パティパダー巻頭法話
Sabbe satta bhavantu sukhitatta
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No.201 (2011年11月)
いったい幸福とはなんでしょうか?

 〜簡単に幸福を実現できる方法〜
 Concept and reality of happiness
A・スマナサーラ長老     
◎今月の巻頭偈
Dhammapada Capter XXIII NÂGA VAGGA
ダンマパダ(法句経) 第23章 象の章

331.
   Atthamhi jâtamhi sukhâ sahâyâ
   Tutthî sukhâ yâ itarîtarena
   Puññam sukham jîvitasankhayamhi
   Sabbassa dukkhassa sukham pahânam
332.
   Sukhâ matteyyatâ loke
   Atho petteyyatâ sukhâ
   Sukhâ sâmaññatâ loke
   Atho brahmaññatâ sukhâ
333.
   Sukham yâva jarâsîlam
   Sukhâ saddhâ patitthitâ
   Sukho paññâya patilâbho
   Pâpânam akaranam sukham


331
   事ある時 友あるは幸【さち】
   大小の事 満足するは幸
   善なし置けば 命終【みょうじゅう】に幸
   諸苦の捨断は 又幸なり

332
   人の世に
   母に仕【つか】うは 幸【しあわ】せぞ
   父に仕うも 幸せぞ
   この世にて
   沙門たること 幸せぞ
   婆羅門たるも 幸せなり

333
   老いて尚
   戒受持するは幸せぞ
   信の確立 幸せぞ
   智慧の獲得 幸せぞ
   諸悪なさぬは 幸せなり   (和訳 江原通子)

願望実現に必要な「言葉の定義」

「幸福でありますように」「平和でありますように」などの祝福文句はよく耳に入ります。何となく分かったような気がします。こうした分かったような気はするがよく分からない言葉を、我々は日々たくさん使っているのです。しかし、確実に何かを成し遂げたいと思うならば、その意味が何となく分かったような気がするだけでは何もできない。「幸福でありますように」と言われるとみな良い気分になりますが、幸福とは何かと明確に知らない限り、現実的に幸福にはなり難いのです。「平和でありますように」と言われて「それはそのとおりだ」となんの異論もなく賛成したところで、いったい平和とは何かという明確な定義がない限り、平和は実現しないと思います。

 希望・願望を含んだ言葉の意味は、曖昧です。明確ではありません。幸福でありますように、平和でありますように、健康でありますように、末永くお元気で過ごされますように、神の祝福がありますように、のようなフレーズには定まった意味はないのです。その時その時の気分で理解するのです。しかし確実に、幸福になりたい、平和に暮らしたい、健康でありたい、長生きしたい、と思うならば、具体的な定義がないと実行できません。何年生きていられれば長生きになるのか、どの程度の体調を整えれば健康だと言えるのかなどは、個人個人、自分の好みで設定して、その目的をめざして努力することが可能です。しかしこれらは、人間なら誰でも期待する目的なのです。その意味が個々人の好みの定義で構わないとは言えません。自分が健康だと思っているのに、社会に違うと言われると困ります。自分が絶世の美女・美男子だと思っているのに誰も認めてくれないと、または皆が反対の意見であったりしたら困ってしまう。要するに、人の希望・願望を含む言葉にも、普遍的に認められる定義があった方がよいのです。

仏教が見せてくれる解決策とは?

 見方を変えて考えてみましょう。みな幸せになりたいと思っています。幸せをめざしています。ということは、いま現在は幸せではないということになります。すでにあるものに対して、期待する必要も、願望を抱く必要もないのです。子供がいる親は、「子宝に恵まれますように」とは祈願しません。妊娠している母親は、「安産でありますように」と祈願するが、子供が授かりますようにとは祈願しません。人類がみな幸福を目指しているということは、誰一人もいまだ幸福に達していない、現実的に不幸である、という意味なのです。

ここで仏教の解決策が見られます。お釈迦様は現実をありのままに観察するようにと説かれました。現実はそれほど好ましくないと発見すれば、その状況が再び生まれないように因縁・条件などを変えることを推薦します。原因が変わったら、結果も変わるのです。いま不幸だと現実に気づいた人が、その条件を変えるのです。それで幸福というより「不幸でない」状態に達するのです。「幸福でありますように」という言葉よりも、「不幸がないように」と言ったほうが具体的です。「健康でありますように」と言うよりは、「この病気が治りますように」と言ったほうが具体的です。お釈迦様が推薦する涅槃は、不幸を乗り越えた状態だと、否定形を使って定義しています。その方が具体的なのです。

問題の発見がスタートライン

 人が幸福になりたいと祈願するならば、幸福とは何かと明確に理解しなくてはいけないのです。その理解に達するためには、いま自分にどんな問題があるのか、どんな悩みがあるのかと、発見しなくてはいけないのです。人間の悩み苦しみとは、みなに平等にあります。悩み苦しみの原因も、みなに平等なのです。生命の苦しみとその原因を、お釈迦様が苦聖諦と苦集聖諦と名づけて説かれたのです。この苦しみの原因を取り除けば、苦を乗り越えられるのです。希望を含んだ意味が曖昧な言葉を使うならば、「幸福になる」のです。

幸福とは何かと、みな知りたがります。お釈迦様がこの質問に答えられています。表面的には、その答えに俗世間は疑問を感じるかも知れませんが、お釈迦様の見解は極限に具体的なのです。曖昧さは無いのです。人の気分や気持ちに合わせる答えも無いのです。

お釈迦様と悪魔の対話

サンユッタ・ニカーヤ(相応部)のマーラ・サンユッタ(悪魔相応)にこのようなエピソードがあります。
お釈迦様はある日、人を殺すことなく、苦しませることなく、悩ませることなく、統治できないものかと考えました。昔も今も政治家は、国民のために、国民の幸福と平和のために、命がけで政治をすると約束するのですが、現実はいつでも違います。政治家は必ずと言っていいほど、国民に迷惑をかけるのです。統治者によって国民が悩んだり苦しんだりしている現状を、お釈迦様は憐れみをもって観察したのです。このような場合は、愚か者が出すのは、「正直で能力のある人が統治するならば、この夢を叶えられるでしょう」という答えです。これは答えではなく、希望・願望なのです。そこでマーラ(悪魔)が来て、「お釈迦様なら、誰一人も殺すことなく、苦しませることなく、悩ませることなく、統治できるのだ」と言いました。お釈迦様は、完全なる統治などあり得ない、成り立たない、という立場でした。ですからマーラに対して、「金の、または銀の山を一つ、あるはその二倍あげたとしても、人間には満足できないものだ」と答えたのです。政治とは、欲望の炎に絶えず燃料をあげる行為です。欲望とは決して「満たせる」ものではありません。これは、「たとえ平和で豊かな社会を築いたとしても、人は幸福にならない」ということです。真の幸福は別な見方で、別な次元で、求めなくてはいけないのです。

お釈迦様の幸福論十二

人の幸福とは何かと、お釈迦様が説かれた項目を経典に沿って具体的に紹介しましょう。

一、事が起きた時に友人がいることが幸福です。

人々はみな友人を作りたがります。しかし何のために友人が必要かと分かっていないのです。人生に何も問題がない場合は、友人と仲良くすることが楽しいのです。しかし自分に何か事が起きた時、支えてくれたり助けてくれたりする友人がいるならば、それこそ幸福なのです。災害・災難などではなく、結婚式などの「事」も起こります。そういう時は、悩んだり心配したり、落ち着きが無くなったりするものです。もし仲間がそろって来て、その時、助けてくれるならば、どれほどありがたいことでしょうか。どれほど安らぎを感じることでしょうか。その場合は、自分の心にあった悩み苦しみが具体的に消えてしまったのです。苦しみが消えることが幸福です。ですから事が起きた時、助けてくれる友人がいることは幸せなのです。

二、日用必需品に対して、満足を感じられることが幸福です

お金、家、服、食べ物、車、カバンなどの持ち物、必需品は色々です。しかし、なかなか満足はしないものです。より良いものを望んでしまうのです。「もっと良いものがあればいいのに」と思うと、いま持っているものに対して満足していない証拠です。いわゆる不満、苦しみを感じているのです。人が死ぬまで「もっと良いものがあれば」という気分で生きているならば、人生は不幸の一色です。今日一日を考えると、昼ご飯は一回しか食べられません。夜は一箇所でしか寝られません。それなら、その一回の食事に対して満足するしかないでしょう。今日寝られるところに満足するしかないでしょう。

時間的にあわせて考えてみましょう。いまの一分でできることは決まっているのです。いまの一分でこれもやってあれもやって、それからあれもやります、などの妄想は成り立ちません。やれることは一つです。それを喜んで充実感を得て行えば、それこそ幸福なのです。いまやっていることに不満を感じると、一生、不満続きの人生になります。具体的に幸福を獲得したいと思うならば、満足を感じることです。満足のパーリ語はtutthîです。満ち足りているという厳密な意味よりも、「これでよかったんじゃない?」というような意味です。日用必需品に対して、満足を感じられるようにしましょう。

三、老後、善い人生であったと思えるように徳を積んでいるならば幸福です。

結局は人間も動物も、反射的に生きているのです。人間だけが計画を立てて着々と実行して生きるように見えますが、実はそうではありません。その時その時の状況にあわせて、反射的に生きているのです。しかし努力すれば、判断をして、悪い行為を止めて、善い行為をしながら生きることも可能です。人間の心には、反省するという働きがあります。反省によって、生き方を改良したり、制御したりするのです。
いままでの生き方を反省してみて、落ち込むことばかりであるならば、不幸な人生だったと認めるしかありません。家を守ること、子育てすること、仕事をすること、といった誰でもやっているパターンとは違った、何か善い事もしなくてはいけないのです。人は善行為をしながら生きていれば、どんな時に反省しても「善い人生だった」と喜びを感じることができるのです。ですから善行為をすることは、人間にとって具体的な幸福なのです。臨終の時、死の床に臥している時でも、心いっぱい喜びを感じることができるのです。善行為をおこなうように励みましょう。

四、苦しみを無くすことが幸福です。

ブッダが説かれる「存在苦(生きることは苦である)」以外にも、色々苦しみがあります。お腹が空いたり、猛暑なのに節電のために冷房をつけなかったり、身体がだるくなったりすることなども苦です。幸福ではありません。その都度その都度、その軽い苦しみを無くすこと、乗り越えることも幸福です。猛暑の時、海に飛び込んで遊ぶことも、苦しみを無くすことなので楽しいのです。完全に苦を無くすことが究極な幸福ですが、その時その時の苦しみを無くすことも幸福なのです。

五・六、母への奉仕・父への奉仕は幸福です。

人は、子供のためなら死んでも構わないと言えるほどの激しい感情で子育てをします。いつでも子供のことで頭がいっぱいなのです。子孫を産んで育てて一人前にすることは、いたって普通な行為です。褒め称えるほどのことではないのです。子孫を命がけででも守って育てなさい、というのは遺伝子に刷り込まれているプログラムに過ぎない。わが子を愛することは、遺伝子のプログラムであり、人の本能なのです。親を尊敬する、親のことを心配する、親を助けてあげなくてはいけないという気持ちは、遺伝子のプログラムにはないものです。生命の本能を打ち破って、より高度な生き方をすると、人はたいへんな満足感・充実感を得るのです。これは並の幸福ではないのです。誰にだって、親がいます。その親に奉仕すると、自分自身が「生きていてよかった」と高度な充実感を得られるのです。イメージしてみてください。子供を高級レストランに連れて行ってご馳走する。その時も、子供を躾しなくてはいけないし、心配しなくてはいけないのです。お腹いっぱい美味しいご飯を食べても、子供は決して「お母さん、お父さん、ありがとうございます」と言わないでしょう。そんなプログラムは遺伝子にないのです。では自分が、今まで苦労して生きてきた両親に高級レストランでご馳走したとしましょう。両親は必ず、「お前はほんまにいい子やねえ」と言うはずです。自分の心に親がこの上ない幸福感と充実感を与えてくれるのです。人は遺伝子に刷り込まれていない、本能的に生まれてこない、親に奉仕することを実行すれば、それこそが幸福なのです。これは皆にできることです。

七・八、沙門・バラモンに奉仕することは幸福です。

沙門・バラモンとは、インドにいる様々な修行者のことではありません。仏教の定義は、心を清らかにする目的で俗世間の財産をすべて捨てて、出家になって修行する人々のことです。この方々は一文も持たないので、一般の人々が食事や住むところなどを布施しなくてはいけない。この布施によって、修行者が命を繋いで修行するのです。一般の人々にも、心清らかにするアドバイスをしてくれるのです。在家の人にとっては「私たちが聖なる世界を支えているのだ」という充実感を得られます。ふつうなら食べて消える財産が、持続する結果にもなるのです。以上の説明は注釈書にあわせたものです。原文に忠実に訳すると、「沙門という性質があること、バラモンという性質があること」になります。ということは、我々の心も欲に溺れている俗人のレベルに置いたままにしないで、より優れた精神を持っている人間になることではないかと思います。戒を守ったり、冥想したりして、より清らかな心を育てることができれば、これもたいへんな幸福なのです。

九、老いるまで道徳を守って生きることは幸福です。

たった一日であれ道徳を守って生きてみると、幸福感・充実感を得られるのです。今日はまっとうな人間として過ごしました、という気分になるのです。後悔することに値しない一日は幸福です。では老いるまで道徳を守って生きてみれば、どれほどの幸福な人生になることでしょうか。

十、心に「信」があれば幸福です。

これは分からないことをなんでも無批判的に信じる信仰ではありません。仏教の信は、確信・納得という意味です。生きるとは何かと仏説から学んで、その教えをそのとおりであると納得できれば、「信が現れた」ということになります。ブッダの説かれた教えに納得したならば、人間にとってはそれこそ至上の幸福になるのです。罪を犯さない人間として生きることも、執着・しがらみなどに悩まない心を持つことも、解脱を目指して挑戦することも、「信」さえあればできるのです。

十一、智慧が現れることも幸福です。

お釈迦様は、「不幸・恐怖・危険と言えるものは、何であろうとも無知から生じるのだ」と説かれました。ですから、智慧を育てることは幸福の実現になります。一切の現象は無常であること、すべてのものごとは因縁によって一時的にのみ成り立っていること、現象には永遠に変わらない実体がないことを、理解することが智慧というのです。

十二、「罪を犯さない」ことが幸福です。

様々な幸福論をすべてまとめて一言でいうならば、「罪を犯さない」ことが幸福なのです。完全に罪を犯せない人間になりたければ、解脱に達することです。しかし私たちには、日々、罪を犯さない人生を過ごすことがいたって簡単にできるはずなのです。それぐらいの努力もしないで、幸福になりたいと思うならば、それは勘違い以外のなにものでもありません。

 以上、お釈迦様が説かれた幸福論です。

今回のポイント

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