パティパダー巻頭法話

No.203(2012年1月)

私は生まれ変わりますか?

渇愛に気づけば輪廻が分かる No rebirth but re-becoming.

アルボムッレ・スマナサーラ長老

経典の言葉

Dhammapada Capter XXIIII TANHĀ VAGGA
第24章 渇愛の章

  1. Yathāpi mūle anupaddave dalhe
    Chinnopi rukkho punareva rūhati
    Evampi tanhānusaye anūhate
    Nibbattatī dukkhamidaṃ punappunaṃ
  • もしもその根が堅固なら 木をば截るとも芽は萌えて 再び繁るその如く
    この渇愛の潛在の 根絶なくば 苦の生起 くり返されて終わりなし
  • 訳:江原通子
  • (Dhammapada 338)

輪廻を認めない理由

「輪廻」は仏教を学ぶ上で避けて通れない概念の一つです。しかし、よく理解されている概念というより、けっこう虐められている概念だと言ったほうがよいでしょう。その理由の一つは、輪廻は五感から入る情報で理解できないことにあります。
輪廻は科学的に証明できない、と言う人もいますが、輪廻を証明しようとして実験を試みている科学者は一人も存在しないのです。研究されていない課題を証明できませんとするのは、正しい言い方ではありません。
輪廻と業の話は、当時のインドにあった他宗教の概念を仏教に取り入れたものだと主張する学者もいます。この意見を述べる学者の立場をさらに延べて考えると、「ブッダは他人の話をパクった人」になります。しかし、お釈迦様は、自身が発見した真理は未曾有のオリジナルであると、たびたび仰っていました。それならば、他人の話をパクっているお釈迦様は「嘘つき」にもなってしまうのです。

また、お釈迦様の他の話は理解できますが、輪廻転生の話は「私に理解できない。納得がいかない」と言う人もいます。これは反論として弱いです。なぜならば、「私には分かりません。ですから認めません」という理論になってしまうからです。

二者択一の落とし穴

問題は「輪廻はあるのか?ないのか?」という二者択一なのです。

お釈迦様が説かれた言葉に対して、「間違っている、事実無根だ」と証明することは未だかつて誰にもできなかったのです。
お釈迦様は「教えが本当なのか、そうではないのかと、自分自身で試しなさい」と皆に勧めました。他の一般的な教えならば、そのとおりであると決着するのは容易いでしょう。
それが輪廻となると、誰でも「これは理解できない」という気持ちになります。しかし、「輪廻は存在しない」と証明することは、決してできないと思います。輪廻と業は、お釈迦様が五感のデータから達した結論ではありません。超越した智慧で発見した、生命の法則なのです。ですから五感のデータに基づいて物事を判断する人々にとって、輪廻は管轄外の概念になります。そうは言っても、五感のデータの範囲を乗り越えて超越した認識能力に達する資格が、一部の人間に制限されているわけではないのです。「虎穴に入らずんば虎子を得ず」という格言どおり、超越した認識能力に達すれば、輪廻があるか否かを確かめることができるのです。

そんな能力がない私たちは、輪廻を認めるか、否定するか、という二者択一の状態に陥ります。この場合は、いろいろ提案することが可能です。死で人生が終わるというならば、我々は好き勝手に生きてみても構わないことになります。悪行為や犯罪など、怖がらなくてもよくなります。バレないように巧みに犯罪すればよいのです。道徳を守ることや修行することに意味が無くなる。道徳を守ってまじめに生きていても、わがまま好き勝手に生きていても、最期は同じだからです。ですから、輪廻が無いとするよりは、輪廻があると認めたほうが、自分のためにも世のためにもなるのです。人々は自分の行為に責任を持つようになります。しかし、これで輪廻を証明したことにはなりません。

「私がいる」という実感の分析

輪廻転生を人間は頭で理解しようとするが、それより先に解決しなくてはいけない問題があります。
皆「私は輪廻転生しますか? 生命は輪廻転生しますか?」と問題提起しますが、まず「私とは何か、生命とは何か」と明確に理解して定義しなくてはいけない。仏教はそれに挑戦しているのです。仏教を実践する人々にも、その挑戦をさせているのです。
「私がいる」という実感が、誰にでもあります。それはどういうことかと調べればよいのです。客観的に観察してゆくと、「私」という実感が、瞬間瞬間、変わってゆく流れであると発見します。変わらない実体として「私」と言うべき何かは存在しないと発見するのです。そうなると、「私は輪廻転生しますか?」という設問は間違っていると分かります。喩えで言えば、「亀の毛は柔らかいか硬いか」について議論するようなものです。調べてみれば、亀には毛が無い。したがって、その設問は間違いなのです。

輪廻転生の概念は、「私」という個に限った小さな問題ではありません。それは「存在のありさま」なのです。
すべての現象は生滅変化の流れです。自分を構成している五つの現象を別々に調べると、その流れを発見できます。人に物体的な身体があります。人の身体は、最初は細胞一個です。それが外から物質を取り入れて増えてゆくのです。細胞の寿命は短いのです。しかし人体には平均60兆個の細胞があります。一部が壊れても、残っている数のほうがはるかに多いのです。しかし私たちが気づかないまま、身体は絶えず変化し続けます。この現実をまったく無視して、簡単に社会的習慣として「私」という言葉のラベルを、生滅変化してゆく物質の流れに貼るのです。物質的な身体を調べても、実体として「私」は存在しない。それから、死ぬときは身体の物質は自然界に還ります。自然界で留まるかというと、そうではありません。また限りなく変化してゆくのです。

まとめると

「生きることは苦」

人を構成する感覚・知識・感情・認識なども、常に変化して流れる。この場合の変化は、物質と違います。
感覚は別な感覚に変わるのです。苦が楽に変わったり、楽が苦に変わったり、また不苦不楽に変わったりする。
知識は別な知識に変わる。感情も様々な感情に変わる。認識は別な認識に変わる。感覚・知識・感情・認識は、別々に離れて行動することができません。この四つは常にワンセットで行動します。常に互いに依存しているし、影響しあっているのです。感覚が苦しみに変わったら、それに合わせて感情も変わる。知識も認識も変わる。たとえば感情が嫉妬に変わったら、思考も嫉妬に合わせて回転します。物質と同じく、セットで行動する感覚・知識・感情・認識も、絶えず変化するのです。
輪廻とはこの話です。「私が輪廻転生するのか?」という間違った設問に答えるものではないのです。それでも答えが欲しいというならば、このように答えられます。「あなたが『私というのは感覚・知識・感情・認識という四組の機能である』とするならば、それは断滅することはありません。絶えず変化し続けるのです」と。要するに、社会的習慣の言葉を使うならば、「あなたは死後、再生します」と言えるのです。しかし、その中身は相当違うと理解して欲しいところです。

「生きている」と簡単に言っても、肉体を構成している物質は絶えず変化していくのです。身体から物質が出ていくと、補わなくてはいけない。たとえ補っても、変化は止まりません。酸素や栄養などを入れたりして、最期の最期まで肉体を維持するために戦わなくてはいけない。
それでも、死ぬのです。努力は無駄になるのです。感覚・知識・感情・認識のセットは、物質よりも速く変化します。五感から絶えず情報を入れて、感覚などのセットを維持しなくてはいけないのです。感覚が別な感覚に変わらずに同じ感覚で続く場合は、苦しみを感じます。たとえば、長い時間立っていると苦しい。座っている場合も結果は同じです。知識と言ったのは、概念の回転です。頭の中で同じ概念を繰り返し回すと、おかしくなります。嫉妬・怒り・欲など同じ感情が続くと、またおかしくなります。その働きをすべてまとめて、お釈迦様が「生きることは苦」と語られたのです。

渇愛は二重構造

最後に、なぜ輪廻転生するのかと考えて見ましょう。
生き続けるために努力しても、生きることは壊れてゆくもの。満足に達しないのです。それで感情の中で、どうしても生き続けたい、という強い意欲が生まれます。すべての物事はいとも簡単に壊れるので、生き続けたいという意欲は強くなる一方です。もし人が、「自分は死なない」と分かったならば、その瞬間に生き続けたいという意欲も無くなることでしょう。しかしそれはあり得ない話です。この「生き続けたい」という意欲に、仏教用語で渇愛(tanhā)と言うのです。渇愛は二重構造です。生きていきたい、死にたくない、という渇愛に誰でも気づいているでしょう。それは意識的に働く渇愛です。しかし、渇愛は潜在的にも働いているのです。気づかなくても、生き続けたいという渇愛があって、生きているのです。潜在的に働く渇愛は、かなり強いものです。人が突然、末期の病気に罹って、余命はニ、三ヶ月しかないと宣告されたら、潜在的な渇愛に気づく可能性があります。

この世で善行為をしたり修行したりして、欲や渇愛を戒めようと努力する善人たちがいるのです。しかし、善い人間で生きていても、輪廻転生の苦しみからは解放されません。潜在的に働く渇愛を取り除かなくてはいけないのです。生命を輪廻転生させる原因は、渇愛なのです。意識的な渇愛を制御することで、悪に染まらない人生を送ることができます。潜在的な渇愛を根絶することでのみ、輪廻転生から脱出して、解脱に達することができます。

お釈迦様はこのように説かれます。「地下にしっかりと伸びた根が健在ならば、地上の樹木は伐られてもまた生えてくる。そのように、渇愛も根元から絶たなければ、再び何度でも苦しみが生まれてくるのです。」仏教を学んで、世の中の人々の生き方を観察して、欲はよくないと理解して、善い人間として生活することはそれほど難しいことではありません。しかし、潜在的に働く「生き続けたい」という意欲、即ち渇愛を発見して根絶するためには、ヴィパッサナーという自己観察方法が必要なのです。

今回のポイント

  • 輪廻と業はお釈迦様オリジナルの教え
  • 「輪廻の有無」は設問の仕方が間違っている
  • 輪廻は五感の情報で理解できる概念ではない
  • 渇愛は輪廻を司る原因です