パティパダー巻頭法話
Sabbe satta bhavantu sukhitatta
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No.205 (2012年03月)
なぜ悪があるのか

 〜悪が「生きること」を監禁する〜
 Life enslaved by evil
A・スマナサーラ長老     
◎今月の巻頭偈
Dhammapada Capter XXIIII . TANHÂ VAGGA
ダンマパダ(法句経) 第24章 渇愛の章

340
   Savanti sabbadhi sotâ
   Latâ uppajja titthati
   Tañca disvâ latam jâtam
   Mûlam paññâya chindatha

340
   愛欲の流れ涯てしなく
   蔓は芽を吹き 葉は繁る
   蔓生ずるを見し時は
   智慧をもて断て その根をば       (和訳 江原通子)

■悪は苦をつくる

哲学や宗教では、悪について色々複雑なことを考えます。しかし納得が行く結論にはなかなか達しません。今回は他の思想と比較することを止めて、悪についての仏教の見解をさらに説明したいと思います。
行為を悪か善かと分ける方法が二つあります。一つ目は行為をおこなう心が汚れているか否かです。心が汚れている場合は悪行為になります。汚れていない場合は善行為になります。しかしこの説明では問題が起きます。はじめから汚れることを悪にしていることです。汚れと清らかさは、結局は、悪と善に似ているのです。ですから二つ目の方法を考えてみましょう。それは苦と楽の差で判断することです。各生命に「苦」という感覚がありまして、また「楽」という感覚もあります。生命は苦を嫌がるし、楽を求めるのです。苦が結果になる行為は悪です。楽が結果になる行為は善です。この定義は誰にでも分かりやすいと思います。
しかし、この定義から新たな疑問が起こります。生命は一貫して苦を嫌います。避けようとします。苦しんでみたいと、あえて飛び込んで行動する生命はいない。反対に楽を求めるのです。楽になると思うならば、何でもします。それなら、すべての生命の行為は一貫して善行為になるのではないか、という疑問です。もし、すべての生命の行為は善だとするならば、悪は存在するはずも無いのです。

■無明は悪の原因

この疑問への答えとして、仏教は理解能力・判断能力について語っています。無明avijjq という用語を使うのです。生命には基本的に、ありのままに認識する能力が備わっていないということです。どちらかというと、あってほしいままに、客観的なデータを捏造するのです。ですから、善いものは悪いと、悪いものは善いと、逆さまに判断してしまう。結果として、楽を求めて悪行為をしたり、楽を求めて善行為を避けたりするのです。結果として、生きることは一貫して苦ということになる。結論はこうなります。生命に無明があるから、悪は存在します。判断能力はほとんどあべこべになるので、生きることは誰にだって「苦」なのです。

■苦労して善を発見する

このように結論づけると、「善はどこへ行ったのか?」と疑問を呈したくなります。それもその通りです。善と悪は五分五分に存在するとも、善のほうが多いとも、言えないのです。銀河系で惑星を探すように、善を見つけるのは難しいことだと思います。善はいくつかのランクで考えなくてはいけない。まず生命は、経験で善を発見するのです。よかれと思って何かをする。しかし結果は期待外れで苦になる。それでその生命は、あの行為はやってはいけないことであったと、判断するのです。世間一般的にいう善は、このように経験で発見したものです。このような善の場合は、必ず裏に悪があるのです。他人に優しくするのは、よいことで、善です。それは、他人をいじめることで、他人に不親切に振る舞うことで、悪い結果を経験しているからです。しかし善行為のリストは、ほとんど否定形で成り立っているのです。「殺してはならない」「嘘をついてはならない」「不倫はよくない」「怒ってはならない」「怨んではならない」等々です。善が否定形になっているのは、根底に悪が、がっしりと存在しているからです。悪と比較して、善を考えるのです。ということは、「悪の経験はあまりにも現実的である」という意味になります。世間一般の善はこの程度です。

 もし、「物事を正しく理解しましょう」「誤った考えを止めましょう」「真理・事実を発見しましょう」というような気持ちが起きたならば、その人々はその方向へ努力するのです。その努力が上手く行けば、間違った考えなどを正すことができるのです。それで当然、楽が生じるのです。昔は、悪霊が太陽の神を食べるから日蝕が起きるのだと信じられていました(「日蝕」という単語にも注意)。それで日蝕が起こると、すべての人間が怯えて震えたのです。悪霊払いをしたり、太陽神を褒め称えたり、場合によっては生贄まで捧げたりしていました。それで一部の人々は、いったい日蝕とは何なのかと、その事実を調べました。調べた結果、日蝕の天文現象としての仕組みも分かりました。いま人間は、日蝕が起こることに何の怯えもありません。珍しい現象なので、かえって喜んで調べます。太陽のコロナを写真に収めようと思って、飛行機まで飛ばしています。そこで、「無知を破ることで楽になった。愉しくなった」ということが言えます。生き方が楽になる行為は、善になります。

■善の誤解

 それから人々は、色々な種類の善を考えだすのです。多数の人々が楽になるならば、少々の人々を苦しめてもよい、という考えもあります。人間が生きることが大事なので、生きるために殺生は構わないことにします。正義の味方も善だとします。しかしこのような善は、善になりません。なぜならば人間は、自分だけ唯一優れているというスタンスで考えるからです。「人間が唯一優れた存在である」ということは人間の主観であって、客観的なデータに基づいて発見した事実ではありません。人間にははじめから、ありのままに物事を観て真理を発見する能力が付いていないので、無明のバイアスで物事を考えたり判断したりするのです。ですから善になるはずもないのです。

 それより、経験で学んだ善のほうがよいのです。何よりも優れた善があります。それは無明を破る努力です。無明を破れば、物事をありのままに認識することができるのです。その人は自然に、結果が苦になる行為を止めるのです。すべての行為は善行為になるのです。無明はしぶといのです。簡単には破れません。お釈迦様は、段階的に無明を破る方法を語ります。というわけで仏教を実践することが、当然、純粋な善行為になるのです。

■信で善悪判断しない

 仏教の見方からする善悪の分析はこれで終了、というわけには行きませんが、この程度にしておきます。しかしこの分析から、一つの考えを見いだせます。人生は「悪が多く、善は滅多に無い」ということです。もう一度、悪がどこから来るのかという問題を考えましょう。仏教には輪廻転生の考えがあるからといって、悪は過去から背負って来るのだと簡単に結論づけないほうがよいのです。輪廻は現実だと発見したのは、お釈迦様です。我々一般人には超越した覚りの智慧が無いのです。当然、仏教徒はお釈迦様の言葉を真理だと信じるのです。しかし、善悪の問題を理解するために「信じること」をファクターとして使ってはならないのです。一神教の道徳の土台も、信仰です。信じることの信頼性は五分五分です。信じる概念はその通りで正しいかも知れないし、また間違っているかも知れない。信仰には何時も五分五分の問題がつきまといます。

■悪はつねに起き続ける

 悪は何処から来るのでしょうか。何処からも来るわけではないのです。いま・ここで、悪が絶えず起き続けているのです。これが答えです。その説明に入りましょう。

我々には眼が二つも付いています。眼が開いている間は、絶えず様々な色や形が映るのです。ストップすることはできません。見られる対象はどのようなものかと客観的に調べる余裕は無いのです。見る瞬間に眼識が生じて、判断してしまうのです。自分の主観で、自分の好みで、判断が変わるのです。心に、@好き、A嫌い、B面白くない、という価値判断が起こるのです。あっという間の出来事です。好き・嫌い・面白くない、という判断は、貪・瞋・痴だと言うのです。貪瞋痴は心の汚れなのです。行為をするためには、判断が欠かせません。そこで、何かを見て下した判断は、貪瞋痴のいずれかです。眼から入った情報を認識してする行為は、善になりますか? 悪になりますか? 答えは簡単です。行為を起こした判断は、貪瞋痴で汚れていたのです。ですから、悪行為です。

 ただ眼を開けていただけなのに、悪が流れてくるのです。行為とは身体でおこなうことだけではありません。話すことも、考えることも、行為です。何かを見たところで、先に考えるのです。それから話したり行動を起こしたりもするのです。というわけで、見るだけの行為であっても、心が汚れることは避けられません。悪が起こることは避けられません。見るということは、善でも悪でもない。眼があるから、見える対象があるから、起こる現象なのです。意識して判断して見る場合もありますが、普通は自然に起こる現象です。それが悪に変身するのです。それで、眼を通してノンストップで心に悪が流れてゆく過程を理解できると思います。

 認識器官は、眼だけではありません。耳もあります。眼は閉じることができますが、耳にはその自由もありません。絶えず音が流れ込むのです。それで耳識が生まれて、瞬時に判断する。その判断もまた、貪瞋痴なのです。現代では、外の雑音は好まない・面白くない・退屈(怒りと無知)という判断をして、イヤーホンを付けて自分好みの音を聴き続けています。それは意図的に欲に基づいて聴覚を作ることです。眼と同じく、耳を通してノンストップで心に悪が流れるのです。

 人は、鼻と舌を通して嗅覚と味覚を作ります。眼と耳と比較すると、それほど激しい流れでは無いのだと言えますが、現実はそうでもありません。鼻も舌も、常に香りと味を感じる準備を整えてスタンバイしている。情報が触れた瞬間で、認識と判断を行うのです。鼻と舌を通しても、ノンストップで心に悪が流れるのです。

 五番目の感覚器官は身体です。眼を閉じて何も見ないで居ることも、耳栓をして音が入らないようにすることもできますが、身体で感じることはストップできません。もし人が突然、足を感じなくなったり、手を感じなくなったりしたならば、それは大変です。びっくりします。怖くなります。病気だと思います。ですから、身体は眼よりも多く仕事をしているのです。熟睡しない限り、身体が情報を認識することは止みません。熟睡している時も、何かが触れたら感じられるようにと、準備を整えてスタンバイしているのです。身体を通しても、ノンストップで心に悪が流れるのです。

 最後の感覚器官は心・意です。五感から入る情報を認識しなくてはいけない。考えなくてはいけない。過去のデータと比較しなくてはいけない。瞬間たりとも休みなく仕事をしているのは、心です。見るもの、聴くものなどが無くても、心のなかで思考は回転します。絶えず妄想するのです。妄想を引き起こす原因も、貪瞋痴です。意のなかで五感と比較にならないほど大量の悪が流れます。この場合は、流れ込むというよりは、「湧き出す」という単語のほうがよいと思います。

■智慧の剣

 ではこの状況をヒトコマの漫画で表現したら、どんな絵がよろしいと思いますか? 外から五つの恐ろしいものが流れ込むでしょう。その上、身体のなかからも恐ろしいものが湧き出してくるでしょう。この無数の流れが互いに絡みあって、人を徹底的に束縛して、身動きできないようにしているでしょう。本当はこの状況を漫画的にイメージすることさえも不可能です。これが悪の正体と働きです。いま・ここで悪が起きているのです。逃げられない状態です。

 そこで、その人に智慧(paññâ)―ありのままに見られる能力―という鋭い剣を渡しましょう。その人は自分を束縛しているその流れを斬るのです。悪の流れをお釈迦様は蔓の例えで表しています。蔓が6つの方向に伸びて、絡みあっている。絡み合っている蔓を一本一本斬っても、また伸びる。だから、智慧の剣をもって、蔓の根元を斬るのです。それで伸びた枝は無くなります。悪の根元は無明です。無明は智慧で斬るのです。

今回のポイント

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