パティパダー巻頭法話
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No.208 (2012年06月)
こころは転落しやすい

 〜解脱するまで人生は矛盾〜
 Mind falls easily but hard to uplift
A・スマナサーラ長老     
◎今月の巻頭偈
Dhammapada Capter XXIIII . TANHÂ VAGGA
ダンマパダ(法句経) 第24章 渇愛の章

344.
   Yo nibbanatho vanâdhimutto,
   Vanamutto vanameva dhâvati;
   Tam puggalametha passatha,
   Mutto bandhanameva dhâvati.
344
   無林の者となりながら  欲林目指す者のあり
   欲林を出【い】で 欲林へ  再び走る者のあり
   見よや 欲なる縛【いましめ】を  放たれながら欲林に
   再び走る彼の姿を                    (和訳 江原通子)

■楽を目指して苦を求める

「生起する性質の物事に対して厭悪(飽き飽きする、嫌になること)するものが、生起から離れようとして、生起する性質のもののみを探し求める。同じく、老いる性質の物事に対して厭悪するものが、老いる性質から離れようとして、老いる性質のもののみを探し求める。死する性質の物事に対して厭悪するものが、死する性質から離れようとして、死する性質のもののみを探し求める。」

これは『Ariyapariyesanasutta聖求経』(中部経典26)に記されたキーポイントの意訳です。生命の探求を、俗求と聖求という二つに分けて、真理を明かす経典です。

 しかしこの意訳から、何も理解できないと思います。老いることを嫌がるひとが、老いることから離れる目的で老いることのみを探し求めるならば、それは立派な矛盾になります。普通のひとは、矛盾を嫌がるはずです。あえて矛盾になる行動はしないのです。誰もが矛盾には陥りたくないと思っているにも関わらず、いとも簡単に矛盾に陥ってしまうのです。ですから、矛盾になる行動は、意図的なものではないと言えるでしょう。本人が気づかないまま、矛盾した生き方をしているのです。

■不安と怯えが攻撃する

お釈迦さまは、次にこの言葉の意味を説明なさいます。

「生起する性質の物事、老いる性質の物事、死する性質の物事とは、何でしょうか。妻子は生起する性質・老いる性質・死する性質です。使用人・犬猫・象・牛・馬・金銀宝石などの財産も、生起する性質、老いる性質、死する性質です。」

 これで釈尊が言わんとするポイントは明確になりました。俗世間では、夫婦仲良くすること、子供たちが元気に成長すること、良い使用人に恵まれること、財産に恵まれることなどによって、幸福になると思っているのです。必死になって、これらを探し求めるのです。家族がいなかったら、不安と怯えが攻撃するのです。財産が無かったら、不安と怯えが攻撃するのです。それらのものが有ることこそが幸福だ、生きる苦しみに対する解決策だと思っているのです。ひとは不安を感じる。恐怖感をかんじる。落ち着かなくなる。何かをしなくてはいけないという衝動が生まれてくる。しかし、なぜ不安を感じるのか、恐怖を感じるのかは、まったく分からないのです。「人間ならそれは当たり前だ」と言って、調べようともしないでその問題を放り投げるのです。

■不安と怯えの原因

 そこでお釈迦さまは、人々が不安・怯えを感じる原因を明かすのです。

それは生・老・病・死です。

生きるとは、生起が続くことです。毎日毎日、人生が変わって、環境が変わって、新しいものが生じるのです。それは不安でたまらないのです。子供を最初に幼稚園に入れたら、決して喜ばないのです。たまらない不安に襲われて、泣いてしまうのです。この流れは、死ぬまで止まりません。毎日毎日、慣れていない新しい人生に出会わなくはいけない。これが生起です。ひとは、生起が不安と恐怖感をつくりだすのだと分かっていない。にもかかわらず、安定した人生を目指すのです。安定した家族、安定した職業、安定した収入を目指すのです。しかし残念なことに、これらは一つも安定しないものです。ですから、生起の不安は消えません。「生起が嫌だから生起を目指す」という矛盾が生じるのです。

 老いることも、不安と恐怖の種です。生まれた瞬間から、一方的に老い続けるのです。それが不安です。それで恐怖を感じます。
解決策として、老いるものを探し求める。次は病です。誰でも病にかかる可能性があります。必ず病にかかります。ですから不安でたまらないのです。だからといって、家族がいることで、財産があることで、病から逃げたことにはなりません。自分のことだけではなくて、家族もペットも家畜動物たちも、病にかかるのです。自分ひとりの病もたいへんなのに、周りの人々の病に対しても不安と恐怖感を感じなくてはいけなくなるのです。

 死は絶対的に訪れるものです。でも、自分の死は考えたくもない。だから「自分は死なない」と無意識に叩きこんであるのです。
死を避けるため、必死になって、死する性質のものを探し求めます。その結果として、親戚の死、妻子の死、ペットの死、家畜動物たちの死などに出会わなくてはいけないのです。自分の死も怖いのに。不安を消してくれるはずの対策が、より一層、不安を作ってくれるのです。

というわけでお釈迦さまは、俗世間の生き方そのものが、矛盾そのものだと説かれたのです。

 注 : しかしこの経典では、「矛盾pakativiruddha,pativiruddha」という単語は使っていません。矛盾という語は、対話をする時に使うものです。人間は、知った上で矛盾した生き方をすることはないのです。一切生命の生き方は矛盾したものになるので、とりわけ「あなたは矛盾した生き方をしているのだ」と言うのは意味のないことです。しかし、議論する場合は違います。矛盾にならない見解を持っている人も、矛盾であることに気づかないまま見解を持つ人もいるのです。見解とは考えた上で達する結論なので、矛盾があってはならないことが前提なのです。

■なぜ生きる矛盾に気づかない

なぜ生命は、生きることはそのまま矛盾であることに気づかないのでしょうか? なぜ矛盾した生き方をすると人生が絶望で終わるのだと気づかないのでしょうか? 
それには理由があります。渇愛と恐怖が、生命を生きさせる衝動なのです。渇愛とは存在欲です。「死にたくはない」という気持ちが恐怖です。脳のはたらきで説明するならば、原始脳がつかさどる感情です。原始脳には、思考能力も判断能力も学習能力も無いみたいです。身体に入るすべての情報を、敵か味方かと分けて判断するように大脳新皮質を管理するのです。ですから、生き続けるために味方になるものに執着して、できるだけたくさん収集しようとする。生き続けることの妨げになるものは敵視するのです。

しかし大脳新皮質が無理をして、「何でも限りなく収集したり、嫌なものをなんでも敵視して攻撃したりするのは、基本的に自分の生き方に良くないことだ」と判断する時もあります。例えば、嫌な人を殺したいという感情が起きたとします。しかし、脳の理性の部分がブレーキをかけるのです。欲しいものを制御することも、嫌なものに対して攻撃しないで受け入れることも、人間にとっては容易いものではありません。原始脳の感情を抑えなくてはいけなくなるからです。

■こころの大革命を起こす

 こころは基本的にこのような構成なので、生きることは矛盾です。こころに大革命を起こさなくてはいけないのです。生きるとはなにか、生きることに意義があるのか、命に価値があるのか、などを発見しなくてはいけないのです。

お釈迦さまは、この実験に挑戦しました。そして、一切の現象は無常であること、因縁によって一時的に成り立つことを発見したのです。実体がないことを発見したのです。無常たるものに執着するのは、無知であると発見したのです。智慧で観ると、執着は成り立たないと発見したのです。こころが一切の執着から解放されたのです。これが大革命です。普通のひとのこころの流れと、百八十度変わった流れになったのです。脳を例にして説明するならば、理性をつかさどる大脳新皮質が、原始脳を支配するようになったことです。それで初めて、不安と恐怖感が無くなる。生・老・病・死に勝ったことになるのです。

■涅槃・解脱をどう説明するのか

「生・老・病・死に打ち勝ちました」というブッダの言葉も、一般人は渇愛と恐怖感に合わせて理解しようとします。「永遠不滅の命をいただいた」と勘違いする。さらに、「その場所は何処ですか?」と訊く。ブッダの教えでは答えがないので、後の人々は他方仏土・極楽浄土・仏界・金剛界・胎蔵界などを発明するようになったのです。生命が永遠に生き続ける境地があるならば、お釈迦さまがそれを教えれば簡単でよかったのに、初期仏教ではまったく触れられていないのです。「涅槃の境地とは?」という質問さえ、釈尊は、「行き過ぎの質問だ」と却下されたのです。

一切の現象は無常なので、永遠不滅の境地ということは成り立ちません。お釈迦さまは明確に、「輪廻転生からの解脱」という用語を使ったのです。覚りに達していないこころは、存在を肯定するか否定するかという両極端でしか考える能力を持っていません。だから一般の人々には、涅槃・解脱とは何かと理解不能なのです。お釈迦さまは涅槃・解脱を「苦しみを乗り越えた状態、というふうに」と説明されました。それ以外、一般人に理解する方法はないのです。しかし、脳(こころ)の大革命を起こしたならば、その問題は生じないのです。

■宗教によって違う「冥想」の中身

 こころの大革命を起こす実践は、お釈迦さまが発見した観察冥想です。観察するとは、パーリ語でvipassatiです。この動詞から作った名詞がvipassnâ(ヴィパッサナー)になります。

仏教の修行は冥想することだと、一般的に言われています。冥想とは、インドの他の宗教の修行も示す言葉です。ですから冥想という単語のなかに、たくさんの修行方法が入るのです。ですから、冥想なら何でも宜しい、という錯覚に陥るのです。修行は各宗教の教理にあわせて企画するものです。ひとは神と一体になるべきだ、という教理の場合は、神と一体になれる修行方法を考えて、それに冥想と言う。魂を浄化するべきだという教理の宗教は、修行として魂の浄化プログラムを推薦して、それに冥想と言う。「死後のことはどうでもよい。落ち着いて幸福を感じて生きていきたい。それが人生の目的だ」と考える人々は、それに相応しいプログラムを考える。そのプログラムを冥想だとするならば、「良い気持ちに達する実践」になるのです。ですから、「冥想なら何でも宜しい。どんな冥想も同じ目的を目指しているのだ」というのは、正しくない考えです。

■サマタ冥想とヴィパッサナー冥想

 仏教のなかでも、サマタ冥想とヴィパッサナー冥想という二つが教えられています。
サマタ冥想は、仏教独特の冥想ではありません。仏教以外の宗教でも、サマタというカテゴリーに入る冥想があるのです。こころを統一して安らぎを感じる実践は、サマタです。他宗教には他宗教のやり方があります。仏教には仏教のやり方があります。やり方が違っても、目的は集中力を育てて安らぎと至福感をかんじることです。それなら、修行したい人は「どちらのサマタ冥想の方法が効率的でしょうか?」と考えればよいのです。
しかしヴィパッサナー冥想はサマタ冥想と違います。喜悦感をめざしてヴィパッサナー冥想を実践することはしないのです。喜悦感自体は悪くないのですが、それによって原始脳は変わりません。「生きることを応援するものなら何でもよし」という立場は変わらないのです。ヴィパッサナー冥想を実践するときも、集中力が必要です。集中力があがるとサマタ冥想と同じく喜悦感をかんじるが、それさえも無常であると観察し続けて、智慧を開発するのです。こころが大革命を起こして完全なる自由に達するところまで、ヴィパッサナーを続けるのです。

 仏教を教える場合は、サマタとヴィパッサナーという二種類の冥想の差をはっきりさせないといけないのです。仏教が推薦するサマタ冥想を実践することで、煩悩を抑えられます。こころに統一能力がある限り、煩悩に悩まされることは無いのです。しかしそれは、安心できる状態ではありません。原始脳の感情は、冥想実践という強い力によって、一時的にスイッチオフ状態になっています。感情がふたたびスイッチオンにならないように、集中力を保ち続けなくてはいけないのです。それは、壊れた原発から放射能を撒き散らさないように、水を流して冷却し続けるようなはたらきです。ヴィパッサナーの実践は、原子炉の放射能をすべて無くすことなのです。成功すれば、冷却する必要が無くなります。現在の科学能力では、放射能を無くす方法はありません。同じく、ブッダのヴィパッサナー冥想以外、こころの煩悩を完全に無くす方法は無いのです。このポイントを明確に言わなくてはなりません。こころの汚れが機能しない睡眠状態と、こころの汚れが残りなく消えた状態は、決して同じではないのです。

■こころを緩めるなかれ

 仏教の世界では、この問題でたびたび悩まされたケースが記録されています。

昔、ブッダの弟子たちは、まずサマタ冥想で集中力を育ててサマーディに達しました。それからその集中力を使って、観察冥想に入ったのです。サマーディを作ったところで、こころが煩悩によって混乱したり悩んだりすることは一時的に停止します。観察冥想を楽々にできるようになります。しかし、サマーディに達してから、修行が成功した気分になって、こころを緩めるひとも現れたのです。その人々のこころは、何かのきっかけで元の状態に戻ってしまう。貪瞋痴の感情が現れるのです。原始脳をある時間スイッチオフにしていたので、ふたたび不注意でスイッチオンになったら、感情の出方は激しくなるのです。

カッサパ尊者の弟子であったある比丘が、冥想してサマーディに達しました。彼はそれから、修行を緩めてしまいました。ある日、親戚の金細工師の家で女性の姿を目にしたことで、こころを奪われて頭がおかしくなったのです。話が通じるどころではなかったので仕方がなく、彼は還俗して相手の女性と一緒になったのです。しかし、彼は仕事をすることに興味がない。怠け者です。それでは在家生活は務まりません。彼は悪人と仲良くなり、泥棒にまで手を染めることに成りました。のちには王様の役人に捕まえられて死刑を命じられるはめになったのです。

 お釈迦さまは、彼のみじめな姿について、このような偈を説かれました。
「束縛が煩わしいと思い、束縛のない生き方を始めたのに、また煩わしい束縛を目指して走るひとを見よ。自由になったのに、また束縛へ走るひとを見よ。」

せっかく修行の道に入って、こころの一時的な安らぎに達しても、解脱を目指さないひとは、また矛盾の道に迷いこんでしまうケースもあるのだ、という戒めです。

今回のポイント

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