パティパダー巻頭法話
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No.188 (2010年10月)
人生の選択

 〜意志を管理すると正しい選択ができる〜
 Management of freewill
A・スマナサーラ長老
◎今月の巻頭偈
Dhammapada Capter XXU NIRAYA VAGGA
ダンマパダ(法句経) 第22章 地獄の章 314
314. Akatam dukkatam seyyo
    Pacchâ tappati dukkatam
    Katañca sukatam seyyo
    Yam katvâ nânutappati

314.
   悪行為なら しない方が勝れている
   あとで悩むことに 苦しむことになる
   善行為なら おこなう方が勝れている
   あとで後悔することにはならない
            和訳 スマナサーラ長老

生きることは行為である

生きる、生きている、という言葉を使うとき、我々は何を意味しているのでしょうか。生きていると自称する場合、具体的に何をやっているのかと考えれば、生きることの意味が分かるかも知れません。呼吸をする、ご飯を食べる、掃除洗濯などをする、勉強をする、仕事をする、遊ぶ、皆と会話をする、考える、休む、寝る、などの行為をすることに、生きていると言っているのです。生きている人がやっている行為は無数なので、すべてのリストを作るのは大変です。おしゃれをする、議論する、競争する、落ち込む、興奮する、怯える、なども行為なので、完全なリストを作らなくてもいいと思います。生きるとは、何かの行為をし続けることであると、まず理解しましょう。

行為を起こす意志

 料理を作る、勉強する、仕事をする、競争する、遊ぶ、などの行為は、意志によって起こるものです。これは明確にわかることです。しかし、呼吸する、心臓が動く、眠くなる、消化する、などの行為は意志に管理されていないように見えます。それで世間では、無意識という言葉までつくっています。しかし仏教では、無意識という概念はありません。であるならば、呼吸することも心臓の鼓動も、意志の命令で起きていることになるのです。無意識を認める世界の知識と、無意識の概念のない仏教の知識と、どちらが正しいのでしょうか。

 「私は本を読む」などの行為の場合は、私、という主語があるのです。しかし、「私は心臓を鼓動させている」とは言えません。
だから、意識と無意識という二つの概念が必要になるのです。ということは、無意識を認めるために、個体としての「自我」が、前提として必要なのです。自我がないと力説する仏教では、「無意識」という概念がないのは当然なことでしょう。

 では、呼吸,心臓の鼓動、消化する、などの行為は、意志の指令で起きているのでしょうか。
仮に、この私、と言い張っている自我に、呼吸を一時的に止めることを頼みましょう。わかりにくい文章になったのですが、その意味は「いったん呼吸を止めてみましょう」ということです。
実験してみると、耐え難い苦しみが起きて、どうしても呼吸をせざるを得ない状態に置かれていることを発見します。同時に、生き続けたい、死にたくはない、という基本的な渇愛が、強烈に縁の下で機能していることを発見します。ということは、人は気づいてないだけですが、呼吸、心臓の鼓動、消化すること、などの行為は、強烈な意志「生存欲」によって起きていることになります。

無意識と言えるどころではなく、意志の力があり過ぎのところです。本を読む、などの場合の意志は弱いのです。本を読むと決めたのに、止めます、と決めることも簡単です。お腹がすいてご飯を食べますと決めて食べている途中でも、より大事な出来事が起きたら、ご飯を食べることを止めるのです。しかし、呼吸することは何があっても止めないのです。無意識だと言っている意志は、強烈な意志なのです。意識的、意図的という行為の意志は、弱いものです。いつでも変えられます。

 それで、二種類の意志があることを発見できます。
呼吸する、心臓が鼓動する、などの「人の意志」で管理できない自然法則として必ず起こる意志。
自由自在に変えることのできる、誘惑に弱い、勉強する、仕事をする、などの行為を起す意志。
簡単に管理できる意志と、管理不可能な意志、という二種類になりますが、結局は意志なので、生きる、という行為は意志によって起こるものだと理解することができます。

自我は事実をごまかす

料理を作る勉強をする、仕事をする、などの行為は、「私の意志で行っている」と簡単に言えるものです。
ことばとしては、「私は料理を作る」などの表現も可能です。時々、「私は呼吸している」とも言えますが、寝ている間でも呼吸しているから、その文章は正確ではないのです。「私は心臓を鼓動している」という文章は成り立ちもしないのです。しかし、世界はすべての知識を「私」という主語で統一しているのです。
ですから、実際に、私・自我・命・霊魂などの何かが永遠不滅に存在すると信仰しているのです。自我の存在は、証拠にもとづいて立証されてもいないし、しようともしない、立証することもできない概念なので、迷信以外の何ものでもないのです。

 「私は勉強している、私は考えている、私は神を信仰している、私は地球が丸いと思っている」などの言葉で「私」を主張する人々は、何か大事なことを忘れているのです。
まず、生きる、生きている、という行為があります。生きているから、私は勉強している等々と言えるのです。言葉上では、「私は生きている」と言えますが、人は意図的に生きているわけではないのです。意図があってもなくても、生きています。生きているとは、行為の連続なのです。
「私」という自我を主張する人々は、私がいる、という錯覚を引き起こした基礎行為を調べてないのです。生きているという基礎行為から起こる二次的な行為である、勉強する、考える等の行為だけ気にするから、私、という自我が、錯覚であることに気づかないのです。この二次的な行為で、真理を発見するのではなく、真理をごまかすのです。

 唯一絶対の神が存在するのかと、訊かれたことがあります。私は「絶対あり得ない。それは原始人の迷信以外なんでもありません」と答えて、大いに反感を買ってしまいました。結局は、「私は生きている」という実感があった上で、二次的に起こる思考でしょう。「私は生きている」とは何かと調べようともしないで、人はよくも二次的な妄想概念に縛られていることです。「私が」という概念、また、自我という錯覚が、真理を明らかにするのではなく、ごまかしの間違った結論に導くのです。

認識できる意志

 意志は二種類に分けられます。これは前に説明しました。それで、本を読む、仕事をする、などの行為を起す意志のことは認識できると思います。しかし、生きる、という基礎行為を司る意志は、このままの能力では認識することができないのです。認識できない意志は、強烈なのです。ふつうはそれが管理できないのです。手におえないのです。勝手に起きているのです。それが一般人に理解できる範囲の考えですが、仏教は「苦、渇愛、無明」などの概念で、説明してあるのです。智慧が現われると、管理不可能な意志の管理もできるのです。

意志は弱い

 これから、管理できる意志について考えてみましょう。この意志は基本的に弱いのです。人は時々、強い意志で行動する場合もあります。しかしこの意志は、いくら強いと言われても変えることができるのです。人は弱い意志を強くするために、たいへん苦労しているのです。善いことをしようとする意志なら強化するのはいいのですが、悪いことをする目的の意志は強化しない方がよいのです。しかしこの世で、時々、我々に悪いことをしなさいと言われる場合もあります。子供同士の場合は、仲間に万引きをさせる。大人の場合は、帳簿をごまかしたり、経費を水増ししたりすることがあります。そのようなことをしなさいと言われると、初心者はためらうのです。やる勇気が出てこないのです。意志が弱いことは当然です。そのような人を世界が「弱虫」と呼ぶのです。善いことに意志を強く持つと、例えば勉強することに、仕事をまじめにこなすことに専念すると、世界が褒めてくれないのです。バカか、バカ正直か、と言われるでしょう。また、面白くない人間だとも言われるかも知れません。

 これは現実なので、ふつうの人間はあえてがんばって強い意志を持って、悪行為をするのです。それ以外は、弱い意志で生きているのです。善い行為をする意志は、強化する必要があるとも思っていないのです。善い行為は非難を受けませんし、ヤバくもないのです。しかし、簡単に誘惑されるのです。面白くない人間だ、退屈な人間だ、バカだ、等々と言われると、善い行為をする意志が消えて、みなに合わせて悪行為をする意志を引き起こすのです。悪行為をしたいと思っても、批判される恐れ、処罰の恐れがあるから、意志を強化しないと行為を実行することができないのです。従って、意志が弱い、という現状は、なかなか変わらないのです。

強い意志を持つとは

 無批判的に、「強い意志を持つべきだ」と言ってはならないのです。
人間は貪瞋痴の衝動で行為を起こして生きています。だから、人の意志は基本的に悪行為を引き起こすのです。人には悪行為がしやすいのです。しかし軽い気持ちで罪を犯すことができないのです。悪行為をして生きる人間を、大胆な罪を犯す行為に誘惑することはそれほど難しくないのです。それでも普通の人は、罪を犯す時は強い意志を持たなくてはいけないのです。このような一般的な意志の強化は、するべきではありません。善いことをしたくなる意志を、あえて強化したほうがよいのです。善いことをする場合、周りはそろって応援して、意志を強化してはくれないのです。主に善いことをして生きる人は、仲間が少なくて、孤独感を感じることがあり得るのです。

 何としてでも善い行為を起す意志を強化しなくてはならないのです。仏教の業の話をよく理解することで、繰り返し繰り返し善い行いをすることで、意志は強くなるのです。善いことをしているのだと、自分を褒めてあげることもよいのです。誰の批判も受けるべき行為をしていない、自分の人生の中でやばいことが、隠すべきことが何もないと自分に対して自信を持つことでも、意志が強くなるのです。善い人間として生きることは世界との戦いではなく自分自身との戦いであると、敵・ライバルは結局自分であると理解して善い行いをすると、意志は揺らがないのです。

人生は善行為から始める

 善行為をするべきだといくらか理解した人は、どこから始めればよいのでしょうか。
生きるとは行為をすることです。行為は意志が起すのです。修行によってこころを向上させていない人には、認識できない意志の管理は不可能です。認識できる意志を管理することから始めるべきです。そこでお釈迦さまのやさしいアドバイスが入ります。何かの行為をする場合、それが悪行為であるならば、しない方がよいのです。世は行為をしない人を怠け者だと言うのです。役立たずと言うのです。そのように言われても構いません。自分がやろうとする行為、また他人が自分にやりなさいと言っている行為、それが悪行為であるならば、何もしないでいたほうがよいのです。なぜかというと、あとで不幸になったり、後悔したりするはめになるからです。自分の良心を痛める行為なら、止めることです。

 自分の良心を傷めない行為なら、さっそくした方がよいのです。人は行動的で活発で明るく生きるべきだということは、言うまでもありません。だからと言って、闇雲に何をやってもいいわけでもありません。善い行為なら、すすんで行えばよいのです。悪い行為の場合は、後ろ向きで、怠け者でけっこうです。あとで後悔することにならない行為は善行為だと、簡単に理解すればうまく行きます。

 このアドバイスは、とてもシンプルなのです。悪いことなら止める。善いことならする。それだけのことです。その道を歩む意志をさまざまな工夫で強化して、「頑固」になった方がよいのです。それが、善い人間として生きるための失敗しない方法なのです。このやり方で、善行為をする意志を強化して、悪行為をする意志が起こらないように抑えることができます。徐々に智慧が現れてくるので、認識不可能な意志の管理もできるようになります。それは、解脱に達する道になります。

今回のポイント

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