パティパダー巻頭法話
Sabbe satta bhavantu sukhitatta
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No.189 (2010年11月)
夢想家ですか? 現実家ですか?

 〜人生の無駄を省く方法〜
 The perfect security system of life
A・スマナサーラ長老
◎今月の巻頭偈
Dhammapada Capter XXU NIRAYA VAGGA
ダンマパダ(法句経) 第22章 地獄の章 315
315. ‘‘Nagaram yathâ paccantam, guttam santarabâhiram;
    Evam gopetha attânam, khano vo mâ upaccagâ;
    Khanâtîtâ hi socanti, nirayamhi samappitâ’’ti.
      
315.  辺境の都市 内外(うちそと)を 守り固むるが如く
    瞬間を見過ごさず自己を守れ 瞬間空しく過ごしなば
    地獄に墮ちて悲愁せん   (和訳 江原通子)

     辺境の都市が内外に よく守護されているように
     自己をよく守護するがよい 光陰空しく渡るなかれ
     光陰空しく渡る者らは 地獄に堕ちて悩むゆえ
            (訳 片山一良)『ダンマパダ全詩解説』春秋社より

“Khano vo mâ upaccagâ”. これはお釈迦様により語られた、大変に意味深い言葉のひとつです。この瞬間を見過ごすなかれ、という意味です。仏教の世界では、人を励ますためによく使用するブッダの戒めの一つです。

 人間はよく計画を立てて行動するものです。計画を立てる場合は、それを実行して結果を出すためにどれくらいの時間が必要なのか、と考えたほうが計画はより具体的なものになります。例えば、英語をスイスイと話せるようになります、という計画があるとしましょう。それに時間を入れておかないと、一向に進まないかも知れません。ですから、三ヶ月間で上手になります、一年、二年で上手になります、などなどの時間設定が必要です。時間設定をする場合も、計画の内容に合わせるのです。一日で終る計画もあるし、一週間かかる計画もあるでしょう。計画の時間は、一年、二年……十年などのようになる場合もあります。

 時間設定についても、気をつけなくてはいけないのです。結果を出すためには三ヶ月間ほどかかるのに、一週間で達成しますと時間設定をいれてしまうと、様々なトラブルが起きて、期待した結果が出ない可能性が高いのです。逆もおなじです。一週間で出来る仕事に一年もかける場合は、その計画は役に立たなくなるのです。とはいっても、一つ一つの計画に適した時間を考えるのも難しいことです。

 人がどのような計画を立てて生きているのか、ということについて、仏教はそれほど興味を持たないのです。道徳的で幸福になる計画であるならば、充分なのです。仏教が興味を持つのは、時間設定なのです。ですから、計画と時間の関係について考えてみましょう。人々は、すべての物事は時間と共に変化して変わっていくのだ、という事実を無視するのです。無常を無視して立てる計画は、ほとんど無意味になるのです。例えば若い時は、いろいろな物が必要になる。しかし、お金が無いとしましょう。その人はお金を儲ける計画を立てて実行する。それでお金が充分手に入る。しかし、若い時欲しかった様々なものは、もう要らなくなっているのです。あったとしても、仕事の関係で忙しくて遊ぶ暇がなくなっているのです。人には無数に希望があるが、時間と共に衰えることは避けられないのです。時間が経つたびに、自分が立てた計画を次から次へと捨てなくてはいけないことになるのです。

 ですから、計画を立てる場合は、時間の関係が大事なのです。何かの計画を十年後に達成しますと決めても、十年歳とった自分にその結果が必要になるだろうかと考えなくてはいけないのです。それを考えないで、皆いろいろな計画を立てて実行するのです。結果に達する前に歳を経ているので、その結果はもう要らなくなるのです。それで計画を中断するはめになるのです。どんな計画であっても、実行するために時間がかかるので、その分、歳もとってしまうのです。中断するはめになる計画をたくさん実行することになると、最終的にはその人の人生は、無駄に生きていたことになるのです。自分の人生に役に立つことのみを計画立てて実行することが出来れば、何の無駄もない人生を送れると思います。しかしこれは観念だけで終わってしまうのが落ちです。
どんな計画が自分にとって有効になるかとは、よく分からないものです。人は皆、試行錯誤の生き方で短い人生を無駄に終了するのです。

 人生を無駄にしないために、仏教が提案するしっかりした計画があるのです。その計画のまとめは、冒頭で引いた“Khano vo mâ upaccagâ”. この瞬間を見過ごすなかれ、です。人生は無常という真理に基づいて考えるべきものです。二年計画、三年計画などがあってもすべて変化するもので、企画どおりスムースに進むわけではないのです。計画とは頭で考えるものです。ですから、概念です。現実ではないのです。計画を実行しようとすると、現実になるのです。無常の真理に合わせて考えると、現実とは今の瞬間だけなのです。たとえ一秒でも、前の一秒は現実ではないのです。終わったのです。ただ頭でそれを覚えているだけです。後の一秒も、現実ではないのです。頭の推測だけのものです。結果というものは、現実に行動するときのみ起こるものです。
人は何をしようとしても、それは今の瞬間で実行しなくてはいけないものなのです。午後七時頃、十時に休みます、と決める場合は、計画です。頭の概念だけです。実行出来るのは、その十時と推測した瞬間が現実になった時なのです。要するに、十時にならないと実行できないのです。今の瞬間以外、前の時間も後の時間も、頭の中の概念に過ぎないのです。

 しかし、人間は過去に囚われているのです。将来に強く期待するのです。それでは人生は台無しです。
なぜならば、その人が頭の中の妄想概念という泥沼でもがいて、現実という今の瞬間を無駄にしているからです。一期一会という言葉があります。これも仏教の言葉です。何でも一回きりだよ、という意味です。無始なる過去から生命が限りなく輪廻転生しているのだと、説かれています。しかし、生きるとは、一期一会なのです。すべて、一回きり、なのです。人生にはリピートがありません。リセットもありません。人生に限らず、すべての物事は、絶えず変化するのです。毎年、桜の花を見たいと桜の木を育てる。
しかし、今年咲いた花は、今年で終わるのです。また来年も、美しい花を見ようと思っても、それはできません。来年は、別の花が咲くのです。自分も一年歳をとって、別な人間になっているのです。

時々、このような感想も聞くことがあります。今年の花より、去年の花はもっと美しかった、と。しかし客観的に調べてみると、去年の花の数よりは、今年の花の数は同じか、多いかも知れません。咲き具合も、似ているかも知れません。しかし見る人は、一年歳をとって変化しているのです。去年の花のイメージと、その時の感情も、覚えているのです。別人になった自分が、去年の感想という先入観を入れて花見をしても、その喜びは、去年の喜びより薄いかも知れません。それを理解しないから、去年の花はもっと美しかった、という感想になるのです。すべて、一期一会なのに。

ですから仏教においては、「この瞬間を見過ごすなかれ」ということはたいへん大事な戒めなのです。観念にひっかかることを一切やめて、バリバリの現実主義を語られているところなのです。今の瞬間でやるべきことを後回しにすると、永久的にそれを実行できなくなるのです。もし自分に対してたいへん大切な、とても役に立つ、幸福になる何かの行為があるとしましょう。それは行うべき瞬間で行わなかったら、永久的に実現できなくなるのです。これはたいへんな損です。仏教では、「あとでやります、明日やります、来年やります、そのうちやります」は決して成り立たないのです。引いて言えば、「この仕事が終わってからやります」でさえも成り立たないのです。

 これを理解することができれば、人生は無駄にならないのです。なぜ人は何かのやるべきことは「あとでやります」と言うことにするのでしょうか。いまやっていることと、いまやるべきこと、両方ともやりたいからです。子供の例で言えば、勉強の時間なのにゲームをやっているのです。ゲームが調子のいいところに進んでもいます。そうすると「あとで勉強します」という言葉にするのです。人生では、あとでやります、は成り立たない。今の瞬間で、いくつかのことをやりたくなるのは、頭が混乱しているからです。妄想に、欲に、怒りに、溺れているからです。一つの時間で、二つの仕事は不可能です。

それで「選択する」という行為が出てきます。自分にとってとても大事なことを複数のやりたい事の中から瞬時に選ばなくてはならないのです。充実した人生を送るためには、選択能力、判断能力も欠かせないのです。判断するために、何時間も悩む人の心は、あまりにも汚れているのです。心が清らかになって落ち着いているならば、判断にかかる時間は短くなっていくのです。瞬時に正しい判断を出来る人が、智者なのです。判断に悩む人、時間が掛かる人、優柔不断な人は、愚者なのです。すべて無常なので、たとえ愚者であっても、智者にはなれるのです。それには、今の瞬間でやるべきことを行えば、充分なのです。

心が清らかであること、集中力があることは、智慧を完成するために必要です。心を清らかにしたい、集中力をあげたい、と思う人は、どうすればよいのでしょうか。とても簡単な方法があります。それは、いつ心が汚れるのか、いつ集中力が失われて心が混乱するのかと、チェックを入れることです。いつでしょうか? 答えは簡単です。心が汚れた、ということは現実です。現実であるならば、今の瞬間です。

今の瞬間で心が汚れて集中力が失われるのです。今の瞬間に気づいていれば、心は汚れないのです。

いまなにをやっているのか? 人はいろいろ答えを出します。いま本を読んでいる、いま電話をかけている、いま料理している、等々です。それは俗世間の答えです。ブッダの教えを知っている人にその質問を出せば、このように答えるでしょう。いま見ている、聴いている、嗅いでいる、味わっている、感じている、考えている。要するに人は絶えず眼耳鼻舌身意に色声香味触法という情報が触れて、絶えず認識しているのです。絶えず感じているのです。心がその瞬間で汚れてしまうのです。見た瞬間で、聴いた瞬間で、味わった瞬間で、汚れてしまうのです。

心が煩悩によって汚れないように、集中力を失わないように、厳密に守ろうとするならば、今の瞬間に眼耳鼻舌身意に触れる情報のところで、気をつけなくてはいけないのです。これが覚りに達するための一番の早道なのです。お釈迦様はひとの人生を、離れたところの都市に例えるのです。都市の中に住んでいる人々は、敵の攻撃から都市を守らなくてはいけないのです。頑丈な城壁を作るのです。城門も頑丈に作るのです。簡単に開けられないように巨大なかんぬきを付けるだけではなく、見張り役も付けておくのです。城壁の外も簡単にアクセスできないように堀をつくるのです。門から入ろうとする人々を調べて、安全な人のみを入れるのです。

人の体も都市のようなものです。城門が六つあります(眼耳鼻舌身意)。一般の人の場合は、六つの城門から入りたい放題、情報(敵)が入るのです。都市の中は大混乱なのです。殺戮や強盗などが起こるのです。都市が崩れてしまうのです。ですから修行者は、都市を城壁で固めるように自己を守るのです。眼耳鼻舌身意という六つの門から入る色声香味触法という情報を管理するのです。入った情報に心を混乱させないようにするのです。情報は今の瞬間に入るものです。ですから、今の瞬間を見過ごしてはならないのです。怠ってはならないのです。気づいていなければいけないのです。それが解脱に達する方法です。今の瞬間を見過ごす人の心は、大混乱を起こして崩壊していくのです。それが不幸に陥る道なのです。不幸に陥る人が悲しむはめになるのです。今の瞬間を見過ごさないように気をつけましょう。

今回のポイント

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