パティパダー巻頭法話
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No.198 (2011年08月)
出家は自由か束縛か

 〜食べ物はこころを清らかにするのか〜
 Nutrition of body and mind
A・スマナサーラ長老
◎今月の巻頭偈
Dhammapada Capter XXIII NÂGA VAGGA
ダンマパダ(法句経) 第23章 象の章 326

326.
   Idam pure cittamacâri cârikam
   Yenicchakam yatthakâmam yathâsukham
   Tadajjaham niggahessâmi yoniso
   Hatthippabhinnam viya ankusaggaho

326
   望むにまかせ 欲まかせ
   楽しみ追いし わがこころ
   根から匡【ただ】さん 狂象を
   鉤もて御する 御者のごと    (和訳 江原通子)

■ブッダの真の神通力

 お釈迦様の説法を聞いて納得いかなかった人は、ほとんどいませんでした。はたから見ると、お釈迦様が自分と話した人をみな、三宝に帰依する仏教徒にさせているように見えたのです。お釈迦様と議論をして、勝った人は一人もいません。この力は摩訶不思議です。

ある日、お釈迦様が神通(奇跡)について語りました。神通のリストに教誡神変anusâsanî pâtihâriya という神通があります。それは人に説法して導く能力のことです。経典には、これこそ高く評価するべき神通であると説かれています。

神通のリストの一は神通神変です。それは突然ある場所から消えて別な場所に現れる、空を飛ぶ、などの能力です。二番目は記説神変(記心神変)です。それは人が何を考えているのか等を当てる能力です。この二つについて、お釈迦様は高く評価していないのです。まじない師がやっている、似たような能力も世にあるのです。
しかし三番目の教誡神変は違います。人間のこころは簡単に変わるものではありません。こころを育てて超越した境地に導くことは、簡単ではないのです。一般の人を変えて、聖者に成長させる能力こそが、誰にもできない真の神通であると説かれたのです。要するに、お釈迦様には奇跡的な説得力があった、ということです。

■脱マインドコントロール

 他宗教の方々は、この能力に腹を立てていました。論理的にブッダの教えが間違っていると言えないので、お釈迦様が「転向魔術」を使っているのだと批判したのです。現代的な悪口で言えば、マインドコントロールの達人、といったところでしょう。ブッダはマインドコントロールするどころか、人がかかっている一切のマインドコントロールを解いて、自分のことを自分で判断できる、自立した理性のある人にたちまち変えてみせたのです。

人のマインドコントロールを解くにも、場合によって何年もかかる可能性があります。時々、もとに戻れないほど脳が壊された重度のマインドコントロールもある。人のマインドコントロールを瞬時に解けるお釈迦様のこの能力は、一般人にしてみれば、まったく理解できなかったでしょう。

お釈迦様さえも「本物の神通」と説かれた能力だからといって、神秘的な力・神業だと思ってはならないのです。ただ「相手が納得できるように語ることができる」という能力なのです。

お釈迦様は、相手が納得できるようにするにはどう語るべきかと、その方法も教えています。相手に説教しないで、相手と対話をする。これが一つの方法です。対話することで、相手がどのような思考を持っている人か、どのように論じる人か、好みは何なのか、と理解できるのです。それから、その人の思考を現実に当てはめて、長所・短所を見せてあげるのです。議論ではなく対話なので、聞いた相手は勝ったことにも負けたことにもなりません。ただ、よく納得できました、という結論で終わるのです。

もう一つの方法は、喩え話、昔話、比喩などを存分に使うことです。もう一つの方法は、いくら新しいデータを脳にいれる場合でも、いまだかつて聞いたことのない真理を教えてあげる場合でも、すべて聞き手の頭の中にある概念のみを使って語ることです。言い換えれば、好き勝手に自分が作った専門用語をぶちまけることは決してしない、ということです。

もし相手がはじめからもお釈迦様の教えに反対の立場をとって異議を申し立てたとしても、お釈迦様は必ず相手の論理方法を使って自分の立場を説明されました。相手に理解できない論理方法は使わなかったのです。そうすることで、異議を申し立てた人も、勝ったことにも負けたことにもならず、よく納得したのです。このようなお釈迦様の話を聞いて、仏法僧に帰依する気持ちにならなかった人は存在しなかったのです。

■お釈迦様の大仕事

 そういうわけで、知識人も一般人も仏教徒になりました。大富豪も貧しい人も、カーストの高い人々も低い人々も、老若男女の誰でも、仏教徒になりました。この現象は、しかしそのまま喜ぶべき現象でもなかったのです。

納得して仏法僧に帰依する人々を丁寧に解脱へと導かなくてはならない。これは大変な仕事であり、義務でもありました。弟子たちの数が少なかった時分は、お釈迦様が直々指導なさったので、問題は一つも起きなかったのです。長くても三ヶ月間以内で弟子は覚りに達したのです。在家の方々は、一つの説法を聞いただけで預流果の覚りに達したのです。弟子が増えると、指導する仕事は先輩の弟子たちが担いました。また、弟子たちから仏法を聞いて三宝に帰依する人もいました。その弟子たちの責任は当然、お釈迦様ではなく先輩の弟子が担わなくてはいけなかったのです。

■真理と修行法は断言的に

 仏教が拡まって弟子たちの数が増えると、お釈迦様はみなに明確に修行方法を説いて教えました。何の異論も立たないように、好き勝手な解釈ができないように、自己流に陥って迷わないように、「これが修行方法である」と断言的に教えられたのです。「これが真理である、これが修行方法である」という場合、お釈迦様は断言的に話をされました。対話をする場合は、決して断言的な態度を取りませんでした。その時は、ものごとをよく分析したのです。相手の意見もよく聞いたのです。

■考えを変えるのは難しい

 修行方法を明確に定めたとしても、それを実際に実行すると、色々と問題が起こります。仏教の場合、その問題に特色がありました。それは教えが間違っているからでもなく、教えに改良するところがあったからでもなく、修行する人の性格的な問題だということです。例えば、「この戒律は不自然だ。守れるわけがありません」とは誰にも言えないのです。言えるのは、「教えは完全ですが、気が弱い私にはなかなかできません」ということです。

年寄りと知識人と他宗教の方々が出家して修行する場合は、戒律は問題になりません。他宗教の方々は、仏教よりも厳しい苦行になる戒律に慣れているからです。彼らは気持よく戒律を守るが、解脱に達することは大変です。長いあいだ、「魂がある、神様がいる」などの信仰で生きてきたため、如実に(客観的に)観察することができなくなるのです。ついつい、自分の主観・先入観で判断してしまうのです。ですから、何回も何回も説法を聞いて、また聞きなおして、先輩の弟子たちと議論して、理解を正さなくてはいけなくなるのです。考えを変えるということは、たいへん難しいことです。

■若者たちの挑戦

 若者と子供たちが出家して修行することになると、どんな問題が起こるのでしょうか。子供たちには固定概念がないので、もし素直であるならば、先輩の指導者たちに言われるとおりに修行すれば問題はありません。若者の場合も性格的にはやる気満々なのでうまくいく可能性もあるし、やり過ぎになったり、のんびり指導する先輩に対して不満を感じたりすることもあり得る。仏典に出てくるサンガに関わるエピソードからこのように考えられます。七歳で阿羅漢になった子供たちのエピソードも一つ二つくらいあります。もうひとつの問題は、歳なのです。子供は徐々に成人になります。思春期も反抗期もあるのです。若者の場合も張り切って修行するが、若い肉体が落ち着いた修行生活に対して反撃する可能性もあるのです。ブッダの時代から、出家してから修行が嫌になって還俗した人々の話はけっこうありました。欲から離れた修行生活をやってみようではないかと頑張ったが、「やっぱり無理だ」という気持ちになったというケースです。

しかし、ブッダの教えは完全なので、若者が仏教に迷惑をかけたことはありません。隠れて戒律を破って、修行するフリをして人を騙すことは、仏弟子たちの中ではなかったのです。破戒する人は、自動的にサンガ組織から排除されるように戒律ができています。若者は「修行は無理だ」と自ら決めたところで、師匠に報告して正式的に還俗するのです。しかし還俗しても、親切に導いてくれた恩を忘れません。在家として仏教を応援したり、できる限り修行したりはするのです。

■何から何まで管理だらけ

 在家は束縛があるので障害の多い生き方だと、反対に出家は空のように自由な世界であると(sambâdho gharâvâso,abbhokâso pabbajjo)説かれてあります。この言葉に乗せられて出家する新参者たちは、おそらく騙されたと思うに違いありません。自由だと言われてはいるが、何から何まで管理された生き方になるのです。

ふだん、いつでも自由に好きなものを好きな時に食べていたのに、出家したら好きな時には食べられない。好きなものも食べられない。いただいたものを文句言わずに食べなければいけない。それでも、美味しいとも不味いとも言ってはならない。勝手に取って食べてはならない。托鉢に出るときにも、決まりは多い。服は自由に着られない。おしゃれはできない。自分が住んでいる場所であっても、先輩の出家が来ると空けてあげなくてはいけない。自分のもの、と言える個人財産を持ってはならない。仲の良い修行者の間でも、気晴らしに無駄話をしてはならない。歩く時、座るとき、横になる時、気を付けなくてはいけない。戒律で禁止していなくても、在家の人々が批判する行為はしてはならない……等々の決まりは無数にあります。

これが空のように解放された生き方だと、新参者が思うはずはないでしょう。形式的なところで終わればいいのに、出家したら思考まで管理するのです。仏教では、「自由思考」なんかはないのです。考えてはいけないことがいっぱいあるのです。また、考えなくてはならない項目もあるのです。面白くないと逃げるわけにはいきません。生き方だけではなく、思考まで管理されると、新参者たちはたいへん苦労することでしょう。

■新参者の気持ち

 しかし修行は、人の自由を奪うのではありません。一切の束縛を絶って、真の自由に達するための訓練・修行なのです。新参者が、自由がなくなったと思う項目はすべて、束縛を断つための訓練なのです。

新参者の気持ちをお釈迦様はこのように語ります。

「かつて私の心は自由に走り回りました。好きなこと、思う存分妄想しました。しかし今は、調教を受けている象が鉤棒を怖がるように、苦労しながら思考の管理をしているのです。」

今回のポイント

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