる。
地獄絵図ほど、お釈迦さまはケーマカを脅してないみたいです。社会的、現実的問題を語られているのです。次にその行為の報いについて語られているのです。不善行為をする人は、悪の道を歩む人になる。怯え震えながら、緊張しながら、性行為をするはめになる。それから得る喜びも取るに足らない僅かなものである。政府によって重い罰を課せられる。ですから、人は邪淫を戒めるべきです。ケーマカは預流果の覚りに達しました。その日から、生活を改めたのです。

今回のポイント

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