パティパダー巻頭法話
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No.197 (2011年07月)
食事と解脱の関係

 〜食べ物はこころを清らかにするのか〜
 Nutrition of body and mind
A・スマナサーラ長老
◎今月の巻頭偈
Dhammapada Capter XXIII NÂGA VAGGA
ダンマパダ(法句経) 第23章 象の章 325

325.
   Middhî yadâ hoti mahagghaso ca
   Niddâyitâ samparivattasâyî
   Mahâvarâhova nivâpaputtho
   Punappunam gabbhamupeti mando

325
   のろま、大食、ねむたがり
   ごろごろ暮らすおろか人【びと】
   入胎輪廻【にったいりんね】をくり返す
   餌ぶとりせる 豚のごと    (和訳 江原通子)

いのちを繋ぐ「こころの栄養」

 今月は生命のいのちを繋ぐ栄養について考えてみましょう。生命を維持するために、四種類の栄養が必要です。一つ目は食べ物・飲み物などの物質です。残り三つは、こころを支える精神的な栄養です。食べ物などはいのちを支える栄養の四分の一に過ぎないと理解する必要があります。栄養の四分の三は、こころが必要としているのです。ですから仏教を学ぶうえで、こころの栄養について理解する必要があるのです。

(phassa)

 精神的栄養の第一は、触(phassa)です。眼耳鼻舌身意という六根に色声香味触法というデータが触れて、意識が起こるのです。身体に情報が触れないと、生きることが成り立たないのです。たとえば身体の一部の神経が壊れて何も感じなくなったら、その一部が衰えてゆくのです。眼、耳、鼻などにも、こころにも、情報が触れることは必要です。そうでないと、生命の維持はできません。こころに情報が触れなくなったら、たちまち死ぬのです。ですから触は、食べ物よりはるかに大事な栄養なのです。

意思・意欲(mano sañcetanâ)

 精神的栄養の第二は、意思・意欲(mano sañcetanâ)です。意思がはたらかないと、歩いたり仕事したり話したりすることもできなくなります。見たり聞いたり考えたりすることもできなくなります。瞬間でも意思が消えることは、その生命の死なのです。我々の意思・意欲は、絶えないものです。生きるとは身体という物体に感覚があることです。この感覚は、本来「苦」なのです。苦は欲しくはないのです。苦を変えたい、という意思が生じるのです。常に苦があるから、常に意思も生じるのです。「意思が消えたら死ぬのだ。たいへんだ」と困る必要はないのです。苦がある限り、それを変えたい、という意思が起こるのです。
 意思が消える心配はないが、問題は意思に波があることです。意思が強いときは、活発に生きるのです。意思が弱くなると、生きる力も弱くなってしまうのです。次の問題は、意思の種類です。意思とは「苦を変えたい」という一種類ですが、その意思がさまざまに形を変えて現れるのです。生きることに強い愛着があって、それと意思が絡むと、手段を選ばず、何としてでも六根に刺激を与えたくなるのです。それは悪行為になるのです。人の気持ちはほぼ貪瞋痴に汚染されているので、意思も汚れているのです。ですから、生きるために、いのちを繋ぐために生命がおこなう行為は、残念ながら悪行為になってしまうのです。仏教は清らかな意思で生きることを推薦していますが、実行するのはたやすいことではないのです。

(viññâna)

 精神的栄養の第三は、識(viññâna)です。認識し続けることはこころの栄養なのです。この肉体の認識機能が停止する瞬間が、その生命の死なのです。こころという品物があって、それが認識というはたらきをしているのだ、と言うならば理解しやすいと思います。テレビという品物があって、それが映像と音声を流してくれるような話です。しかし、このような理解は間違いなのです。こころとは認識機能そのものなのです。感覚と区別したほうが理解しやすいのです。肉体に感覚という能力があります。それで触れる情報を感じます。感じたということは、認識が起きた、ということです。その最初の認識が、次から次へと大量の認識の流れを引き起こすのです。たとえば耳に感覚があります。音が触れます。感じます。聴覚が生じます。それから、どんな音か、好きな音か嫌いな音か、内容はなんなのか、それについて自分の感想はなんなのか、などなど大量の認識が流れるのです。一個の認識が起こることは、たくさんの認識の流れを引き起こす原因になるのだと理解することができます。ですから、認識はこころの欠かせない栄養の一つです。

こころの生滅と輪廻

 理解するべきポイントがもう一つあります。識とは、こころのことです。同一のはたらきです。それなら、識が識を栄養にしている、というような意味になります。それは分かりにくいですね。自分が自分を食って成長するということは成り立たない話です。しかし前の段落で説明したように、一個の識が大量の識のながれを引き起こすということは理解できると思います。こころがこころを食っているようにして成長するのではありません。こころにはsantati(流れ)という法則があります。一つのこころが無くなると、新たに新しいこころが必ず起こる、という法則です。こころの寿命は瞬間です。瞬間でこころは消えます。一個のこころが消えたら、消えたことを原因にして新たなこころが起こります。それも瞬間で消えます。また、新たなこころが生じます。これがsantati(流れ)と言うのです。ですから、いまの瞬間のこころは、瞬間の前に滅したこころのエネルギーによって生じたことになるのです。

 こころは自家発生で生滅して存在し続けるのです。一個のこころが滅することが、次の瞬間のこころが生じる原因になるのです。仏教の因果法則では、因があって果が起こると言います。因果法則がこれだけなら、一個の出来事でものごとは終わるはずです。膨らんだ風船が原因だとすると、音を発して割れることは結果になるのです。風船が割れたら、因果関係は終了です。このように考えられますが、本当の因果法則は少々違うはたらきをするのです。記号で言うならば、aが原因でbが生じる。次、bが原因でcが生じるのです。ということは、bが果でありながら、因にもなるのです。ですから次、cを原因にしてdが生じるのです。これで終わりの見えない無限のサイクル・転回が現れてくるのです。こころの場合は、滅が原因で生が起こるのです。次、生が原因で滅が起こるのです。それで、生→滅→生→滅→生→滅の転回が現れてくるのです。識という栄養は、このはたらきのことです。この法則によって、人の肉体が滅びたところで、すべて終わってしまうことは不可能になります。死ぬ瞬間で、この肉体の中で最期の認識が生まれて、消えるのです。この肉体の中で、新たな認識が起きない条件になっているのです。しかし、肉体と別に識を観察すると、識が滅したのです。因果法則によって、必ず新たな識が生じなくてはならないのです。ですから、滅した瞬間で、新たな認識が起こるのです。それが仏教の説明する「輪廻」というはたらきです。

食べ物はあくまで肉体の管轄

 人間が摂取する食べ物について、仏教では興味はありません。他宗教では、人の食べ物にもちょっかいを出すのです。魚介類を食べてはいけません、豚肉はダメ、牛肉はダメ、肉魚すべてダメ、などなどがあります。中国大乗仏教では、肉魚だけではなくニラやニンニク、ネギ、ノビルなどもダメです。「不許葷酒入山門」という標語にもなっています。(ブッダの時代のインドでは、女性が強精剤としてニンニクを食べる習慣があったのです。女性からニンニクの匂いがすると、男たちは興奮したのです。ある日、尼さんたちがニンニクをいただいて食べてしまったのです。在家の信者たちが尼さんたちからニンニクの匂いがしたので、厳しく批判したのです。お釈迦さまは女性にニンニクを禁止する戒律を作ったのです。大乗仏教はこの戒めを見事に間違えて解釈したのです。)

 人が何を食べるのか、というのは肉体に関わる問題です。菜食者はこころが清らか、肉食者はこころが汚れている、などの話は仏教ではありません。医学的にはニンニクは強精剤になるかもしれませんが、ニンニク断ちの人に性欲がないと、仏教は思わないのです。「アーマガンダ経」(スッタニパータ239-252)に、肉魚を食することに対するブッダのスタンスが説明されています。肉体にどんな物質を与えて面倒を見ても、老いて死ぬことには変わりがありません。遺体は朽ちて土に戻るものです。一生清らかな食物で身体を維持する人も、生ででも肉魚を食べて生活する人も、死ぬときには変わりがないのです。ブッダは、輪廻転生させて生命に限りのない苦しみを与えるこころの育て方について語るのです。

何のために食べるのか

 しかしお釈迦さまは、食べ物と食べ物に対する愛着については語られています。出家が食事をいただくときは、このように観察して食べなさいと作った言葉があります。

「私はよく観察してこの食を受けます。この食は楽しみのためではなく、精力をつけるためではなく、良い体格のためではなく、容姿を麗しくするためでもない。ただ単にこの肉体を維持するためである。不快感を控え、修行の支えになるように、この食により、過去の苦(空腹の苦)を無くします。新たな苦(満腹の苦)も起こしません。この食によって、過ちを犯さず穏やかに過ごせますように。」

 出家は必ずこのフレーズを頭で念じて、食しなければいけないのです。この言葉の内容で分かるように、食べ物に対する人間の感情をすべて、切り離しているのです。食べ物の良し悪しも無視しているのです。ただ肉体を維持してくれれば充分です。当然、大食は戒めています。満腹になるまで食べてはいけない、というのが規則です。しょっちゅう食べることも禁止です。他人に食べ物を要求することも禁止です。自分が好きな食べ物を選ぶことも、托鉢の場合は成り立たないのです。しかし、アレルギーなどの体質の問題がある場合は、それに合った食べ物を食べることが認められています。病気などに罹った場合は、病気を治すために必要な食べ物を要求することも認められています。

 食べ物に対して、仏教は完璧に常識の範囲でいるのです。教理学的な見解はまったくないのです。食べ物によってこころが清らかになる話は、仏教においては笑い話以外の何ものでもありません。

仏道は美食主義と縁がない

 しかし世の中の一般人も、宗教家も、食べ物に対して度を超した興味を持っているのです。材料や料理の仕方などにたいへんな知識と財産を費やしているのです。人間はどちらかというと、食べるために生きている存在になっているのです。生きるために食べる、ということは考えたこともないのです。食べることに執着するのは、腐りかけてゆく肉体に執着することです。こころの成長をおろそかにすることです。食べることに執着すればするほど、こころが汚れてしまうのです。Epicureanism(快楽主義・美食主義)は危険なのです。お釈迦さまがこのように語るのです。大食いは、のろまでゴロゴロと身体を転がしながらほとんど寝ている。また起きて、大食いするのです。飼い葉桶に放ってあげたブタのように、生きているのです。(ブタは食っては寝る、という性格なのです。)大食いは肉体のことばかり気にするのです。ですから、解脱なんかは関係のない話になります。彼らは限りなく輪廻転生を続けるのです。

 清らかなこころを目指すならば、煩悩を無くすことを期待するならば、人格向上をしたいと思うならば、輪廻を脱出する意欲があるならば、食べ物は身体を維持する程度にしなくてはいけないのです。Epicureanismの道と仏道は、はじめから道が違うのです。

今回のポイント

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