パティパダー巻頭法話
Sabbe satta bhavantu sukhitatta
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No.225 (2013年11月)
慈しみと涅槃の関係

 ~慈しみの二重構造~
 Liberation through compassion
A・スマナサーラ長老     
◎今月の巻頭偈
Dhammapada Capter XXV. Bhikkhuvagga
ダンマパダ(法句経) 第25章 比丘の章

368.
   Mettâvihârî yo bhikkhu
   Pasanno buddhasâsane
   Adhigacche padam santam
   Sankhârûpasamam sukham
368
   慈悲に住して淨信を
   ブッダの教えに捧ぐもの
   現象すべてしづまれる
   安楽の境に到るらん
                (和訳 江原通子)

● 慈悲とヴィパッサナー

 今月は慈悲について考えてみましょう。お釈迦様の実践は『慈悲の実践』と『ヴィパッサナー実践』という二つで成り立っているのだと、皆様方はたびたび聞かされていると思います。初期仏教のプロの方々は、もしかすると違う意見を持っているかもしれません。他の冥想方法もたくさんあるではないかという意見も間違いではありません。
問題はたくさんの実践方法があることではないのです。「優先順位を付けるならば、どちらの実践方法が優先になるのか?」ということです。ヴィパッサナー以外の冥想実践について、お釈迦様は平等に語られています。優先順位を付けられていないのです。とはいっても、慈悲の実践について語られた経典は数が多いのです。慈悲の実践は、仏教徒にも仏教徒ではない人々にも推薦されています。ということは、様々な冥想方法のなかで、慈悲の実践は優先第一になってしまうのです。ヴィパッサナー実践は、他宗教に類似したものがありません。それは解脱に達する仏教独特の冥想であると理解するべきです。それ以外の冥想は、サマタ冥想のカテゴリーに入ります。

● 仏道を喜ぶ

 これから『ダンマパダ』の三六八偈を参考にして、慈悲の実践の特色を説明したいと思います。ダンマパダ三六八偈はこのような意味です。

  仏の教えに心清まり 慈しみに住む比丘は
  諸行の寂滅、安楽なる 寂静の境を得るであろう

    (和訳:片山一良『ダンマパダ全詩解説』大蔵出版443p)

 右の訳に問題はありませんが、比丘がお釈迦様の言葉を参考にして説法するときは、訳を少々変えます。「仏の教えに心清まり」とは、お釈迦様の教え、即ち仏道に対して喜びを感じている、という意味になります。教え・仏道に喜びを感じるとは、心が納得している、ということです。異論も疑問も成り立たないところまで理解しているのです。

 物事を理解する場合、人間の脳は二つの働きをします。①自分が信じないもの、納得しないもの、認めないものも、理解することはできます。仏教徒であっても、キリスト教を学んで理解することも、専門家になることもできます。キリスト教徒にも、仏教を学んで理解することができます。しかし両者は、自分が学んだものを認めたり信じたり実行したりはしないのです。もう一つの理解の仕方は、②理解した内容に対して納得することです。認めることです。実行してみる意欲が起こることです。要するに、脳が変わったのです。性格が変わったのです。どなたでも物事を学んで理解する場合は、この二つの方法があると気付いていることでしょう。

● 理解するとはどういうこと?

 「仏の教えに心清まり」という場合は、②の理解の仕方になります。ブッダの教えは真理であると納得しているだけではなく、納得することと同時に心が清らかにもなっているのです。この世の中で、何かを学んだだけで人格が向上する、性格が改良するものはほとんどありません。ブッダの教えは理解するだけで心が清らかになってしまう力を持っているのです。それは神秘的な力ではなく、真理の力です。強烈な言葉を語って、人々を圧倒させて、心を洗脳する目的はお釈迦様にないのです。ただ事実をありのままに、相手に理解できるように、親切に順を追って語るだけです。お釈迦様により発見された、証明された真理なので、聴く人々にそれを否定することは不可能です。

俗世間的な事実についても、一旦それを知ってしまえば、心が変わるのです。例えば、昔の人々は悪霊の怨念によって人が病気になると信じていました。しかし今は、人が病気になる原因は悪霊ではなく細菌とウィルスであると知っています。ですから現代人は、病気になったら医者の世話になるのであって、祈祷師に頼むことはしません。それでも、医学の力で治らない病気に罹った場合は、祈祷師にすがる原始人の思考に戻る人々もいるのです。恐らくそれは、「理解のレベル」の問題かもしれません。「科学はすべてを解明していません。解明できないものもあります」と言って、なんの躊躇もなく原始人の思考・信仰に頼ってしまうのです。しかし原始人の思考には、真理というよりも事実に合ってないもののほうが遥かに多いのです。一部の人々は、科学技術も認めつつ原始人の迷信も正しいという立場をとっているので、理解能力が薄いのです。ですから「病気を治してください」と祈祷師にすがり、祈りに頼ろうとするのです。

 お釈迦様が真理を発見したということは、「『生きるとはなんぞや?』という問題に対して最終的な答えを見つけた」ということです。それだけではなく、解決方法も発見したのです。「如来が発見されて説かれる真理は、そのままであり、変えることはできません」と説かれています。ブッダの教えは間違っていると証明したければ、それは自由です。調べることは禁止されていないのです。「ブッダの教えに対して納得する」とは、ブッダの教えは誰にも否定できない唯一の真理であると、各自で発見することです。

● 慈しみに住む

 これで三六八偈の四分の一を解説しました。次に、「慈しみに住む比丘は」という言葉を解説します。比丘とは出家のことです。お釈迦様のもとで出家するのは、容易いことではないのです。出家を決断するためには、たいへんな勇気が必要です。組織化されている現代仏教とはわけが違います。全財産、家族、親族、友人、いままでの人間関係、いままでの生き方、すべてを捨てなくてはいけないのです。一日一食で、家無し生活をしなくてはいけないのです。それには強い覚悟が必要です。その覚悟は、ブッダの教えに納得したならば起きてしまうのです。ですからこの偈で語られている比丘とは、ただ形式的に出家している、というだけの意味ではありません。表面的な生き方だけではなく、心が俗世間的な束縛から離れているのです。体も心も出家しているのです。このような比丘が、慈しみを実践して生活するのです。身口意の一切の行為は、慈しみに基いて行っているのです。思考は慈しみの思考、語る言葉は慈しみの言葉、体でおこなう行為は慈しみに基づいた行為です。このすべてをまとめた意味で、「慈しみに住む」と言うのです。

● 慈しみの見方

 このポイントは難しいのではないかと思ってしまったので、さらに解説してみます。
慈しみに基づいて生きることは、「慈しみに住む(mettāvihārī)」というパーリ語表現になります。これはどういうことでしょうか? 例えば喉が渇いたとしましょう。その時は、水を汲んで飲む。それだけでしょう。慈しみはどこに入るのでしょうか? 喉が渇いた人が水を飲むのは自分のためでしょう。他の生命には関係ないことでしょう。

 出家は川や井戸の水をそのまま飲んではいけません。濾して飲むべきであると戒律で定められています。その理由は、水のなか住んでいる生命を害さないためです。私たちもきれいな水を探して飲みます。その時は、「細菌が入った水を飲んだら病気になります。放射能が入っている水を飲んだらガンになります」などなど、自分の肉体のことを考えているのです。わがままです。ですから、「殺菌しましょう」という言葉を誇らしげに使って行動するのです。結局は殺意的な行為に似てしまうのです。慈しみに住む比丘が水を濾すときの気持ちは、それと違います。自分の体が壊れないために水を飲みますが、他の生命のいのちを守ってあげる気持ちをもって水を濾しているのです。ですから、水を濾す行為が慈しみの行為になるのです。水を飲まないで苦労しようとすると、自分を無意味に苛めることになります。周りの人々に迷惑をかけたり、心配させたりする行為にもなります。自分自身に真剣真面目に修行することもできなくなります。出家だと名乗りつつ、それほど真剣に修行に取り組まないことは、世間に対して嘘をついて騙す行為をしたことになります。ですから、濾した水を飲む行為も世間に対する慈しみの行為になるのです。「自己犠牲を払って他を救う」という考えは、仏教の思考ではありません。慈しみを実践する場合は、自分に対しても、他の生命に対しても、隔て無く実践するものです。水を飲む比丘は、その行為を自分に対する慈しみの行為にするのです。

 喉が渇いたので水を飲むという、いたって簡単で当たり前の行為ですが、慈しみを実践する比丘の場合は、その中身が一般人の生き方とまったく違います。一般人は自我愛で水を飲む。慈しみに住む比丘は、慈しみの行為として、自我が割り込まない行為として水を飲む。この実践を現代社会に入れ替えてみましょう。水道から水を汲む時も、蛇口まで水を運んでくるためにどれほどの人々が関わっていることでしょうか。水を飲むカップが自分の手元に届くまで、どれほどの人々が関わったことでしょうか。水を汲む瞬間で、その関わった数知れないすべての人々に慈しみを念じつつ、水を蛇口から汲めばよいのです。いま一つの例だけ詳しく説明しましたが、慈悲の実践をおこなう場合は、生き方全体を慈しみに基づいて行うことができるのです。

● 慈しみの素人と玄人

 「慈しみに住む」場合は、一日の行為だけではなく、冥想修行も慈悲の冥想になるのです。心も体も「慈しみ漬け」というような生き方になるのです。いままで説明した慈しみの実践は、皆様方がふつうに知っている慈悲の実践よりは、かなりレベルの高いものであると理解できたことと思います。「ここまでは無理」と、冷水を浴びた気分になったかもしれません。皆様方に紹介している慈しみは、大変高価なブランドのアクセサリーのようなものです。高価なブランドのアクセサリーを着けることで、幸せな気分になるでしょう。アクセサリーなので、着けたり外したり保管しておいたり、いろいろです。

ここでお釈迦様が教える慈しみは、アクセサリーのレベルではないのです。人生そのものを変えることです。『聖書』の言葉を借りて言うならば、エゴ中心に生きる人間は慈しみで生きる人間として生まれ変わらなくてはいけないのです。(「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」ヨハネによる福音書3:3)これは、生き方が一八〇度変わることです。瞬時に飛び上がって人生を変えることはできません。一八〇度の回転をしなくてはいけないのです。聖書で説かれているように、洗礼を受けるだけで済むものではありません。時間をかけて実践して、徐々に心を成長させてゆく道なのです。

 慈悲の実践は宗教と関係なく誰にでもできます。しかしお釈迦様が説かれている本格的な慈悲の道に入るためには、資格が必要です。「仏の教えに心清まり」とは、その資格のことです。まず仏教を学んで欲しいのです。理解して欲しいのです。四聖諦、無常・苦・無我の話を吟味して欲しいのです。それが真理か否かを自分で調べたり観察したりして、納得しなくてはいけないのです。ブッダの教えは真理であるという理解に達するまで、学ぶ必要があります。「ブッダの教えを信じています。私は仏教徒です。仏教は私の好みです」程度のものではありません。学んで理解して納得いくことです。それによって、心が成長することです。この資格を取ることができたならば、本格的な慈悲の実践ができるようになります。「慈しみに住む」ことができるようになります。これでこの偈の半分の解説が終わりました。

● 慈しみから解脱への道

 「諸行の寂滅、安楽なる 寂静の境を得るであろう」という残り半分の解説に入ります。翻訳の言葉が難しいので、まず簡単な意味を書きます。「慈悲に住む比丘は安穏である涅槃を体験します」。ということは、慈悲の実践で解脱に達することができます、という意味になります。覚りに達するためにはヴィパッサナー冥想ではないかと思っていたところで、慈悲の冥想を実践すると解脱に達するのだという経典にも当たってしまったのです。しかし経典を知っている人々には、それほどびっくりする言葉ではありません。有名な『慈経Mettasutta』の中でも、最後の行は「もう二度と母体に宿る(輪廻を繰り返す)ことはありません」でした。それは慈悲の実践をすれば、不還果の境地まで解脱に達するのだ、という意味です。完全たる覚りという阿羅漢果まであと一歩です。不還果に達した聖者は、浄居梵天と名付けられている梵天に生まれて、そこで阿羅漢果に達して涅槃に入るのです。ダンマパダ三六八偈では、預流果・一来果・不還果・阿羅漢果という区別なしに、「解脱に達するのだ」と説かれています。どのように慈悲の冥想をして解脱に達するのか、冥想実践者の心がどのように成長してゆくのか、ということは説明することができません。実践とはやってみることなので、「こうなるのだ、こうなるのだ」と将来のことを言わないのは仏教の決まりです。言ってあげても、聴いている人の心が俗世間のレベルで働いているので、妄想概念になります。心の成長の妨げになります。やってみれば各自で分かることなので、将来に起こるはずであろうとする成長について、修行者には語りません。経験してから、先輩の経験者の体験と照らしあわせてみることをするのです。

 恐らく慈悲の実践を本格的に行うと、心は次のように成長してゆくだろうと私は思います。まずは自分と他の生命が平等に幸福であることを念じます。徐々に自分と他人の差が消えてしまいます。自と他を区別しないで、生命として観ることができるようになります。このレベルになると、自我という錯覚が無くなるのです。しかし、自分という意識はあります。次に、生命とは何だろうか、という方向に気持ちが行きます。ブッダの教えに通じているので、また、納得しているので、一切の生命は五蘊で成り立っているのであると発見します。五蘊しか無いと分かったら、「生命」という概念は成り立たないと発見します。それなら、自分という概念も、他人という概念も、成り立たないのです。ただ五蘊に対して世間が付けるラベルのみです。さらに調べると、五蘊も個体ではなく因縁によって一時的に成り立つ、勢いで変化してゆくプロセスであると発見します。何事も(一切の現象、一切の行)執着に値しないものであると、執着は無常を真理として理解しないから起こる錯覚であると発見します。その智慧によって、心が一切の煩悩から解放されます。それで「自分がいる」という気持ちさえも無くなります。それは最終的な解脱なのです。慈悲の冥想だけ実践すると、不還果まで達します。阿羅漢果に達するためには、生命という概念も乗り越えなくてはいけないのです。

 ついでに「諸行の寂滅」を説明します。諸行とは、一切の現象のことです。現象を認識すると、心の中に様々な概念が起きます。概念と同時に、貪瞋痴の感情が起きて渦を巻きます。諸行は無常であるとわかると、概念は起きません。感情の渦巻きは消えます。それが「諸行の寂滅」ということです。

今回のポイント

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