パティパダー巻頭法話
Sabbe satta bhavantu sukhitatta
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No.213 (2012年11月)
覚ったらどうなるの?

 〜智者の心の中身〜
 How does the stilled mind work?
A・スマナサーラ長老     
◎今月の巻頭偈
Dhammapada Capter XXIIII . TANHÂ VAGGA
ダンマパダ(法句経) 第24章 渇愛の章
351.
   Nitthangato asantâsî
   Vîtatanho anangano
   Acchindi bhavasallâni
   Antimoyam samussayo
351
   境地円成おそれなし
   欲を離れて汚点なし
   生存の箭を断ち切りし
   これこそ彼の最後身
      (和訳 江原通子)
352.
   Vîtatanho anâdâno
   Niruttipadakovido
   Akkharânam sannipâtam
   Jaññâ pubbâparâni ca
   Sa ve antimasârûro
   Mahâpañño mahâpurisoti vuccati
352
   渇愛離れ 無執着
   聖典(パーリ)の語義に通曉し 
   文字結合を熟知すは
   最後身をば具する人
   大智者、大丈夫と稱せらる
      (和訳 江原通子)

※参考:
  渇愛を離れ、執着がなく 言葉と語法に精通し
  もろもろの文字の集合と 前と後をよく知るならば
  かれこそ最後の身体を持つ者 大慧者、偉大な人と言われる
     (片山一良『ダンマパダ全詩解説 仏祖に学ぶひとすじの道』大蔵出版425p)

 涅槃とはどんな境地?

 仏道を完了した人はどのような人間になるのかと知りたい、という気持ちは皆にあります。五根から入る情報によってつくりあげた知識を駆使して物事を考える一般の方々には、理解できない境地なのです。しかし、覚りに達した人しか覚者の心を理解できないと言い張ることは、あまり知識的な答えにはなりません。説明するのが面倒くさいので、お釈迦さまは時々、「涅槃とは究極の安楽である(nibbânam paramam sukham)」と説かれるのです。何となく分かったような気がします。しかし、「安楽」という言葉は各個人が自分の主観で理解するので、涅槃の境地が分かったことになりません。お釈迦さまのこの言葉は、「試してみるのも悪くない」という気持ちにはさせます。

 虚無だと勘違いする

 神様が作ってくれる楽園で永遠に生きることが、人間の目指すべき目的であると説く西洋の神学者たちのなかで、ブッダの教えも学んでみた人々がいたのです。彼らは、生きることは苦である、執着を捨てるべきである、天界にさえも執着を持つべきではない、無常ならざるものは何も存在しない、などの言葉に足を引っ張られて、「ブッダは虚無を推奨しているのだ」と批判したのです。このように誤解するのも、無理のない話です。涅槃という境地は、存在も非存在も、有も無も、苦も楽も、乗り越えているのです。生命が使用する如何なる概念を使っても、語り得ない状況なのです。

 試してみる気が起こる

 このように言われると、一般知識人には不安が生じるのです。それで「涅槃とは究極の安楽である」という言葉が必要になります。涅槃という境地を説明するために、お釈迦さまはできるだけポジティブ単語を使おうとしたのです。しかし断言的にポジティブ単語を使うと、一神教が語る常住論に陥ってしまうのです。涅槃こそは究極のポジティブ境地であると表現するために、一切の存在は無常で苦で無我である、と説かれるのです。このような間接的な表現にも、人は飽きてしまう可能性があります。

 解脱者の心を知りたい

 今月は、解脱に達した聖者の心はどのようなものかと理解してみましょう。解脱に達しても、聖者は一般の方々と同じく、日常を過ごしているのです。我々と同じ環境のなかで生きているのです。ですから、「一般人の心と、解脱に達した人の心はどこが違うのか?」と知ることは可能です。しかしそれも、解脱に達した人が語ってくれないと分からないのです。お釈迦さまが、「解脱に達した人の心の中身は如何なものか?」と説かれたところはたびたび出てきます。今回の二つの偈は、解脱に達した人の心の中身を表現しています。

 心は微動だにしない

 それでも内容が難しくなるので、できるだけ単語一つ一つ取り上げて解説したいと思います。
Nitthangato asantâsî 目的に達した人は怯えない。目的に達した人とは、解脱に達した聖者のことです。その方の心に、怯えが生じないのです。怯えが生じない心は、一般の人々の心とは極端に違います。これがどれほど違うのかと理解していただきたくて、注釈書は一つのエピソードを語ります。これはつくり話ではないかという気もしますが、注釈書を批判して反感を買う必要もないので、エピソードを紹介します。

 お釈迦さまの実子であったラーフラ尊者の話です。祇園精舎にたくさんの長老たちが入って、夜を過ごすための部屋が足らなくなりました。長老たちは歳の若いラーフラ尊者の部屋も取ったので、居場所がなくなったラーフラ尊者は、お釈迦さまが住む庫裏の前に座って夜を過ごすことにしました。この出来事を知ったマーラが、このように考えました。
「恐らく釈尊は、たとえ我が子が指を刺す程度でも虐められたら、自分がいじめられたように感じるだろう。ラーフラ尊者を虐めましょう」。
 それで彼は巨体の象に化けると、巨大な鼻を尊者の頭の上に載せ、雄叫びをあげたのです。
いったん、マーラの介入を忘れましょう。暗闇のなかで坐っている人の頭上に、象が鼻をつけたことをイメージしてみましょう。夜ではなく昼であっても、怖いものです。たとえ人間に飼われて調教されているおとなしい象であっても、象が鼻を出すと必ずびびるのです。象に叩かれたら、人間の一欠片も残りません。ラーフラ尊者の場合は、夜、暗闇で起きた出来事です。飼っている象か、野生の象かも分からない。それでもラーフラ尊者は、怯えて叫んで逃げるどころか、微動だにしなかったのです。

 このエピソードで言いたがっているポイントは、「凶暴で巨大な象が雄叫びをあげて攻撃をかけてきても、解脱に達した人の心には怯えが生じない」ということでしょう。つくり話かも知れませんが、いい喩えだと思います。人間が攻撃しようとしても、最低、「やめなさい!」ぐらいは言えます。相手が野生の象なら、また、頭に鼻をつけているならば、命が助かる見込みはゼロです。それでも心が怯えを感じないのは、普通ではありませんね。解脱に達すると、心はこれぐらい安定するのです。不安・怯え・悩みなどは、一切無くなるのです。

 満たせない欲

 次にお釈迦さまは、聖者の心から怯えが無くなって、絶対的な安心状態になる理由を語ります。
Vîtatanho anangano 渇愛を離れ、汚れがない。自分の命に渇愛があると、死を恐れるのです。怯えとは、死を恐れることです。地震が怖い、津波が怖い、収入が無くなるのが怖い、病気になるのが怖い、などなど我々には無数の「怖い」があるのです。これらすべての「怖い」は、死ぬのが怖いから発生するのです。心が渇愛から解放されたら、「怖い」は根こそぎ無くなるのです。命に対して渇愛があると、欲・怒り・嫉妬・憎しみ・落ち込み・傲慢・後悔・物惜しみ、などの様々な汚れが起こるのです。解脱に達した人の心には、これらの汚れは一切無いのです。それでまたイメージをしてみましょう。欲・怒り・嫉妬・不安などの汚れによって、我々はどれほど苦しんでいるのでしょうか。これらの汚れが一切落ちてしまったら、どれほどの安らぎ・安定感を感じられることでしょうか。これこそ幸福ではないでしょうか。

 怯えることが生きること

 次の言葉は、Acchindi bhavasallâni 彼は生存の矢(束縛)を断った。金はいくらあっても足りません、という言葉は知ってますね。それは、欲を満たせない、という意味です。欲しいものは手に入れても、欲しいという「欲」は消えません。人間はどのように贅沢をして生きていても、「もう充分だ、結構だ」という気持ちにはなりません。長生きしたいのです。死にたくはないのです。いくら生きていても、もっと生きていきたいのです。生きている場合は、あらゆる苦しみに遭わなくてはいけないのです。なのに、「生きていきたい」という気持ちがある限り、苦しみからは抜けられないのです。生きていきたい人が、死を怖がるのです。人のこの気持ちが、束縛なのです。束縛とは、煩悩のことです。この場合は、矢に喩えられています。

 イメージしてみましょう。とても深い谷底があります。そこを溶岩が流れています。崖の上にいる人が足を滑らします。谷底に落ちないように、その人の身体に槍を刺して崖の壁にとめておくのです。生きていきたいと思う限りは、彼はこの槍の苦しみを味わわなくてはいけないのです。谷底の溶岩が目に入ると、槍がありがたく感じられます。我々がありがたいと思っている煩悩は、この槍のようなものです。生命を輪廻に刺しつけておく、煩悩という矢・槍が、覚者には無いのです。

 輪廻は本気で怖い

 Antimoyam samussayo これは最後の身体である。生きていきたい、死にたくはない、という槍が無くなったのです。生きていきたいという衝動が無ければ、輪廻転生は無いのです。新しい肉体は現れないのです。崖に槍で刺しつけられた人は、槍が壊れて落ちることに怯えるのです。刺された槍がひどい苦しみを与えているのに、落ちたくもないのです。槍に刺されて苦しくなる理由は、身体です。溶岩に落ちるのが怖いのも、身体があるからです。生きていきたいという衝動が無くなった覚者が死を迎えたら、ふたたび身体を作らないのです。この偈でお釈迦さまは、解脱者の心がどれほどの安穏に達したものかと教えてくれるのです。決して普通の人には、理解できる境地ではないのです。喩え話を通して、推測するしかないのです。

 解脱者の智慧

 次にお釈迦さまは、解脱に達した聖者の智慧について教えてくれます。
聖者は当然、無意味な妄想はしません。思考は貪瞋痴で汚れてないのです。はっきり言えば、何も考える必要さえもないのです。考えるためには、何かの問題、何か分からないこと、何か解決しなくてはいけないことが必要です。とりとめのない妄想をするためには、煩悩の衝動が必要です。一切の疑問が心から無くなったら、何を考えるのでしょうか。正直なところ、何も思考しない心とは、一般的にはさっぱり理解できないはずです。妄想も思考もないというならば、脳には仕事がないことになります。それは脳が壊れていることなのでしょうか。壊れているどころか、一般の人々の脳よりは完全に健康的でしっかり働いているのです。だからこそ、常識では理解できなくなっているのです。智慧が現れたと言えば、言葉で誤魔化して終わったことにもなります。

 解脱に達した人に、四つの能力が備わるのです。

  1. attha 意義。すべての現象はなんでそのようにあるのか、ということが分かっているのです。分かりやすく言い換えると、目はなんであるのか、耳があるのはなんのためでしょうか、なぜご飯が食べられるのに草は食べられないのでしょうか、のようなことだと理解しましょう。しかし、そんな冗談ではありません。なぜ存在が成り立っているのかと、よく理解しているのです。
  2. dhamma 法・真理。一つの現象が壊れて、別な現象が成り立つ。その関係を知っているのです。如何なる現象であっても、「これがあるから、これがある。これが無いとき、これも無い。これが生じると、これが生じる。これが滅すると、これも滅する」ということを知っているのです。因縁法則のことです。一切の現象のありさまを知っているのです。
  3. nirutti 言語。言語と語法に精通しているのです。
  4. patibhâna 閃き・インスピレーション。

三番目のnirutti の能力があると、人が何を喋っているのか、何を言いたがっているのかと瞬時に理解できる。自分がどのように語れば相手が正しく理解するのかも分かるのです。
四番目のpatibhâna の能力があると、何か問題が起きたら、誰かにいままで考えたこともないものについて質問されたら、瞬時に正解が閃くのです。前代未聞のことが起きたので戸惑っているという状態は、聖者にはないのです。このように四種類の能力が付いているので、別に考えたり、プランを立てたりする必要はないのです。心が清らかだからこそ、煩悩が無いからこそ、備わる能力です。一般の人々のように、妄想したり思考したり悩んだり、答えが分からなくて壁にぶつかったりすることはありません。しかし脳はフルに活動しているのです。それが智慧の中身です。

 言語能力の達人

 智慧の中身を説明するお釈迦さまは、次の偈で言語能力についてのみ語っているのです。ですからそれについて、少々解説する必要があります。言語能力が備わっているとは、どんな言語も語れる、ということではありません。現代風に言えば、言語学能力なのです。英語を話せる日本人は、自分のことをバイリンガルと言うでしょう。日本語しか分からない人は、モノリンガルになるでしょう。日本語しか話せない人であっても、本当に日本語を分かっているのでしょうか。
相手に誤解が生じないように語れるのでしょうか。自分の気持ちを正しく納得いけるように表現できるのでしょうか。このように訊かれると、頭の中にはてなマークが浮かぶでしょう。自信がないでしょう。

 言葉とは、人間が表現したいと思う気持ちに対して付けるラベルに過ぎません。頭の中で概念が回転しているのです。外から情報が入るたびに、概念が回転するのです。それで新たな概念も生まれるのです。概念に人の気持ち・感情がべったり入っているのです。例として、「好き」という言葉を考えてみましょう。好きという単語を使うたびに、同じ気持ちではないのです。「夏よりは秋のほうが好き。魚よりは肉が好き。我が子が好き。それで子供はお父さんのことが好きと言う」。それらの「好き」という単語の意味は、まったく同じでしょうか。外国人は辞書を引いて、好きイコールlike と理解する。ほんとに理解したのでしょうか。好きと大好きという言葉はよく使われます。どのような基準で好きの大きさを測っているのでしょうか。この例で、言葉というラベルの裏にある人の概念と感情が発見できるだろうと思います。一つの言語しか喋れない人であっても、言葉というラベル・音の裏に流れている概念と気持ちをよく理解しているならば、その人は言語に精通しているのです。そうなると当然、語法も知っているのです。「食べる」「食べます」は同じ意味ではありません。言葉をつかさどる心の裏の流れを知る人は、相手が何を話したか、何を意味したのか、自分の言いたいことが正しく喋れたのか、などなどを瞬時に知るのです。解脱に達した人に、普通の人間には稀にしか備わらない言語能力が備わっているのです。
最後の身体を持っている覚者は、大智者とも偉大なる人とも言える存在です。

 釈尊の説かれたこの二偈を聴いたマーラは、ラーフラ尊者を脅そうとした自分のたくらみが、水泡に帰したとさとったのです。

今回のポイント

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