パティパダー巻頭法話

No.204(2012年2月)

苦しみの泥沼

邪見の構造 Problem of evil.

アルボムッレ・スマナサーラ長老

経典の言葉

Dhammapada Capter XXIIII TANHĀ VAGGA
第24章 渇愛の章

  1. Yassa chattimsati sotā
    Manāpasavanā bhusā
    Vāhā vahanti dudditthim
    Sankappā rāganissitā
  • こころ喜び流れゆく 三十六※なる激流は
    快楽求め流さるる 邪見の人を蕩尽す
    ※自他各十八 計三十六の愛行(渇愛の仕事)
  • 訳:江原通子
  • (Dhammapada 339)

悪の存在をめぐって

  • なぜこの世に悪が存在するのでしょうか。
  • 人間の心に始めから悪があるのでしょうか。
  • 心は本来悪ではないが、後に悪に染まってしまったのか。
  • 悪は人間だけの問題でしょうか。他の生命には関係のない話でしょうか。
  • もし神が森羅万象を創造したとするならば、善と悪を混ぜて人を創造したのでしょうか。
  • 善のみの心で創造したのでしょうか。最初から善ではなく、悪を入れたのでしょうか。
  • また、善も悪も入れずに人を創造したが、生きるうえで心が善になったり悪になったりするのでしょうか。
  • 唯物論の立場から考えてみたら、善と悪は存在するのでしょうか。
  • 物質の副産物なので、無視するべきファクターなのでしょうか。

このように、人々は善悪の問題について考えているのです。
しかし、結論はありません。

矛盾だらけの議論

上に述べた項目は、人々の思考の一部に過ぎません。
これらの項目は、ひとつも正しいと納得できないのです。
心は本来悪であるとするならば、善い人間になろうとすることは実らない行為になります。後で悪に染まったと言われると、ややこしくなります。染まったら元に戻れるか否か、たとえ元の清らかな心に戻ってもまた悪に染まるのか否か、といった疑問が生じます。
悪は人間だけの問題だとするのも、怪しいのです。それを言うために他の生命の心を知っておかなくてはいけないはず。しかし、誰も知った上で言っているわけではないのです。
創造論を導入して答えを見出そうとしても、壁にぶつかります。神は善であって被創造物は悪だとすると、神は善だと言えなくなります。神は善であるならば、被創造物も善であるはずです。それなら悪は存在しないはずですが、悪は存在しているのです。神の権威の外で悪が割り込んだとするならば、神が全能であることは疑わしくなります。神はご自分の計画があって、人々に自己を戒める目的で悪を入れたとするならば、神は余計な問題を作る最低の計画者になります。初めから悪を入れなかったら、何の問題も起こらないでしょう。ウィルスをわざと開発して、感染させたようなものです。
このように調べてみると、納得できる意見はひとつもないと言えます。ですから、悪の問題は未だ解決されていないのです。

悪をしっかり悪用する

しかし悪は、この上ないビジネスチャンスです。
人間は、それだけは分かっています。悪が無ければ、宗教は成り立ちません。
特別に信仰する宗教が無くても、善悪の概念で人々を管理するのです。商売を営んでいる人々は、商売繁盛に邪魔になると思う時、悪の存在を否定します。権力者が、権力を維持するために悪の存在を否定する場合もあります。
その逆も世の中にあります。人を助ける目的だとして、商売繁盛を狙うひとも、人々を救う目的で政治的な権力を誇示するひとも居る。悪があるのか無いのか、なぜ悪があるのか、という基本的なことさえも知らないわりに、悪の概念はビジネスチャンスであることだけは、はっきりしています。

悪は気になるもの

なぜ人間は悪を気にするのでしょうか。
それは、物事は希望どおりに行かないからです。個人は常に、周りからの攻撃に警戒心を持たなくてはいけないからです。決して死後、地獄に墜ちるからではないのです。死後、天国に行くという概念は都合のよい考えなので信じたい気持ちになります。しかし、真剣にはならないのです。自分だけフリーパスで天国に行けるのだと、信じたいのです。
人間はわがまま好き勝手に自分の都合に合わせて様々な感情を持っているが、それが現実に合っているか否かは別です。一般人に知ることができるのは、この程度のことです。

原因は苦にあった

お釈迦様の教えによると、問題はもっと根深いのです。
生きることそのものが苦であると説かれたのは、お釈迦様だけです。この言葉は一般人の希望的観測には合わないのです。ですから悪の問題について、一般人の考えとお釈迦様の考えは当然違います。
仏教の立場から見ても、悪は存在すると言うべきです。生きることは苦です。生き続けることは、苦が続くことです。生き続けさせる原因に強いて言葉を当てはめるならば、悪と言えるでしょう。しかし、正しい仏教用語は「悪」ではないのです。「苦しみを司る原因」なのです。
お釈迦様は、ご自分で発見された四聖諦を世に宣言なさいました。
その一は、生きることは苦である、という意味の苦聖諦です。
その二は、苦を司る原因、という意味の苦集聖諦です。

この文章の最初に、悪の問題を取り上げました。ひとは生きるとは何かと明確に事実に基づいて客観的に観察することは全くなく、主観・感情・希望的観測などを取り混ぜて悪の問題を考えるのです。ですから誰にも答えは無い。悪について考えること自体も無駄な行為です。結論に達することができない思考は、妄想以外のなにものでもありません。妄想して真理を発見するとは、あり得ない話です。ナンセンスもいいところです。
まず生きるとは何かと客観的に調べることです。自分自身が生きているのですから、それほど難しいことではありません。
生きることは現実です。正しくありのままに調べてみると、呼吸することさえも苦によって起こる現象だと発見できます。
それから、なぜ苦があるのか、なぜ苦が起こるのか、なぜ苦が続くのか、という問題に取りかかるべきです。苦を司る原因、ということです。お釈迦様はそれを発見して、「苦集聖諦」というタイトルで発表したのです。

秘密は渇愛です

難しい話になるのは承知の上ですが、これからお釈迦様が語る「苦の問題(悪の問題)」について考えてみましょう。
苦集聖諦を説明するお釈迦様は、渇愛 tanhā が苦を司る原因であると説かれました。
ブッダの言葉は、漢字を見て辞書を調べて理解できるのだと思わないほうがよいのです。科学者が使う専門用語と同じ使い方です。科学用語も誰でも知っている単語です。しかしその本当の意味は、科学を学んでいる人しかわからないのです。渇愛とは愛着のことだろうと、軽く思ってはならないのです。

お釈迦様はまず、「渇愛は輪廻を司る pono bhavikā のです」と定義します。ということは、現れては消える、消えてまた現れる、生まれては死ぬ、死んで再び生まれる、という輪廻(サイクル)を司るエネルギーを意味します。

次の定義は、喜貪倶行 nandi rāga sahagatā です。生まれてきた生命は自分の生まれに対して喜びと愛着を感じる。自分の生に対して喜び愛着を感じさせるこのエネルギーは渇愛なのです(愛着は渇愛の一部の働きです)。

三つ目の定義は、ここかしこに歓喜ある tatratatrābhinandinī です。生を得た生命は、「これがよい、これが最高」と自分の存在に対して最高の価値を付けてしまう。「生命には我が身にまさる愛しいものはない」というブッダの言葉も、この意味です。自分の存在が最高だと感じさせるこのエネルギーは渇愛です。ですから渇愛と言えば単純に愛着のことではなく、三つの仕事をする心のエネルギーのことなのです。

ですから、「何としてでも生き続けたい、何としてでも死を避けたい、止むを得ず死ぬことになっても再び生を受け継ぎたい」と全ての生命は思うのです。知識・思考で思っているのではなく、本能なのです。考える能力があっても無くても、全ての生命にこの本能があるのです。

この文章の一番目の段落で、「悪は人間だけのものか、他の生命にも悪は存在するのか」という問題を書きました。それは答えが成り立たない疑問です。しかし悪ではなく苦が存在するのだという立場から見ると、如何なる生命であっても死にたくないということは分かります。何としてでも生き続けたいと、必死になっていることも分かります。ですから、仏教の思考なら答えは至って簡単です。「渇愛は全ての生命にある」です。

抜けられない網

渇愛は生命にとっては「唯一の悪人」です。苦しみを司る唯一の原因という意味です。
ある日お釈迦様が比丘たちに語ります。

「比丘衆よ、汝等に網の如き、流転する、瀰漫びまんする、膠着こうちゃくする渇愛を説かん。この世はそれによって攻められ、まとわれ、糸のもつれたる如くなり、乱れたる糸玉の如くなり、鉤藤かぎかづら刺蘿とげつたの如くなりて、無幸処・悪趣・剣難・輪廻を越えず。それを聞け、善く作意さいせよ。我まさに説くべし」と。
(南伝大蔵経十八巻増支部二、三六八頁)

意味が分からないと困惑しないでください。渇愛は生命にとって唯一とんでもない悪人であると、格調高く説かれているだけです。いくつかの喩えを理解すればよいのです。
我々は渇愛という網にかかっているのです。鳥とか猫のように小さな動物が、漁師の網にはまった状態を想像してください。その網を叩いたり、太陽の下で広げたり、また引き摺って行ったりする。中に絡まっている鳥や猫の状態は如何でしょうか。私たちも渇愛に、このように操られているのです。また小鳥が縺れに縺れている大きな糸玉の中に嵌められたら、逃げられる見込みはゼロでしょう。また自分がイバラの藪に嵌められたら、逃げられない状態になるでしょう。現代的な喩えを考えましょう。巨大な蟻地獄に堕ちたらどうしますか。底無し沼に落ちたらどうしますか。
このような喩えで、人間の心に棲みついている渇愛の危険性を説かれたところです。

人々は原罪・悪魔の誘惑などの神話物語で、悪の存在を説明しようとします。それらは無知な人の妄想です。智慧の言葉ではありません。生きているという実感があったから、惹き起こされた妄想でしょう。生きているという実感があります。調べればそれが苦であると分かます。さらに調べれば、とんでもなく恐ろしい渇愛という底無し沼に溺れていることに気づくはずなのです。藻掻いても藻掻いてもさらに苦しくなる一方で、自由になることは無いのです。
渇愛がある限り、生命には輪廻転生・苦しみの転生から抜け出すことは不可能です。

たちの悪い自我の妄想

証拠が無いから真理だと決めつける習性が、人間にあります。
現代人・知識人などのレッテルで自分たちと原始時代の人々との差を付けようとしているのは分かりますが、この習性は治っていません。ほとんどの人々は、自分に変わらない魂があるのだと信じています。それには何の証拠も無いのです。人は死んでも魂は死なないと、何の躊躇もなく言います。証拠が無いからこそ真理だと決めつけているのです。それは自分が生きているという実感から生まれる錯覚に過ぎないのです。なぜ・どのようにこの実感が湧いてくるのかと調べれば解決するのに、その研究だけはしない。「生きているという実感がある。ゆえに私がいる」という思考パターンです。

この肉体の中に自分だと正しく名付けるべき自分たる何かがあるのだという錯覚によって現れる概念が、自我・魂です。これも渇愛の仕業です。この錯覚が真理だと勘違いした人々は、自我・個我・霊魂・魂などの言葉を用語として使うのです。

自我がある・個我があるという、とんでもない錯覚が起きてしまったのです。この錯覚は、さらに新しい錯覚を作り出します。それは個我に対する真我という錯覚です。真我という言葉はヒンドゥー教で使いますが、他宗教になると絶対神です。古いヒンドゥー教は多神教でした。神々はたくさんいたのです。そこで瞑想の達人たちが議論して、神は複数いるはずがない、一人しか存在しないという一神教を作ったのです。現在はヒンドゥー教も一神教です。普通なら錯覚をまじめに真実だと思う人は精神病に罹っていると言うものですが、神は一人しかいないと言う人々は宗教家として崇められるようになったのです。

この妄想のせいで世界戦争まで起こっています。神とは何者でしょうか。自分という存在への渇愛を拡張・延長した代物(extension of self)なのです。抜け出す方法もない渇愛という底知れぬ泥沼に溺れている生命は、その沼を神という妄想概念で無制限に拡げてしまいます。抜け出せる見込みは、ゼロから無際限にマイナス数字になるのです。

渇愛は仕事がたくさん

人々は、なぜ悪があるのかと考えていました。
互い違いの意見はいくらでも現れるが、誰にも答えを見出すことはできませんでした。
お釈迦様が客観的にこの問題を見て、なぜ悪があるのかではなく、なぜ苦があるのかと問題を変えました。苦しみの原因は渇愛であるとも発見しました。
渇愛とは、生きることに執着すること、生きることを最大限に評価することです。渇愛の罠に嵌められた生命は、自分に自我・魂があるのだと妄想するようになりました。生きているという実感があるから、自我があるという錯覚が生じるのです。その錯覚を際限なく拡大すると、神という錯覚(魂のおおもと)も現れました。
この段取りを憶えて、またお釈迦様の話を聴きましょう。

「比丘衆よ、①は有りと云うことあるときに、②我はかくの如し、③我は[彼の]如し、④我は[彼と]異る、⑤我は常なり、⑥我は無常なり、⑦我は有るべし、⑧我は是の如く有るべし、⑨我は[彼の]如く有るべし、⑩我は[彼と]異りて有るべし、⑪ねがわくは我は有らん、⑫希わくは我は是の如く有らん、⑬希わくは我は[彼の]如く有らん、⑭希わくは我は[彼と]異りて有らん、⑮我は当に有るべし、⑯我は当に是の如くなるべし、⑰我は当に[彼の]如くなるべし、⑱我は当に[彼と]異るべし、と云う思想あり。
此等が内の(五蘊を)取りての十八愛行あいぎょうなり。」
(同右、三六九頁)

意味は分からないと思います。でも心配しないで下さい。恐らく専門の仏教学者の方々も、さっぱり分からないセクションです。
これは渇愛がどのように働きますか、という十八種類の渇愛伺察(渇愛の十八種の仕事)です。渇愛はたくさん仕事をしています。生きているという実感が、一切の災難の始まりです。その実感から、「私がいる」という妄想が現れる。私とは変わらない「我」であると妄想は進む。それから「この我」はこのようなものである、あのようなものである、他のものとは異なる、壊れない、壊れる、実在する、自分が実感しているとおりに実在する、この肉体と異なった形で実在する、……このように有ってほしい、あのように有ってほしい……、等々の妄想が膨らんでいくのです。
妄想ならいくらでも拡げられると思うでしょう。そうでもないのです。思考にもリミットがあります。我について人がどのように妄想しても、それは十八種類になりますと、お釈迦様が説かれるのです。

魂論を一網打尽に

この十八の中に、当然、現代の世にあるすべての魂論が入ります。
現代人も昔の人々も思考しなかったが、そのように思考する可能性がある妄想も入っています。現代の宗教に照らし合わせると理解しやすいと思いますが、いちいち照合する誌面の余裕はありません。
一つだけ、見てみましょう。

キリスト教によると、
人間には魂がある――これは①我は有り。
この魂は原罪で汚れている――これは②我は是の如し。
(懺悔や信仰で)聖霊を取り入れて生まれ変わらなくてはならない――これは⑨我は[彼の]如く有るべし。
その魂はイエスや神の魂と異なる――これは⑩我は[彼と]異りて有るべし。
罪人は魂の救済を求める――これは⑬希わくは我は[彼の]如く有らん。
死後、永遠の命を求める――⑫希わくは我は是の如く有らん。
一つの宗教であっても魂について詳細に語っていますから、このようにいくつかの項目に当てはまるのです。

説明はこれくらいにしましょう。渇愛に嵌められて、人々は色々な魂論を妄想して「魂」という妄想概念に執着している。そのために、苦から脱出できなくなっているのです。

「神の出現」に至る錯覚の連鎖

英語でIと言えばheとyou も成り立ちます。
あるドイツの哲学者が、Iとyouの関係は完全なる関係であると説きました。私がいる、という自我の錯覚が生じたら、当然、彼がいる、というyouの錯覚も起こるのです。
ですから自我の錯覚は、絶対的な魂の存在があるという錯覚まで発展します。それは神の出現です。妄想は自由なので、国によって、文化によって、宗教によって、また各宗教の宗派の考えによって、神の姿が変わります。

しかしお釈迦様は、自我に対する他我の妄想も十八種類であると説かれています。ということで、渇愛が自分に対して十八種類、他に対して十八種類、まとめて三十六種類の仕事をしているのです。

人は渇愛を無くせば苦からの脱出ができるのに、生きているという実感を調べてみないがために、決して輪廻の苦しみから解脱することができなくなっています。妄想・錯覚の網から、なかなか抜けられなくなっています。様々な思考を絶えずし続けるので、人生とは妄想の網の中でもがくことになっています。それで、さらに網に絡まってしまう。
人々は苦しみを無くす目的で、苦しみを増やしているのです。

十八種類の渇愛

なぜ心が汚れるのか、なぜ悪があるのか、という疑問に答えるもう一つの方法があります。
渇愛は三種類です。これは先程紹介した「渇愛の仕事」と重ねてはいけません。
一、五欲への執着。
二、存在への執着。
三、否存在への執着。
目で様々なものを見て妄想していると、五欲への執着が起きたり、存在への執着が起きたり、否存在への執着が起きたりします。三種類の渇愛が生まれるのです。耳で音を聴く時も、同じく三種類の渇愛が生まれます。感覚器官は眼・耳・鼻・舌・身・意という六つです。この六ケ所で三種類の渇愛が起こるのです。

すべて数えてみると、渇愛は十八種類になります。それは何を意味するのでしょうか。
我々は絶えず物事を見たり聴いたり味わったり嗅いだり触れたり考えたりしていますね。それをストップすることはできないでしょう。ですから眼耳鼻舌身意という六つの感覚器官を通して、絶えず汚れの流れが注ぎ込まれているのです。

渇愛を滅した最初のひと

悪が有るか無いか、いつから心が汚れたのか、などの質問への、これが仏教の答えです。
六種類の汚れの流れが、絶えず心に注がれています。人々にはこの巨大な流れを避けることはできないのです。
人類で初めて、お釈迦様だけがこの流れをストップすることに成功したのです。お釈迦様の眼耳鼻舌身意にも、情報が触れて認識が起こります。しかし、三種類の渇愛は起きないのです。覚りに達したお釈迦様と一般の人の差は、ここにあります。お釈迦様も思考します。しかし、妄想はしません。

お釈迦様は次のように説かれました。

「渇愛の巨大な流れが、眼耳鼻舌身意から常に注がれています。
欲に絡まった妄想をする人々に、輪廻から脱出する方法は発見し難いのです。」
(ダンマパダ三三九偈の意訳)

今回のポイント

  • 生きることを観察しないので自我の錯覚が起こる
  • 自我の錯覚は神という錯覚を作る
  • 人は渇愛と妄想の網に嵌められている。
  • 眼耳鼻舌身意を通して悪が注がれる