パティパダー巻頭法話
Sabbe satta bhavantu sukhitatta
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No.219 (2013年05月)
ブッダに帰依する

 〜信仰と帰依の違い〜
 The Buddha, the greatest refuge
A・スマナサーラ長老     
 Ye keci buddham saranam gatâse
 Na te gamissanti apâyabhûmim
 Pahâya mânusam deham
 Devakâyam paripûressanti
      (S1-37 Samayasuttam)

 帰依佛するは誰にても
 悪趣に赴くことあらじ
 人身捨てしその後は
 [彼ら]天界を満たすべし
    (相応部1-37 集会経)

 お釈迦さまの降誕・成道・般涅槃を祝うウェーサーカ祭がやってまいりました。今年は仏紀二五五七年になります。年号の数え方は般涅槃を元年にしているので、お釈迦さまが涅槃に入られて二五五七年経ったことになります。最近、世の変わり方は追いつけないほど激しいのです。いまから十五年ほど前の日本と、いまの日本を比較してみても、驚くほど世界は変わっています。IT技術だけではなく、人間の生き方、考え方なども変わっているのです。世界がすごい勢いで変わっても、二五五七年前に説かれたお釈迦さまの教えは、古くならないのです。現代人が興味を持たないからといって、役に立たない教えだと決めることはできません。現代人の精神的な悩みやストレスは、昔の人と比べると比較にならないほど大きいのです。悩みに耐えきれなくて自殺する人々もいます。就活自殺という言葉も、最近流行っているようです。内定が貰えないことに悩んで、若者が大事な人生に終止符を打ってしまう。それはとても悲しいことです。現代の若者たちは気が弱すぎです。極端にストレスが蔓延する社会で生まれたのに、それに耐える能力が無いのです。

 人々にはストレスに耐える精神力が必要です。競争にくじけない精神力が、いじめに耐える精神力が必要です。複雑なこの社会で、自分の存在価値をアピールできる勇気、正しく物事を判断できる能力が必要です。混乱・混沌に陥っている現代社会にあっても、落ちついていられる力が必要です。どうでもよいくだらないことに誘惑されず、自分の生きる道を貫ける力が必要です。毎日明るく過ごせる生き方が必要です。自分のことばかり気にして、自分という殻に閉じこめられて過ごしている生き方を砕く、智慧が必要です。思いやりのある人間になる道、互いに助けあって生きる道、共存の道が必要です。

 お釈迦さまが教えたのは、これらの必要を満たす道です。ブッダの教えは、今の社会に必要なのです。流行りに乗ることだけを目的にした現代人の生き方は、虚しすぎます。苦労をものともせず、勇気を出して挑む目的などは無くなっているのです。「何のために生きるのか?」と分からなくなったら、社会の発展は終わります。人類に未来が無くなります。もし人々がお釈迦さまの教えを少々でも学んでみたならば、これらの問題は完全に解決することができます。仏教も「生きることに目的は無い」という立場です。しかし、有意義な目的を示してくれるのです。その目的は、現代的な言葉に言い換えると、「精神的に成長しなさい、人格向上しなさい」ということになります。人間は不完全です。せっかく人間として生まれたからには、不完全なまま人生を終えるのではなく、人格完成をめざして生きてみるのです。「ひとは何かのために生まれたわけではないが、生まれたからには人格完成を目指します」と決めれば、勇気を出して生きることができます。詰まらないことでくじけて、人生を終わらせようとはしないのです。

 ある神がお釈迦さまの前でこのように詠いました。

   もし人がブッダに帰依したならば
   悪趣には赴かない
   人間の身体を捨てて
   天界に集まる

意味を簡単にいえば、「ブッダに帰依する人々はみな死後、天国に生まれ変わるのだ」ということです。この詩を詠った神は、自分が経験した現実をそのまま語ったのです。ひとは亡くなっても、なかなか天界には生まれないものです。しかしブッダに帰依した人々は、次から次へとみな天界に現れたのです。仏教徒でなくても、罪を犯さず生きてみれば、死後、天界に生まれます。天界の人口が勢いよく増え始めたことでしょう。その状況を調べたら、みなブッダに帰依した人々だったのです。

そういうわけで、「帰依」とは何かと理解しておきましょう。世界では、お釈迦さまのことを「仏教という宗教の開祖さま」と思っているのです。「仏教は宗教ではない!」と我々がいくら言っても、社会常識では宗教なのです。宗教は「信仰」で成り立つものです。どんな宗教にも、人々の役に立つ教えはあるのです。よい生き方を教えているのです。しかし、信仰が必要です。神を信じることが欠かせないのです。「神を信じない」と言っただけで、正しい道から外れた者とされるのです。神を信じなくても、神を否定しても、天国に行けるのだとは決して言わないのです。道徳的な教えと、神という概念を切り離すことができないのです。

仏教も宗教であるならば、仏教の「帰依」という言葉も他宗教の信仰と同じではないかと思ってしまうのは無理ない話です。しかし微妙なところで、信仰と帰依は違ってしまうのです。信仰の場合は、神のことや聖書類にある教えを信じなくてはいけない。正しいか否かを試すことは、それほど好まないのです。神の存在を試してみようかなと思っても、それは無理な話です。ですから奇蹟などの現象を証拠として使うのです。奇跡的な出来事がしょっちゅう起こるならば、もしかすると神の仕業ではないかと推測することができます。しかしその奇蹟も、滅多に起こるものではないのです。それから、信仰する人を神が守ってくれる、必要なものを与えてくれる、という話もあります。聖書に「叩けば開く」という言葉があります。祈れば希望が叶う、という意味です。

ブッダに対する帰依の場合、お釈迦さまは明確に条件を説明します。
ブッダは救済者ではありません。解脱に達する方法を正しく教えられる、偉大なる師匠なのです。
その方法を実行してみれば、解脱に達することは100%確かです。 曖昧さは無いのです。
神を信じることで永遠の天国に行けるか否かは、死んでみなけりゃ分からない。
解脱は、いま生きている間で達するものです。死後、解脱になるという話ではないのです。
解脱=救済として考えれば、信仰と帰依の差が分かります。要するに、いま・ここで救済されたことを確実に経験できるのです。

人間はいい加減なものなので、ブッダの道を歩む人々が皆、解脱に達するということはあり得ないのです。
大勢の人々は、生ぬるい気持ちで実践するか、「ブッダの説かれた道は正しいと分かっていますけど、そのうちやってみます」という気持ちで後回しにするか、です。ではそのような人々は不幸になりますか? 決してなりません。

ブッダに帰依するためには、「ブッダとは誰か、その教えは何なのか」と、ある程度で知らないと話が成り立ちません。ブッダの教えを知っただけでも、罪に染まる生き方が嫌になるのです。ある程度は理性的な人間になります。善悪を自分で判断して生きる人間になります。この変化は奇蹟ではないのです。ブッダはこの上のない優れた師匠なので、生徒たちはしっかり学んでしまうのです。師匠の腕がよければ、出来の悪い生徒の頭もよくなります。ブッダを師匠として認めることが、帰依なのです。帰依したならば、師匠の話に耳を傾ける義務が生じているのです。師匠の教えを曲りなりにでも実践してみるべき、という義務が生じるのです。それで、ブッダに帰依する人々は皆、死後、天界に生まれ変わるのです。真面目な生徒たちは、解脱に達するのです。

降誕・成道・般涅槃を祝う今月、気持ちを新たにして、「ブッダとはどのような方だったのか」と学んでみましょう。
これは誰にとっても、何よりも幸福な結果をもたらしてくれます。
ブッダに対して、その教えに対して、興味を抱く人々は、寝ていた人が目を覚ますような感じで、この世でこの肉体を捨てると、そのまま天界に生まれ変わるのです。
これは仏教が語る最高の結果ではありません。最低限の結果なのです。ブッダに対して、敬意を抱きましょう。

今回のポイント

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