パティパダー巻頭法話
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No.220 (2013年06月)
操縦不可能な命

 〜智者は自己制御をする〜
 Life is out of control
A・スマナサーラ長老     
◎今月の巻頭偈
Dhammapada Capter XXV. Bhikkhuvagga
ダンマパダ(法句経) 第25章 比丘の章

362.
   Hatthasamyato pâdasamyato Vâcâsamyato samyatuttamo
   Ajjhattarato samâhito Eko santusito tamâhu bhikkhum.
362
   手をも足をも慎しみて  言葉も慎しむ 最高者
   内に心の悦びて  安定統一独り居て
   足りたる人を「比丘」と言う
                    (和訳 江原通子)

*制御不可能

 私たちは自分の人生をしっかりと管理しているつもりです。しかし本当に管理できているのでしょうか。人間の管理能力は人生を管理するところには及ばないのです。我々は身の回りのことを管理しているだけです。政治・経済の世界はしっかり管理された組織で成り立っています。教育の世界も同じです。人間の長い間の経験の積み重ねで、見事な管理組織が出来上がっているようです。この世に生まれた個人が各、組織の管理に従って生活するならば、まともな成人になれるし、問題なく生きていられることでしょう。

 しかしこの様々な管理組織は本当にうまくいっているのでしょうか。否、いろいろ問題があるのです。政治世界、経済世界には問題があふれています。スムーズに進んでいるとは決して言えません。教育世界の組織も同じで、知識を育てる世界なのにたくさん問題を抱えています。身の回りのことを管理しようとする社会的な努力は、どうもうまくいっていないようです。社会だけではなく、個人も個人なりに、自分が住んでいる世界を管理しようとします。家族の中でも管理があるのです。しかし問題はたくさん起きます。一人暮らしする人でさえ、自分の身の回りを管理しようとする。しかし朝早く起きたいのに起きられなかったり、部屋の整理整頓ができなかったりするのです。

 ひとはなんでも管理したがるものです。しっかりした決まり・規則・管理などがなければ人間として生活できないのです。ですから、「人間とは管理なしに生きていられない生き物である」と定義しても構わないでしょう。文明人とは当然管理する/される人間のことなのです。何の管理も規則もなく生きる人間といえば、原始人かもしれません。とはいえ原始人にもそれなりの管理があったと思います。他の生命と比較すると人間は弱い生き物です。厳しい環境の中では生存できないのです。この弱みを管理能力で補っているのです。

 ひとが喋る言葉にしても、管理能力の結果なのです。他の生き物は、言葉を喋りません。管理能力が無いからです。人間にはたくさん言語があり、その上文法まであるのです。ただ喋っただけでいいわけでもありません。喋る相手にどのように言葉を使うべきかにも決まりがあるのです。同じ言語であっても地方によってイントネーションが変わってきます。イントネーションによっても、表現の中身は変わるのです。これも管理能力の結果なのです。管理がありすぎて、普通の人間にとっては一つの言語を学ぶことでも精一杯です。複数の言語を見事にこなせる人間はそれほど多くないのです。

 では、精密な管理の結果で現れた言語には何の問題も無いのでしょうか。いいえ、そうではありません。言いたいことを表現できなかったり、相手が誤解したり、言葉の使い方を誤って国際問題さえ引き起こすのです。人間は、身の回りのことを管理しなければ生きていられません。しかし、その管理システムはうまく機能していない。どこでもたくさん問題があって、完全に制御できないのです。

*管理者に問題がある

 世界を管理しようとする人間が、無数の複雑な管理組織を作っています。生まれてくる人間は、管理下で成長しなくてはいけないのです。しかし、どんな管理組織を調べてもトラブルが多いのです。トラブルが大きくなると管理組織を改良しなくてはいけなくなります。改良すれば一つ二つの問題は消えるかもしれないが、また新たな問題が起きてしまうのです。

 それで管理者に問題があることが明確にわかると思います。管理とは「このようにしてはいけない、このようにするべきです」という決まりのことです。その決まりは人間が作るのです。決まりを実行すると予測しなかった問題が起きるならば、期待する結果が出てこないならば、決まりを作った人間の判断能力が問われます。現代は多数の人々の意見を聞いて新たな決まりを定めるのです。それは個人が勝手なことをするのを止めさせるためです。個人が勝手に決まりを作るのは、独裁的で危険です。他人の権利を奪ってしまいます。世間では、この危険は多数決にすることで無くなるだろうと思っているようです。しかし、多数決でも完璧な管理はできないのです。ひとの数が増えても皆もともと個人です。結局、個人の決まりが皆の決まりになるのです。従って多数決の管理組織も問題なく機能しているわけではないのです。

 私たち個人は、管理されている身分でありながら、管理する身分にもなるのです。個人の能力は知れたものです。観察能力は優れてないのです。知っているものより知らないもののほうが比較にならないほど多い。先は読めないのです。起きた問題を解決するために、また同じ問題を二度と起こさないために、新たな決まりを作る世界です。詳しく見ると人間の管理組織は過去の問題の処理のように見えます。これから起こるだろうという問題には管理が及ばないのです。人間はそもそも不完全な存在です。世界を管理しようとするがそれも問題だらけの不完全な組織になることを覚悟するしか無いのです。管理組織にしがみついてはならない。組織に管理されるのは避けられないが、組織の奴隷になってはならないのです。うまく機能しなくなった時点で管理組織を改良する必要があるのです。

*自分の管理

ひとは社会に管理されて生きている。それから自分も社会を管理しようとする。すべて身の回りの管理なのです。何より先に自分自身を管理して立派な人間になるべきですが、それには気づかないのです。社会を変えれば何とかなると勘違いしているのです。たとえば「優れた法律制度があれば社会の犯罪が無くなる」「経済的に豊かになれば皆他人に迷惑をかけない良い人間になる」等などと思っているのです。周りが良い人間であるならば自分も良い人間になる。しかし周りが悪いことをするならば自分が他人に対して厳しい態度を取るべきである。このように思っているのです。

具体的に考えてみましょう。ある人はこのように言います。「あなたが良い人間でいるならば私はあなたに対して親切になる」そう言われた相手も「あなたが良い人間でいるならば私はあなたに対して親切になる」このように言い合いをすると誰も良い人間にならないのです。堂々巡りになるのです。私たちは現実に堂々巡りの世界で生きているのです。

 お釈迦様が、この問題を発見したのです。皆、身の回りを管理しようとするが、自分自身を管理していないのです。躾を受けなかった人が他人を躾しようとするような生き方です。ですから仏教は自己管理・自己制御が何よりも大事であると説くのです。他の人々は世界を救ってあげようと踏ん張っているが、お釈迦様は「自分自身の力で自分自身を救いなさい」と言うのです。それもお説教ではないのです。まずお釈迦様が真理を発見して、煩悩を根絶して、完全たる人格者になったのです。自己制御を完了したのです。それから他人にもその方法を教えたのです。「正義の味方」は世の中ではカッコイイフレーズかも知れませんが、はた迷惑なフレーズでもあります。他人を管理する前に自分自身を管理することが道です。ダンマパダ一五八偈でこのように説かれています。

Attânameva pathamam, patirûpe nivesaye;
Athaññamanusâseyya, na kilisseyya pandito.

まずは自己を第一に ふさわしきものに調えよ
それより他者を教誡すれば 賢き者は汚れることなし

(片山一良 訳)

*自己も制御不可能

 そもそもすべての問題の発端は、自己制御が不可能なことにあります。私たちの生き方は管理不可能になっているのです。社会が厳しく私たちを管理しないならば、どうなってしまうのかは分かったものではありません。「わかっちゃいるけどやめられない」というフレーズはすべての人間に当てはまるものです。自己制御は不可能という意味なのです。世界を管理することは難しくありません。権力があれば皆言うことを聞きます。人間も他の生き物と同じくアメとムチで行動するのです。何よりも難しいのは「自分自身を管理すること」です。アメとムチとは他人に管理されることです。アメとムチで管理されたからといって、自分が立派な人間になるとは限らないのです。

 こころの本能は無明、生存欲と恐怖です。ですからアメとムチの方法はよく効くのです。その方法を使っても生存欲と恐怖は消えません。個人に生存欲と恐怖があるからこそ他人に管理することができるようになっているのです。厳しい管理下で人が成長するとしましょう。その時は生存欲と恐怖が徐々に強くなっていくのです。管理を少々緩めたところで、今まで何も悪いことをしなかった人間が凶暴になってしまうのです。

 仏教も一般人に語る時はアメとムチの方法を改良して使います。善いことをすれば善い結果を得られる、悪いことをすれば悪い結果になる、と説くのです。ひとを管理するための言葉ではないのです。どうするのかと決める自由は、話を聴く個人にあります。その人には自己愛があるから、当然「これから善いことをします」と決めなくてはいけなくなるのです。

*自己管理の仕方

 こころの本性を知り尽くしたお釈迦様が、完璧な自己管理方法を説かれたのです。無明・生存欲・恐怖はこころの本性です。皆様に馴染みのある貪瞋痴も同じ事です。「好き勝手に感情のままで生きてみたい」という衝動が、常に湧いているのです。「善いことをしたい」という気持ちは本性にはまったく無いのです。まず、私たちは行動と言葉を制御することにします。自分の本性に反して悪いことをしないように、また悪い言葉を語らないようにするのです。決して楽な作業ではありません。本性である獣と対立しながら行わなくてはいけないのです。要するに戒律を守る道徳的な人間になることが「自分自身との戦い」なのです。

 それがそれなりにできてくると、生きることは楽になります。社会の批判を気にする必要は無くなります。社会から見れば自分はできた人間なので何の問題もないのです。それで「戒律を守ることによって安心・安全に生きられるのだ」と落ちつくのです。それから、こころを見るのです。牙をむくことはしないが、本来「獣」である自分のこころを観察するのです。本性とは無明・存在欲・恐怖であることを発見します。無明の奴隷でいることは情けない生き方です。さらに、「なぜ無明があるのか?」と調べるのです。一切の現象は無常なのに、自分自身がそれを発見できず勘違いしていたことが分かるのです。「一切は無常である」と発見すると、無明が消えます。存在欲は成り立ちません。存在欲があるから恐怖感があったのです。同時に恐怖感も消えるのです。それで自己管理は完了です。

 真の比丘とは、自己管理を完了した人のことです。要するに阿羅漢に達した方々のことです。自己管理を完了した人々には、それから何の管理も要りません。管理されるべき身分ではありません。自由に生きられるのです。自由奔放に生きられると聞くと、もしかすると誰もが羨ましい限りだと思うかもしれない。でも、そう思うのは一生管理されて生きる人生にクタクタ疲れきっているからです。自己制御を完了した人の「自由奔放な生き方」は、私たちが想像するそれとは違います。手足などの動きは常に落ち着いている。要するに身体を使って何の悪行為も間違った行為もしない。その人にとっては、それが自然なのです。言葉はつねに落ち着いています。言葉によって何の間違いも起こさない。その方にとって、それが自然なのです。その人は、こころの本性を無くしたのです。本性という恐ろしい獣は、死んでしまったのです。ですから、こころは常に穏やかです。常に安穏です。常に安らぎを感じているのです。これが真の比丘なのです。

今回のポイント

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