パティパダー巻頭法話
Sabbe satta bhavantu sukhitatta
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No.20 (1996年10月)
「いい影響・悪い影響」
A・スマナサーラ長老

 愚か者といえば、特別に知識のない人ではなく、真理を体験しようとしないごく普通の人々のことを意味するという話を先月講義しました。そうなると次には、釈迦尊に愚か者と言われないようにするにはどうしたらいいのかという点の考察が大切なテーマになってきます。

 人間だけではなく、すべての生命に照らし合わせて考えてみても、生命というものは周囲の様々な現象に影響されやすいという特色があります。もっと厳密に言えば、影響されやすいと言うより周りの環境から完全に影響を受けることによって生命は存在し、そのことによって成長し死んでいくということができます。仏教の立場から言えば、人間だけでなく人間より高次元の生命も、あるいは低次元の生命も、生命それ自体がが互いに影響しあって生きつづけているということです。その辺のことは私たちにはあまり理解できないので、人間のことに話を絞って考えてみましょう。生まれたばかりの赤ちゃんは、そのまま放っておけば成長するどころか生ていくこともできません。

人間として成長して生きていられるのは、周りから得られる限りのない助けやいい影響のおかげです。赤ちゃんはもっとさかのぼれば、その胎児のときからすでに母親の体や精神の、また周りの環境からも影響を受けて育つという事実はよく知られているところです。

 ですから人間にとって、成長する過程での周りからの影響というのは、無視できない、とても重大な問題です。我々の人格形成、生き方、成長、さらにいえば死に至るまですべてが、周りからの影響から成り立つものだと理解した方がより正しいのです。自分がこのような人間である、と自分のことを意識する自分の姿は、自分の意志でそうなったわけではなく、周りの環境からそう形作られたものなのだと理解すべきなのです。

 動物たちの世界では特に教えられなくても、生きるために必要な能力は本能として身に付いている場合が多いのです。動物の中でも人間に近いほ乳類は、赤ちゃんのときから動物園などで人間に育てられた場合、大きくなって自分の子供を生んでも育てる方法がわからず、飼育係が困ってしまうケースがよく見られます。このような現象が起こるのは脳の発達している動物の場合です。ですから脳が発達すると、本能の役目が舞台の裏に後退するといえます。高等な動物は本能だけで生きてはいられないのです。親や周りから教育を受けなくてはならないのです。人間になると、この状態がもっと極端になるのです。人間の場合は脳だけが一方的に発達した結果ともいえます。

 人間には、食べること、歩くこと、自分の身の回りのことをすること、たとえば手洗いに行くこと、しゃべること、などなどなんでもかんでも教えてあげなくてはなりません。どんな種類の動物であろうと自分の餌はちゃんと知っています。人間だけが自分の食べ物を知らないというのは、とても不思議な現象です。私たちは、これは食べてもよく、これは食べてはいけないと教えてもらわなくてはならないのです。結論としていえるのは、人間の人生はすべてが教えられ、育てられなければならないものだということです。

 我々の人生が、成功するか失敗するか、幸福になるか不幸になるか、知識や経験豊かな人になるかそうでないか、性格がやさしくなるか荒っぽくなるか、などなどのすべては、周りから受ける影響次第です。影響というものは人間の命綱です。我々は、自分への影響というものを非常に真剣に考えなければならないということがよくわかると思います。健康な人間として、また立派な社会人として、生きられるために必要な影響や教育は、家族、教育制度、それから社会から十分受けていますので、ここで説明する必要はないでしょう。仏教でめざすところは、ただ生きて死ぬのではなく、生きている間は、心清らかにして人格を向上し、無知を破って智慧を得、真理を体験して存在を乗り越えるということです。それに必要な影響や教育を、仏教は人間に与えています。

 私たちはどこにいても空気に触れ、空気の影響を受けることが避けられないように、人間が精神的にも肉体的にも、周りから影響を受けないようにすることはまったく不可能です。ふさわしくない環境の中にいて、周りから悪い影響を受けないようにしようと思っても、それはまったく無理です。影響というものは命綱であって、生命を維持する栄養資源でもあります。

 立派な人間になりたい、性格を正したい、心の未熟なところをなおしたい、心の汚れを落としたい、清らかな心を作りたい、という仏教的な目的がある場合も、影響という栄養資源に頼るしかないのです。ということは、それなりの影響を受けなければならないということです。しかし他の生命と比べて人間が恵まれている点がひとつあります。それは自分で自分の周りの影響を選ぶことができるということです。それはとてもすばらしいことです。親は選べませんが、どういう教育を受けるか、どういう仲間を作るか、どの様な場所に住むか、どんな仕事に就くか、何を食べてどの様に生きてくか、といった様なことは、多かれ少なかれ選ぶことが可能です。環境を選べるということは、大変恵まれていることなのです。そのチャンスだけは絶対逃がしてはいけないのです。ただ流されて生きているより、しっかりと環境を選んで生きることができるならば、自分の幸福のためになるのは確実です。

 その中でも、人間から受ける影響は最大であることはいうまでもありません。ですから常に自分よりすぐれた人とつきあった方が自分は確実に成長するのです。そのような立派な人がいなければ性格的に自分に似ている仲間を作れば、成長がなくても堕落することはないでしょう。不注意で性格の悪い人々とつきあうと、必ず自分が気が付かない内に、自分の性格も悪くなっていくことは避けられません。影響を受けずに悪人とつきあうことができるのは、自分の性格を完壁に作り上げた偉大なる人々だけです。人は皆平等だから平等につきあうのがよいのではないかなどと、無責任な屁理屈を言って「愚か者」の生き方をするのではなく、成長するためにはしっかりつきあう相手を選ぶべきなのです。「影響」の原理を無視することは「愚か者」の生き方です。

今回のポイント

◎経典の言葉
Carañce nâdhigaccheyya − seyyam sadisamattano
Ekacarlyam dalham kayira − natthi bâle sahâyatâ.
正しく生きるには、自分よりすぐれた人、あるいは自分と等しい人が見つからない場合は断固として自分一人で行動しなさい。愚かなる人とはつきあうことのないように。(Dhammapada−60)
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