パティパダー巻頭法話
Sabbe satta bhavantu sukhitatta
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No.215 (2013年01月)
優勝を決める方法

 〜世論と仏教の対立〜
 What is best?
A・スマナサーラ長老     
◎今月の巻頭偈
Dhammapada Capter XXIIII . TANHÂ VAGGA
ダンマパダ(法句経) 第24章 渇愛の章

354.
   Sabbadânam dhammadânam jinâti
   Sabbarasam dhammaraso jinâti
   Sabbaratim dhammarati jinâti
   Tanhakkhayo sabbadukkham jinâti
354
   法施(ほっせ)はすべての施にまさり
   法味はすべての滋味に勝ち
   法悦すべての喜(き)にまさる
   渇愛の尽(じん)ありとある
   すべての苦惱に勝利する

        ( 和訳 江原通子)

神々の議論

 まず神話的物語から今月の話を始めます。三十三天の神々が、ある話題を作ったのです。与えるという行為の中で、何を与えることがすべての与えることに勝ちますか? どんな味が、すべての味に勝ちますか? どんな喜びが、すべての喜びに勝ちますか? 渇愛を無くすことが優れているというのは、どんな意味なのでしょうか? それぞれの神々が自分の意見を述べたのです。しかし議論は増すばかりで、最終的な決着はつかなかったのです。その話題が、四天王にも持ちかけられました。でも四天王も、答えは知らなかったのです。帝釈天は神々の王だと言われています。その問いが帝釈天に出されたのです。ここまで十二年間かかったそうです。帝釈天は正直者です。「私は答えを知りません」と明言したのです。「このような問題は、正覚者の管轄です。ですから私は、お釈迦さまに訊いてみます」と言って、帝釈天はお釈迦さまを尋ねるのです。物語はここまでです。オチは無いのです。おそらく註釈書の編集者たちは、これから解読してゆくダンマパダの三五四偈を軽んじてほしくなかったのでしょう。表面的にはつまらない問題として見えても、まじめに取り掛かってみると、答えを見出せないということを言いたかったと思います。

与える

 すべての与える行為に勝つ、「与え」は何なのか? 答える前に、与えるとはどういうことかと理解しなくてはいけないのです。二種類あります。@何かの見返りを期待して与えること、A見返りを期待しないで与えること、です。見返りを期待する場合は、互いに得するのです。与えるものより、よりたくさんのものを見返りとして頂いた場合は、「勝ち」だと見えることでしょう。見返りが少ない場合は、損したことに、負けたことになったように感じるでしょう。僅かなものを与えて無数のものを見返りとして頂けるならば、「与えて勝った」と言えるかもしれませんが、このような行為は、与える行為だと言えないのです。悪徳商法に似ているのです。

 問題になるのは、見返りを期待せず与える二番目の行為です。見返りを期待しないかもしれませんが、結果を期待するのです。学費を払うことができず、教育を受けられない若者に、学費を援助したとしましょう。その若者は与える側に何もあげなくても結構です。しかし与える側が「よく勉強してほしい」という結果を期待しているのです。貧困に陥っている国々の子供たちが、飢えや伝染病などで死んでゆくのです。さまざまな組織が援助活動をしているのです。その子供たちから何の見返りも期待していないのです。しかし、健康でふつうの子供たちと同じく成長して生きてほしい、という結果を期待するのです。ですから、見返りと結果は、同じものではありません。

 見返りだけではなく、結果も期待しないで与えたほうが優れているのではないかと思ってしまう可能性もあります。しかしこれは成り立ちません。臨死状態にいる人に高価なスケート靴をあげても、結果が無いのは当然でしょう。しかしそれは、何か与えたことになるのでしょうか。 目が見えない人には、美しい絵をプレゼントするより、音楽のCDアルバムをプレゼントしたほうがよいのです。ですから与える時は、結果を期待して与えるべきなのです。それこそが与える行為になるのです。期待する結果から考えると、どんな「与え」が優れているのかと分からなくなります。脱水状態で命も危険に晒されている人には、水分を与えるべきです。その人の命は助かります。しかしそれで、最高の「与え」をしたのだ、ということはできないのです。それからもその人に、さまざまなものが必要になっていくのです。「すべての与えに勝つ与え」とは何かと、ほんとうに分かりにくいのです。

 貧困の人々に金・衣服・食料・薬などを与えるのは、よいことです。その中でも、死にかけている人を助けることには、より価値があると思えます。その場合も、死にかかっている原因によって、与えることの内容が変わります。病気で死にかかっている場合は、治療を施さなくてはいけないのです。その施しは、専門家にしかできないのです。命を与えることは、他の与えることに勝ちますと、仮に設定しても、疑問が生じます。それは皆にいつでもできる行為ではないのです。偶然、そのチャンスに遭遇するだけです。それから、「命を与える」ということは、成り立たないのです。いくら命を助けてあげても、生命は必ず死ぬのです。人にできることは、命を与えることではなく、命を支えてあげることなのです。命を与えることは、母にさえできません。母という存在は、子供を産んで、必死で命がけで育てるのです。母が子に与えるものは、数えられないほどなのです。母も見返りを期待してないのですが、結果を期待しているのです。人が世の中から多大な恵みを頂いて、幸福に生きていられると言ったとしましょう。しかしその人が母から頂いたものは、何よりも最大なのです。さまざまな与えのなかで、母が子に与えるものは最大になりますが、それがすべての与えに勝つ与えだとは言えないのです。それは母と子の関係だけに限られます。母にならない人々に、その与えは不可能です。母と子の関係は、一般的に「いのちを与える」という言葉で表現します。しかし、母に命を与えることはできません。母は子の命を支えるだけです。

 生命のいのちは脆いものです。少々の失敗で死んでしまうのです。頑丈ないのちは誰にもありません。どんな生命も、支えられて生きているのです。生命はまわりからいのちを支えて頂いているので、「施し」を頂いていない生命は存在しないのです。「与える・いただく」という関係は、いのちをつなぐために欠かせないものです。いのちを支えてもらうために、無数の「与え」を頂いているのです。しかしその中で、どんな与えが他の与えに勝ちますかと問うてみると、答えが成り立たないことは明確です。

 この問いは、正覚者の管轄なのです。お釈迦さまはいたって簡単に答えるのです。Sabbadânam dhammadânam jinâti 法を与えること(法施)はすべての施しに勝ちます。このフレーズだけでは、深い意味は分からないと思います。法とは真理のことです。真理とは「生きるとは何か」と理解することです。生きることを精密に分析してみると、苦であると分かります。いのちを支えること自体が、苦を支えることになります。いのちをあげる、ということは成り立ちません。生命は無明と渇愛という原因で、輪廻転生するのです。輪廻転生させるエネルギーは、業というのです。業とは、行為とその行為によって現れる結果なのです。ですから生命は、「自分は生きているのであって、生かされているのではない」というべきなのです。自分は生きているのですが、支えがないと生きていられないのです。生きることを支えるのは、結局は苦を支えることです。ひとのことを心配するものなら、最大の価値あるものを与えたいと思うならば、輪廻を脱出する方法・苦を乗り越える方法を教えてあげるべきです。したがって、法施より優れた「与え」は無いのです。この答えは、真理を知り尽くした、苦しみを脱出した正覚者にしか分からないのです。仏教の世界では、法施はもっとも優れた施しだとよく言われてますが、それは自分たちで発見して言うのではなく、お釈迦さまが説かれた真理を受け売りしているだけのことです。

 説法する人々がたくさんいます。誰の説法でも、法施になるのでしょうか? それにもお釈迦さまが答えているのです。たとえブッダの教えを他人に教えても、その人が何かを見返りとして期待しているならば、説法師ではないのです。法を聴く人々が、煩悩を無くしたい、心を清らかにしたい、解脱を目指したい、という気持ちにならなくてはいけないのです。修行する意欲を説法によって引き出さなくてはいけないのです。誰かの説法を聴いて、誰かが解脱を目指して修行することに決めたならば、その説法が法施なのです。

 私たち人間にとって、味は「食べるもの」なのです。人間は食べるものを中心にして生活しているのです。誕生日、結婚式、お祭り、など食べもの中心です。シンポジウム、さまざまな会議などのフィナーレも晩餐会です。旅行計画を立てる時も、決まり手は食べものです。動物を調教する時も、食べもので誘惑しなくてはいけないのです。かわいそうな魚を殺したいと思う場合は、釣り針に餌をつけなくてはいけないのです。ひとは食べる時、栄養や身体を支えることなどはそれほど気にしないのです。美味しいものを食べたいのです。たとえ身体に悪くても、美味しいものなら手が出てしまうのです。人間の社会ででも、数えきれないほど美味しい食べものがあります。しかし、これが世界一美味しい食べものだと言えるものはありません。慣れた食べものが美味しいと思うのは普通です。体質によっても、美味しさが変わります。山羊は雑草を美味しそうに食べるのです。しかし人間には、雑草は不味いのです。さらに、どこまでお腹が空いているのか、ということによっても、美味しさが変わります。お腹が空いたほうが、食べものは一層美味しいのです。ですから、「無数の味の中で、どんな味がすべての味に勝ちますか?」という問いには、答えは存在しないのです。

 その問いに、お釈迦さまが答えます。Sabbarasam dhammaraso jinâti 真理の味はすべての味に勝ちます。何のために食べるのか? 生きるためです。もし食べなかったら、生命は死ぬのです。ですから、食べずにいられない状況を作らなくてはいけないのです。食べものに味があります。この味によって、誘惑されるのです。食べなくてもいいのに、食べてしまうのです。味につられて、節度も忘れて、食べているのです。それでいのちを支えているのです。いのちを支えるために食べているのだ、という現実さえ忘れているのです。味につられるとは、いのちをつなげる、ということになります。さらに生き続けたいという渇愛も、味によって生じます。いのちを支えるとは、苦を支えることです。ですから生命の食べものは、決して優れた味だと言えないのです。もし真理を理解することで、実践して心清らかになることを経験すると、離欲の味をあじわえます。これは普通の人間に味わえないほど優れている、超越した味なのです。その味につられると、解脱に達して一切の苦を乗り越えるのです。ですから、真理(法)に勝る味はないのです。

喜び

 生きるためには喜びも必要です。喜びがあれば、生きることに頑張れます。可愛い子供が居れば、「子供の顔を見ると喜びが湧いてくる」と、お母さんもお父さんも必死で頑張るのです。音楽を聴いたり、映画を観たり、旅行したり、遊んだり、友達とつるんだりして、人は喜びを感じるのです。財産や権力、人気などにも喜びを感じる人々がいます。その喜びにつられて、皆、生きているのです。無数の喜びの中で、これが勝ち、というものはありません。ひとそれぞれ喜びが違います。

 この問いにお釈迦さまが答えます。Sabbaratim dhammarati jinâti 法の喜びはすべての喜びに勝ちます。法とは、難しい理論ばかりではありません。実践もあります。すべての生命は無明です。思考はあべこべです。悪いものに善いと思ったり、善いものに悪いと思ったりするのです。悪行為に道徳だと言い張ったりもするのです。しかし仏法を学んで、生きるとは何かと発見していくことに喜びを感じるのです。キリスト教の表現ですが、目から鱗が落ちるのです。これが素晴らしい楽しみです。智慧が現れます。実践もうまく進むと、日常の生きる苦しみが減って、清らかな喜びを感じるのです。この清らかな喜びがあるからこそ、人は解脱を目指すのです。俗世間の喜びは、苦を支えます。法から現れる喜びによって、苦から脱出することができます。それに勝る喜びはありません。

渇愛

 お釈迦さまは「渇愛が苦しみの原因である」と説かれてはいるが、私たちには素直に納得することができません。生命は皆、渇愛はよいことだと思っているのです。渇愛とは専門用語なので、一般の言葉に翻訳しましょう。渇愛とは、生きていきたい、という存在欲です。また、死にたくはない、という否定的な渇愛もあります。それが怒りと恐怖感をつくります。生きていきたい、死にたくはない、という衝動で、すべての生命が生き続けているのです。この気持ちは、あまりにも根本的で強烈なので、死後も生き続けてしまうのです。これが輪廻というのです。一般の人々にとって、渇愛は生きることの土台・要です。それを無くしましょうと言われたら、心のなかで「あなたは私に死ねと言っているのかい?」という気分になります。渇愛はそれほど喜びを与えているのに、それを否定するとは何なのかと、嫌悪感をいだきます。

 ですから、「渇愛を無くすことが優れているとはどんな意味なのか?」と神々が疑問をいだいたのです。当然な疑問です。一般常識では、渇愛こそが優れているということになります。渇愛があるからこそ、頑張れるという意味になります。ですから、この問いに対する答えも、正覚者の管轄です。渇愛はいのちを支えます。生きることを支えます。要するに、苦を支えます。渇愛があるから、輪廻転生もします。要するに、限りのない苦しみを与え続けます。Tanhakkhayo sabbadukkham jinâti 渇愛を無くすことですべての苦しみに勝ちます。渇愛を無くしたとは、一切の苦しみを無くしたことです。輪廻転生に対して、勝利を得たことなのです。生きることが苦であるという真理を発見していない人に、理解できない言葉です。

 涅槃は最勝の幸福であると、お釈迦さまが説かれます。それを体験したければ、渇愛を根絶することです。

今回のポイント

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