パティパダー巻頭法話
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No.216 (2013年02月)
財産とは正しく使うもの

 〜世論と仏教の対立〜
 Boon and bane of wealth
A・スマナサーラ長老     
◎今月の巻頭偈
Dhammapada Capter XXIIII . TANHÂ VAGGA
ダンマパダ(法句経) 第24章 渇愛の章

355.
   Hananti bhogâ dummedham
   No ca pâragavesino
   Bhogatanhâya dummedho
   Hanti aññeva attanam.
355
   財物は
   心なき人 損(そこな)えど
   彼岸求む人 損わず
   心なき人 財物に
   渇愛抱き敵(かたき)をば
   損うごとく 我れを損う

        ( 和訳 江原通子)

*財産をどう捉えるか?

 今月は財産について、お釈迦様の教えを紹介したいと思います。
 お釈迦様はこのように説かれます。

「財産は無知な人を破壊する。
解脱を目指す人にとって、財産は問題にならない。
財産欲に絡まっている愚者は、
他者を殺すが如く、自分自身を破滅に陥れるのです。」(ダンマパダ 355)

 財産は一概によいとも悪いとも言えません。問題は、財産の持ち主が愚者であるか智者であるか、です。愚者の財産は不幸を招く。智者は財産を正しく使用して幸福になる。ここでお釈迦様が示されるポイントは、財産自体がよいか悪いかではなく、財産はどのように使用するのか、ということです。

*舎衛城の長者のおはなし

 相応部経典(サンユッタ・ニカーヤ)の中に、財産の使用法について、一つのエピソードを用いて説かれた経典(コーサラ相応第二無子経)があります。その内容を要約しながら紹介します。

ある日の真昼時、コーサラ王が釈尊に面会します。一般的にこの時間には、お釈迦様は人々に会われません。国王は何か用事があって、それを済ましてから、ついでにお釈迦様にも挨拶に伺ったのです。

「真昼時、あなたはどこから来たのか?」と、お釈迦様が尋ねます。
 国王はこのように答えます。
「尊師、舎衛城に住んでいたある長者が亡くなりました。彼には子供がいなかったのです。相続する人がいないその大財産を王宮の蔵に運ばせてから、私はここに伺った次第です。金だけ数えても千万両でした。銀貨の量は言うまでもありません。これほどの金持ちでしたが、彼の生活習慣は面白いのです。食事として酸っぱいものを飲みながら、おかゆを食べていたのです。服は麻布でした。ボロボロになった牛車が彼の乗り物でした。(豊かな人は馬車に乗るのです。牛車は荷車です。)傘の代わりに椰子の葉を使っていました。」

 国王の説明では、長者の生活は貧困のどん底の人々と同じであったことが分かります。問題は、億万長者なのに、なぜ貧困な生活をしてみじめに死んでしまったのか、ということです。それからその理由をお釈迦様が解き明かします。

「国王、それはそのとおりです。かなり昔この長者は、タガラシキーという独覚ブッダに一回お布施したことがあります。お布施した後で、「この食事は私の使用人にあげた方がよかったのだ。使用人たちに美味しいご飯を振舞ったならば、より一層、私の仕事をやってくれるだろうに。」と思って、せっかくの布施行為について、後悔しました。それからこの人は、財産を分割される恐れがあったために、自分の弟の一人息子を殺しました。

 独覚ブッダに一回お布施した功徳によって、彼は七回も天界に生まれ変わりました。またその功徳の残りの果報として、七回もこの舎衛城で長者として生まれ変わりました。
しかし、お布施してからその善行為について後悔したために、高級な食事を楽しむことに気が向かない。高級な服装を身にまとうことに気が向かない。高級な乗り物を使う気にならない。贅沢に五欲を楽しむことに気が向かない、ということになった。

 財産を分割されたくないがため自分の弟の一人息子を殺した報いで、何年も、何百年も、何千年も、何十万年も、地獄に堕ちて苦しみました。(何回も繰り返し地獄で生まれ変わった、という意味です。)
その罪の残りかすの果報として、長者として生まれた七回とも、彼に子供がいなかったのです。彼の死後、七回とも全財産が王の蔵に入ってしまったのです。
国王よ、彼の過去の功徳が尽きました。新たに功徳を積むこともなかったのです。彼は今、大叫喚地獄に堕ちて煮られています。」

 国王は驚いて問い返しました。「長者が、大叫喚地獄に、堕ちたのですか?」
釈尊は答えました。「そのとおりです。長者は、大叫喚地獄に、堕ちたのです」と。

次に、お釈迦様はこのように説法されました。

「穀物も財物も金銀もその他の所有物も、召使も使用人も雇人もその他の扶養人も、何一つあの世に持っていけないのです。
すべてここに置いて逝かなくてはいけないのです。
しかし人が、身体で、言葉で、考えることで、何かの行為をしたならば、その行為の果報は、影が人から離れないように、あの世に付いていくのです。
ですから人は、あの世で幸福をもたらす善行為をしたほうがよいのです。
あの世に逝く人にとっては、功徳だけが頼りになるのです。」

*贅沢は人生の目的にあらず

 経典はここで終わります。その内容を理解してみましょう。我々は家族・財産などにしがみついて生きているが、それら全てを最終的に捨てるはめになるのです。しかし自分の身口意で行なう行為の果報だけは、自分から決して離れない。行為の果報を一人ひとりが必ず相続するので、「ひとは善行為をするべき」とは、当然の結論です。

 ひとが富豪になるのは、過去の善行為の結果です。頑張るならば誰でも富豪になるという保証はありません。富豪の家に生まれても、後に貧困になる人もいます。必死で努力するが、なかなか財産に恵まれない人もいます。自分の商売がヒットして、簡単に億万長者になる人々もいます。このような差は、過去の行為の果報なのです。過去の功徳があって生まれても、この世で怠けると財産が無くなります。過去の功徳があるかないかは誰にも分からないので、この世で生まれた人間は、誰でも怠けず努力したほうが安全です。この世でしっかり頑張って生きることも、善行為です。その分は、幸福になります。ひとは過去の善行為について考えたり悩んだりする必要はありません。

 豊かになった人間は、その富を正しく使用するべきです。財産があれば、贅沢に生きることは決して問題にはなりません。贅沢に生きることを仏教は批判していないのです。ただ、贅沢に生きることこそが人間の目指すべき目的、ということではないのです。仏教は「執着」という心の病を問題にします。自分の肉体に、その他のものに、執着しても何の意味もありません。すべて捨て去らなくてはいけないものなのです。しかし我々はこの事実に気づかないのです。この事実を否定するのです。執着という心の病を喜ぶのです。人間はよく「愛」を謳っているのです。家族を愛する、親しい人々を愛する、国を愛する、敵を愛する、などなどの言葉を、実行もしていない割によく謳うのです。愛を皆に推薦するのです。「神は愛である」とも言うのです。人々は真理を分かっていないのです。皆、愛というラベルを張って、執着を賛嘆しているのです。執着を応援しているのです。執着を目指すのです。執着が善だと、道徳だと、勘違いしているのです。
 執着は成り立ちません。一切は捨て去らなくてはいけません。行為の果報のみが自分に付いてくるのです。ひとが善行為をして生きているならば、財産のことで悩む必要はありません。幸福のことで悩む必要はありません。善行為をする人が常に恵まれているのです。

*財産をどのように使うべきか

 ひとは生まれてから、儲けることを目指した教育を受けます。世の中で儲け話はいくらでもあります。各個人が、どのようにすれば儲かりますか、ということしか考えていないのです。世界の知識はすべて儲けることを目指しているので、人類は皆、儲けのプロになるはずです。しかし現実は逆です。儲ける人々はわずかです。大衆は儲からない損組です。

 世界は決して、執着を問題にしないのです。執着があったほうが儲けやすいと思っているのです。欲のない人は商売に失敗すると思っているのです。しかし執着は危険なのです。財産欲の衝動に駆られて、あらゆる悪行為をするのです。愛欲のせいで、人を殺すのです。戦争までするのです。人類の財産の大半は、軍事目的に使われるのです。執着という精神の病に罹っているので、人類は幸福になることを目指して、限りのない苦難に陥る道を歩んでいるのです。

 世間は儲ける方法を教えてくれます。しかしそれも当てにならない話です。世間は、財産をどのように使うべきか、ということを決して教えてくれないのです。見栄を張って、他人と差をつける目的で、コマーシャルに洗脳されて、贅沢に陥る人々はいます。しかしその人々は、財産の正しい使い方を知っているわけではないのです。高級品に囲まれて生活する人々もいます。見栄のために、自己満足のために、やっている可能性は大いにあります。財産の使い方を学ばないと、財産を築くことに成功しても、何の意味もありません。

 仏教は財産の使い方を気にします。財産に恵まれたら、理性を駆使してそれを使わなくてはいけないのです。節度を知って、自分が楽しく生きる。家族に楽をさせる。親や他の年上の親戚たちの面倒を見る。恵まれない人々を助けてあげる。財産を用いて善行為をする。財産とは捨て去るものであると理解して、財産に対する執着を捨てる。贅沢三昧に陥ることなく、楽に生きるためには、それほど財産はいりません。残りの財産は、善行為をするために使用するのです。財産を正しく使う道は、この世でいくらでもあります。

*善行為を命ずる辞令

 菩薩が全財産を寄付して、森に入って修行したというジャータカ物語がいくつかあります。
ある物語に、このようにあります。長者の家に生まれた菩薩の、両親が亡くなります。
財産が自分のものになります。財産管理者たちが菩薩に、億単位で数えるべき財産を案内します。財産管理者が「これは父親の財産です。これは母親の財産です。これはお祖父様が築いた財産です。これはひいお祖父様が築いた財産です」云々と説明していきます。七代目までの財産について案内するのです。
菩薩ははっと気づきました。「みな必死で頑張って、財産を築いたようです。しかし誰一人として、一文もあの世に持って行っていないのです。すべてを置いて去ったのです。私もこれから、同じく無知なことをやって、生活するはめになります。私もさらに財産を築いて、すべて置いて逝かなくてはいけなくなります。
いいえ、私はすべての財産を持って、あの世に逝くことにします。」このように考えた菩薩は、全財産をすべての人々に寄付することにしたのです。
広告を出して、好きな人が好きなだけの財産を持って帰りなさいと、屋敷を開放したのです。人々が来て、すべての財産を持っていったのです。広大な土地も、土地のない人々が勝手にもらったのです。菩薩は一文無しになりました。
森に入って出家して、修行したのです。
全財産を寄付して、一文無しになることこそが、菩薩にとって先祖代々の全財産を持ってあの世に逝くことだったのです。
このエピソードを前のエピソードと比較してみてください。前のエピソードでは、持ち主が死んだので王が全財産を王宮の蔵に没収したのです。死んだ人には何の功徳も無いのです。死んだ瞬間で、財産の持ち主ではないのです。
菩薩は自分が財産の持ち主である間に、すべてを寄付したのです。王に没収することはできないのです。財産に対する執着を捨てて、必要な人々のために財産を使うことで、具体的に自分自身がその財産の恩恵を思う存分受けることになるのです。善行為の結果は、決して自分から離れるものではないのです。

ひとはこのように考えるべきです。

「私は財産に恵まれました。
ですから私に、善行為をする義務があります。
恵まれていない人々を、見返りを期待しないで助ける義務があります。
私にとって財産とは、善行為をしなさいという辞令です。」

今回のポイント

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