パティパダー巻頭法話
Sabbe satta bhavantu sukhitatta
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No.190 (2010年12月)
恥と怖れ

 〜世界の平和を保つ二つの心理〜
 Two guardians of the world
A・スマナサーラ長老
◎今月の巻頭偈
Dhammapada Capter XXU NIRAYA VAGGA
ダンマパダ(法句経) 第22章 地獄の章 316〜317

316.  Alajjitâye lajjanti
    Lajjitâye na lajjare
    Micchâditthisamâdânâ
    Sattâ gacchanti duggatim
317.  Abhaye bhayadassino
    Bhaye câbhayadassino
    Micchâditthisamâdânâ
    Sattâ gacchanti duggatim

316.  恥づべきところ恥づるなく
     恥づべからざるを恥となす
     かかる邪見の人々は
     死して悪趣に墮ちて行く

317.  怖れなきをば猶怖れ
     怖るべきをば怖れざる
     かかる邪見の人々は
     死して悪趣に墮ちて行く    (和訳 江原通子)

修行者の弁明

 法句経の注釈書にこのようなエピソードがあります。ある比丘たちが托鉢に出ました。その時、ジャイナ教の修行者たちも托鉢に出ていました。ブッダの弟子たちは街に出る時は首から脛のあたりまで衣で身体を覆いますが、ジャイナ教の修行者は全裸なのです。しかしこの比丘たちはちょっと変わった光景を目にしました。全裸の修行者たちが、身体の前を隠しているように見えたのです。その光景を見た比丘たちは、このような意見を述べあいました。
「全裸で街に出る他のジャイナの修行者たちよりは、この人々は優れているのではないでしょうか。やっぱり全裸は恥ずかしいと思っているのです。」
 その話を耳にしたジャイナ教の行者たちは、こう弁解しました。
「私たちは全裸を恥じているわけではありません。空気に漂うチリにさえ、命があるのです。食べ物にチリが入ると困るのです。殺生したことになるのです。ですから、托鉢に使う食器を布で覆っているのです。」
仏教の立場から見ると理屈が通らない話のように感じたので、比丘たちはお釈迦さまにそのやりとりを報告したのです。

ジャイナ教の魂論

 ここで少々、説明をいたします。ジャイナ教の出家が全裸になるのには理由があります。彼らは、恥ずかしいと思うことは、煩悩の一つだと思っているのです。その煩悩があると、服に執着しなくてはいけない。ものに執着することも、当然、煩悩です。
ですから、服なんかは全部捨てちゃえばよい、ということになったのです。仏教の煩悩の定義は、「こころの汚れ」ということになりますが、ジャイナ教の煩悩の定義は「全知全能の魂(たましい)に付いた汚れ」です。

 ジャイナ教では、形あるものならすべてに魂があると信仰していました。石などにも魂があると思っていたかどうかは定かではないが、水には魂がいっぱい入っていると断固と信じていました。同時に空気に漂う埃にも、魂があると信じていたのです。ブッダの時代には、原理主義的に教えを守ったジャイナ教の行者たちがいたのです。彼らは身体に付着する埃にも魂があると信じていたので、沐浴するどころか、手で身体をはらって埃を落とすこともしなかったのです。埃にも命があると信仰するならば、身体に埃が付着しないように布で身体を覆ったほうがいいと思えますが、不殺生主義より魂の汚れの論が優先になったようです。

 とにかく仏教の批判もあったので、ジャイナ教は原理主義的に守ることができなくなりました。現在のジャイナ教の行者たちは、白い服を着て、身体も清潔に保つのです。しかし右のエピソードに出てくる行者達にとっては、「陰部を隠しているから立派ではないか」と言われたことが批判に聞こえたのでしょう。比丘たちの言葉のニュアンスから、服を着てはいけない、恥を感じてはいけない、というジャイナ教の出家の基本戒律を破っていると批判されているように聞こえたのです。ですから、戒律を破っていない、という弁解になったのです。

中道は効率重視

 これから仏教の立場を説明します。仏教を無理にでも原理主義にすることは不可能です。「中道」という言葉を使った時点で、極論と極道(極端な実践)は禁止になるのです。こころの煩悩を完全に断つことが仏道なので、効率的に実践しなくてはいけないのです。仏教の戒律にしても、言われたから守る、決まりだから守る、文字どおりに守る、などの心構えになると、カルト宗教っぽくなってしまいます。
戒律を守ることで、煩悩にこころが誘惑されることを制御するべきなのです。もし人が「私は他の人と違って戒律を完璧に守っている」という気持ちになったならば、その人は知らず知らず、他を軽視して自己を持ち上げるという二つの煩悩でこころを新たに汚したことになります。また、自我という錯覚を強化する燃料もあげているのです。戒律で目指した目的と反対の方向に行っているのです。ですから、「中道」が大事です。中道とは、中途半端という意味ではなく、いかに効率よく目的に達するのか、ということです。

恥と怖れ

 右のエピソードで「恥じる」という単語が出ました。
ジャイナ教では恥を感じることは煩悩の一つになっていたのです。しかし仏教では、恥じることは欠かせない善なのです。といっても、何でもかんでも恥ずかしいと思うならば、それは精神的な病です。健全なるこころをうたっている仏教にとっては、精神病のひとつの原因を善だと言えないのです。ここで、お釈迦さまの「中道」が割り込むのです。悪を犯すたび、こころに煩悩が蓄積します。仏道を歩む人は、「悪行為を恥じる」のです。お釈迦さまが悪行為だと語っていることだけでなく、理性のある世間の人々が悪だと思っている行為も恥じる。中道的な恥がこころにあれば、その人は悪を犯さないのです。
 恥hiri(慚)と対になっている「怖れottappa(愧)」
という用語もあります。これも善です。しかし、何でも怖れるならば、何もできない人間になります。それも精神病です。中道的な怖れottappa(愧)とは、悪を犯すことを怖れることです。仏教では欠かせない善行為は、ジャイナ教の原理主義の立場から見ると悪行為になっていたのです。

この世を制御するもの

 この世の中の人間は誰でも、煩悩を持っています。
煩悩の衝動で生きているのです。欲、怒り、競争心などの煩悩が必要不可欠なものであると思っている人も多いのです。また煩悩を断つことはあり得ない成り立たない、と思っている人々もいる。しかし、欲、怒り、嫉妬、憎しみ、傲慢、自我などの煩悩の衝動でのみ人々が生きているのなら、この世は間もないうちに壊れて破滅になるはずです。現実はそうではありません。この世はいろいろ問題があっても、何とか成り立っているのです。人々が、煩悩はあるのに何とか自己制御しているのは何故なのかと疑問ですね。その疑問はこんな質問の形でお釈迦さまに出されたのです。

「この世は誰によってガイドされているのでしょうか? 制御されているのでしょう?」

お釈迦さまは、「慙愧によってこの世はガイドされ、制御されているのです。馬車の二つの車輪を留めるクサビのように、慙と愧がこの世を保っているのです。」と答えました。

 このポイントを分かりやすくしましょう。若い男なら、美人だと思えるどんな女性にもちょっかいを出したくなるものです。しかし、それは恥ずかしいし、結果も怖い。それで自己制御するのです。人々は好き勝手に生きてみたいと、思ってはいるのです。
しかし世間の目が気になるのです。批判されると恥ずかしいし、法律で裁かれるのも怖い。金ならいくらでも欲しいが、ATMを壊して大金を持って行こうとは思わない。恥じることと怖れることのおかげで、この世はうまく行っているのです。それでも時々、人々が自己管理できなくなってしまう時もあります。
その瞬間、たとえその人が社会で尊敬を受ける仕事に携わる人であっても、電車で痴漢してしまう可能性もある。金を払って買うのは面倒くさいと思って、万引きする可能性もある。人殺し、強盗、誘拐、強姦、虐待などの罪を犯している場合、その人は正気ではないのです。自己制御できなくなっているのです。こころから慚愧が消えたのです。

人が罪を犯して裁きを受ける時、精神鑑定を要求する場合があります。罪を犯した時は善悪判断できない状態だったと主張して、無罪にして欲しがるのです。これは論理的には成り立たない話です。「善悪判断できなかった」という理由で無罪とするならば、この世で犯人を裁くことは不可能になります。善悪判断できる人は、罪を犯さないのです。生まれつき正気でない人、また、何年も精神状態が壊れたままの人なら、話はわかりますが……。

一般人の逆さま思考

 それから、犯罪をおかさない一般人のことを考えておきましょう。
 一般の人々も、ジャイナ教と同じく、物事を逆さまに理解するのです。「正直者は馬鹿を見る」ということわざがあります。ことわざとは、人に何か智慧を与える言葉、何かをアドヴァイスする言葉です。
人は馬鹿になりたくないのです。であるならば、「正直はダメです」ということは、人間は互いに騙しあったほうが、詐欺をやったほうが良いという意味になります。私たちはしかし、騙しは良くない、詐欺はよくない、人は正直にならなくては、云々と思っているのですが、どこかで反対のことをやりたいという気持ちもあるのです。

 この社会では、酒を飲めない人と飲まない人を批判します。それなら、酔いつぶれて判断できない人、アル中の人を、信頼できる立派な人格者だと言ったほうがよいのではないでしょうか。学校の仲間であっても、勉強しないで遊ぶ人が人気なのです。まじめに勉強する人は、暗い、煙たいと思うのです。若者の間で派手に常識も壊してお洒落するならば、認めるのです。まともな服装で身を飾る人には、流行に遅れているというのです。

 ある人からこのような相談を受けたことがあります。「自分の子供が突然、仏教の本を読み出した。冥想もしたいと言っている。自分の子供がおかしくなったら困ります。どうすれば治りますか?」という相談です。その相談の中身を解説すると、「自分の子供がマンガばかり読んでいてもゲームばかりやっていても、それは問題ではない。常識です。もう少々、人生を真剣に考えることは非常識です」ということになります。

邪見は不幸への直行便

 たくさん人を道連れにして自爆テロをやる人々は、その民族にとって英雄です。人を殺すのは良くない、と微塵でも思ったら、そのテロリストが周りからバカにされ、腰抜け、怖がり屋と言われるのです。この世の中で、人々は「恥じ入るべきこと」に恥じ入らないのです。その代わりに、「行うべきこと」を恥じてしまうのです。怖れるべきことを怖れないのです。怖れを感じてほしい悪い行為に対して、怖れを感じずに勇気を出して跳び込むのです。人間のこのアベコベ思考は、決して正しい見解ではありません。邪見なのです。邪見とは、人を確実に不幸に陥れる直行便です。

今回のポイント

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