パティパダー巻頭法話
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No.21 (1996年11月)
「悩み、苦しみ」を諦められるか
A・スマナサーラ長老

 仏教の立場からいえば、人間の苦しみ、悩みは人間が勝手に作っているものではないかといえます。しかし悩んだり心配したりしている人にとってはその悩みごとは、実際にある大変な問題で、決して自分が好き勝手に作ったものだとは考えられません。そう感じられるならば悩むことなく人生は生きられます。いろんな悩みごとがあって、精神的にも身体的にもストレスがたまって健康状態も壊れかけていた人に、私はこういう風に言ったことがあります。「あなたには別に、悩まなくちゃいけないことは何もないでしょう。ただいろんなことについて自分で好き勝手に悩んでいるだけでしょう。今健康状態も悪いのですから、悩むことをやめたらいかがですか。」するとその人は「何と失礼な、人の気持ちをまったく理解していない。」と大変怒りました。私も怒られてあたりまえだと思います。苦しんだり悩んだりしている人にとってその悩みは、切実な問題であって、自分の妄想だけで悩んでいるわけではないのです。もし自分の主観的な妄想だけで悩んでいるとわかれば、すぐ立ち直れます。しかし自分の主観的な妄想で悩んでいるということを理解するのは、無理といえるほど非常に難しいことなのです。ですから、悩み、苦しみから脱出するのは並大抵のことではありません。たとえば子供が非行に走っている、と悩んで悩んで悩み疲れて、体調が悪くなっている人にとっては、「子供の非行」という「事実」がありますから、自分の悩みが主観的な妄想から生まれたものとは思えないでしょう。

 人間の悩みは、大ざっぱですが2種類あります。ひとつめは、客観的、具体的に把握できそうな問題、たとえば家族の問題、仕事の問題、経済的な問題、人間関係、また体のこと、病気の問題などです。
ふたつめは、主観的な自分の性格から現われる問題です。たとえば弱気、消極性、激しい好き嫌い、完壁主義、エゴイスティックな性格などです。以上のような性格の人々は実際の社会に入ったところで、現実はいつも自分の性格に合わないことに気付いて悩みます。こういう人々に、「あなたは物事を決めつける性格ですから、性格さえ変えれば悩むことはないでしょう。」と言ってあげても、変えられるものであるのならば誰でも自分の性格をいい方向へ変えるでしょうが、なかなかそうはできません。

 2つの悩みのうち、今日は一番目の悩みについて考えてみたいのです。
前の例に申し上げましたように、子供が非行に走ったと悩んでしまうのはあたりまえのことです。経済的な厳しい状態に追い込まれたときも、誰かが重病になったときも、すぐ悩みます。それらの場合は具体的な悩む対象があります。我々は、その間題さえ解決すれば悩まないですむのにと思ってしまいます。でも解決できる問題と解決方法がない問題があります。解決できる問題であるならばそれを解決すれば悩むことが消えて喜びを感じます。
本当に悩むのは自分がどうすることもできない問題についてです。でもその場合は、いくら悩んでも終わりはなく、結局自分自身の人生がだめになってしまうだけです。

ですからどうすることもできない問題については、まったく悩む必要はありません。たとえば人が不治の病にかかったりする、自分の親しい誰かが亡くなったりする。自分の子供たちが、自分の希望とまったく違う道を選んだりする…その場合は解決方法がまったくない。自分が死ぬまで悩んでもどうすることもできない。それならすぐ悩むことをやめて明るくなったほうが得策です。解決方法がない問題については、特別な問題ではなくてごく普通の自然現象だと理解して欲しいのです。自然的なあたりまえの現象について悩むのはあまりにも愚かなことです。季節が変ったあと、雨が降ったあと、夜が明けたあと、悩む人はいません。そのように我々の客観的な問題についてのもし解決方法がないならばそれは単なる自然現象と同じだと理解して落ち着いたほうが正解です。

 理屈は簡単ですけど、なぜ実行できないのでしょうか。それは我々が悩まされているもろもろの問題について明確に具体的に観ようとしないからです。解決方法があるかないか、はっきりと判断するべきです。解決方法があっても、それは実行可能かそうでないか、明確にするべきです。解決法のない問題についても、理想的な解決方法があっても実行不可能な問題についても、どちらも解決できない問題として理解して諦めるべきです。諦めるということは大変なことです。消極的に問題から逃げるのではなく、問題を理解して諦めることは、積極的な行動です。また、解決方法のある問題については、積極的に解決を目指して努力するべきです。そうすると、どんな具体的な問題についても悩むことはまったくなくなります。

 しかし人間には諦めきれないという弱点があります。つきあっている相手が別れていった、もう決して戻っては来ない、というような場合も、自分の心は諦めきれない状態で悩んだりする。戻ったらいいなあ、やり直せれば幸せだなあ、こうすればよかった、ああすればよかった、などいろいろなことを妄想して悩み続ける。子供のことで悩む母も、育て方を間違えた、もっとやさしくしてあげたらよかった、子供を甘やかしすぎた、などと考えて苦しむ。会社が倒産したときも、ああすればよかった、こうしなければよかった、と考えて悩み苦しむ。でも必要なのは、解決方法があるかないかを理解して積極的に諦めることです。それをできなくてくよくよ悩んで、自分の人生そのものを破壊してしまう、子供、家族、財産、仕事、人間関係、などどんな問題に悩んでも結局は何の意味もないのです。また逆にすべてがうまくいったとしても、大したことではありません。子供がよく育てられた、会社で真面目にがんばった、などは客観的にみれば自慢にもなりません。ひとつ質問があります。すべてがうまくいったとしても、それはあなたにとって何ですか。最終的に歳をとって、一人寂しくすべてを捨てて、この世を去っていくのではないですか。限りない心配ごとがあって苦しみながら生きていても、物事がうまくいって楽に生きていっても、特別な意味がありますか。どちらにしても空しいでしょう。それを超越した道を探してみましょう。

今回のポイント

◎経典の言葉
Puttâ m'atthi dhanamm'atthi − iti ba^lo vihaññati,
Attâ hi attano natthi − kuto putto kuto dhanam.
私には子供がいる、私には財産がある、と愚かものは悩み苦しむ。
自分に自分すらないのに、なにが子供か、なにが財産か。
(Dhammapada−62)
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