パティパダー巻頭法話
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No.226 (2013年12月)
ひとが持って生まれる能力

 ~毒にも薬にもなる思考~
 Think with caution
A・スマナサーラ長老     
◎今月の巻頭偈
Dhammapada Capter XXV. Bhikkhuvagga
ダンマパダ(法句経) 第25章 比丘の章

369.
   Siñca bhikkhu imaṃ nâvaṃ
   Sittâ te lahumessati
   Chetvâ râgañca dosañca
   Tato nibbânamehisi

369.
   この舟の
   水を汲めかし いざ比丘よ
   汲まば舟足 軽からん
   貪り瞋りを捨てて疾【と】
   汝【なれ】は涅槃【さとり】に至らなん
               (和訳 江原通子)

■ 生き延びる力

 生命には、生き延びるために生まれつき何かの能力が付いています。生き延びるためには、食べ物を探すこと、敵から身を守ること、安全な住処を見つけることが必要です。子孫を残すことも、生きるというプログラムに入っているのです。地球上にいるさまざまな生命を観察すると、これはいとも簡単に理解できることです。単独で獲物をとるチーターの足はとても速い。走る能力のないライオンは群れの連携プレイで獲物をとる。サメはわずかな血の匂いでも感じ取る。コブラの牙には毒入りの袋が付いている。フクロウやコウモリは超音波を出したり受信したりする能力を持つ。カメレオンの舌は神技で昆虫を捕らえられるようになっている、という具合です。

 人間も同じ生命ですが、生まれつきこのような能力が具わっている気はしないのです。毒も、角も、早く走れる脚も、鋭い牙も、カモフラージュできる皮膚もない。肉体の能力から比較すると、一番弱い生き物かもしれません。しかし人間は食物連鎖の頂点に立っているのです。ということは、他の生き物に比べて一番強いということになります。人間の能力は、脳です。脳の使い方は他の生命と違います。人間は考えることを武器にしているのです。人間が為しているすべての行動のおおもとは思考なのです。思考能力を取り上げたら、人間はこの地球上から瞬く間に消えてしまいます。

■ 能力が度を越す

 生き延びるために必要な能力は、度を越してしまうと自己破壊になります。コブラが、理由のあるなしに構わず周りの生命を噛むことになったならば、たいへん危険でしょう。皆、コブラを全滅させるように努力するでしょう。動物たちは自分の持つ力を無闇に使っていないのです。しかし人間は失格です。人間は思考能力を、度を越して使っているのです。おかげで地球上に住むすべての生命の命が危うい状態になっています。人間に人間を信頼することができなくなっているのです。皆、他人のことを疑いの目で見ているのです。戦争も起こす。子供も殺される。人間界は理不尽なこと、残酷なことに溢れています。
 問題は他人を破壊することだけで終わらないのです。他人に糞を投げつけようとする人は、先に自分が糞まみれになります。他人に対して怒る場合は、先に自分が怒りに燃えるのです。他人を破壊する前に、自分が破壊的な思考を増殖させなくてはいけない。他人のことを恨むと、他人より先に自分が不幸に陥るのです。毒蛇が自分の毒で死ぬことは決してあり得ません。しかし人間だけは、生き延びるために付いてきた思考能力で自己破壊するのです。自然法則から考えると、これはあり得ないこと、あってはならないことです。毒蛇の毒と違い、人間の思考能力は取り扱いがとても難しいウランのようなものなのです。

■ 思考能力は育てるもの

 人間にはもうひとつ問題があります。人間は思考能力を持って生まれないのです。可能性だけ持って生まれるのです。思考能力は、生まれてから学ばなくてはいけないものです。面白いことに人間は、勉強が嫌いなのです。思考能力は学んだ結果として身につくので、人間のあいだで差が生じてきます。それで他人を差別することも起きます。高慢・卑下慢も生まれてくる。様々なコンプレックスで病むはめにもなる。間違ったやり方で思考すると、思考能力そのものも失ってしまうこともあるのです。

 教育は人類の運命をにぎる舵です。闇雲に教えることも学ぶことも危険なのに、誰も気にしません。他の生き物と同じく、ただ生き延びる目的を目指して、学ぶのです。たくさん収入を得ることと、敵やライバルを倒すことが、教育の目的になっています。それが度を越しているために、すべてのバランスが崩れているのです。

■ 生き延びると苦も延びる

 仏教の立場からこの問題を解説してみましょう。「生きることは苦である」とは、お釈迦様の説かれた真理です。これは事実です。であるならば、生き延びる能力を一概に評価することはできません。生き延びるとは、苦を延ばすことにもなります。物事は因縁法則によって成り立っているのだということも、釈尊の説かれた真理です。ものごとが跡形もなく完全に消えるということは、因果律に合わせて考えるとあり得ないことです。ですから生命は死で終わるのではなく、輪廻転生するのです。生きること、生き延びること、輪廻転生することが、この上なく有難いことだと、けっして決めることはできません。ただ苦が現れて、苦が転生してゆくのです。

■ 思考の整理

 ですから人間が目指すべき目的は、「どのように生きるか」ではなく、「どうすれば苦の循環から脱出できるのか」ということになります。なんの制御もなく無闇に思考することは、明らかに危険な結果になるので止めるべきです。考えるべきもの、考えてはいけないものを区別するべきです。考えてはいけないものを考えない能力、考えるべきものを考える能力を身に付けなくてはいけないのです。それから、節度の問題があります。もともと生き延びるために付いてきた思考能力です。わずかな思考能力で、生き延びることができます。問題なく、他人に迷惑かけることなく生きられる程度の思考能力で充分です。

 しかし、人間の思考能力はそれだけではありません。高度なレベルまで発展させることができます。人間はここで失敗したのです。「生き延びる」という低次元な目的はそのままにして、思考能力だけを発展させてしまった。だから、地球上にいる一番恐ろしい生命体になってしまったのです。より力強くより恐ろしく生きるためではなく、人格向上する目的で思考能力を発展させるべきであると、仏教は推薦します。弱者を潰すためではなく、生命を慈しんで、自然のバランスを保つ目的で思考を発展させるべきです。「生きるとは何か」と発見するために、思考を使うべきです。

■ 思考はねじ曲がる本質を持っている

 思考能力は伸びるものですが、正しくは伸びません。必ず間違った方向へ伸びるようになっているのです。生き延びるために付いた能力なので、思考は自分だけ生き延びる方向へ進みます。自分の都合のみを考えるようにねじ曲がっています。例えば人が川で魚を釣っているとしましょう。できるだけ大きい魚を釣って、塩焼きにして食べたいのです。釣った魚がどれほど大きいかと自慢までしたいのです。簡単に魚が釣れるように、いろいろ研究したり工夫したりします。それは魚を釣っている人の都合です。魚とは誰にも迷惑をかけないで川の中でのびのびと生きている美しい生き物である、という気持は絶対頭に浮かばない。魚にも生きる権利があるということは認めないのです。このようにどんな思考にしても、ただ自分の都合にあわせて延ばすだけです。真理・事実を知る目的で伸ばすことはしません。

 これは感情の問題です。生き延びたいという気持は思考ではありません。感情です。生きることは大変です。わずかな失敗でも死んでしまうのです。ですから、強烈な恐怖感があるのです。それも思考ではなく感情です。要するに tanhâ ・渇愛です。分かりやすく省略するならば、存在欲と恐怖感です。思考能力がない生命にも、この感情があります。思考能力ある人間にも、この感情があります。人間は思考すればするほど、存在欲と恐怖感が刺激を受けて増幅されます。感情は別な言葉で煩悩というのです。煩悩が思考を生み出します。思考は煩悩を増幅させて強化します。そうするとさらに強烈な思考が生まれます。それがまた煩悩に影響を与えます。悪循環というより、これは悪魔の循環なのです。

■ 危険を伴う思考

 輪廻を脱出して解脱に達したいと思う人の前に立ちはだかる巨大な障害は、思考・妄想です。生まれつきの能力なので、管理することも止めることも、とても難しいのです。欲・嫉妬・怒り・憎しみ・恨み・高慢・卑下慢・見栄・落ちこみ・舞いあがり・不信感・不安感・優越感・劣等感などなどの感情(煩悩)が心のなかで渦巻いていると、楽に生きられない。人生はかなり重くなって、身動きできなくなります。柔軟性が消えてしまい、明るさ・楽しみも消えてしまうのです。感情と思考は密接に繋がっています。感情という凶暴なサメが海のなかに泳いでいて、思考という美しい背びれだけが見えるのです。人間は思考が悪いと思わない。かえってとても高く評価します。思考とはサメの背びれのようなものです。背びれ自体は何の危険もないものです。しかし残念ながら、その可愛い背びれは恐ろしいサメに付いているのです。思考と煩悩の繋がりは、このようなものです。

■ 正思惟で置き換える

 ひとはどうしても思考するので、お釈迦様が八正道の教えでsammâsankappa ・正思惟を推薦するのです。欲・怒り・憎しみ・恨みという感情と繋がった思考は邪思惟です。施し・慈しみ・思いやりに繋がった思考は正思惟です。正しい思考をすると、煩悩は増幅しません。煩悩の危険性が徐々に低下していきます。その修行とともに、八正道の残りの項目も実践してみると、千五百の煩悩の代わりに智慧という能力が現れます。智慧が現れたら、真理を発見します。真理を知ったら、煩悩が消えるだけではなく、思考する必要さえもなくなります。煩悩が消えるとは、言葉を変えれば「解脱に達する」ことです。
 新しい例えを考えましょう。ひとの頭の上にいくらでも大きくなる鞄があるとしましょう。その人は手に入るものはなんでも、その鞄に入れるのです。本人は幸せになるつもりです。しかし手当たり次第に何でも入れるので、鞄にたまたま役に立つものがあったとしても、殆どは何の役にも立たないゴミばかりです。幸福になるよりは、どんどん頭が重くなって重くなって、身動きできなくなることだけは確かです。それでも鞄にものを入れる癖を続ければ、自分自身が潰れてしまいます。私たちの思考の回転もこのようなものです。良かれと思って思考する・妄想する。まれに役に立つ思考もあります。しかし殆どの思考は人生に迷惑ばかりです。やがて思考・妄想に抑えられて、人生そのものが潰れて破壊されます。死後、不幸になります。ひとは思考・妄想と遊んではいけません。思考・妄想はウランと同じように取り扱いすべきものです。

■ 思考を捨てる道

 お釈迦様は比丘たちに、「比丘たちよ、この舟の水を汲み出しなさい。汲み出したら軽くなります」と説かれます。舟とは、人生であり、心です。心のなかに思考という水が勢いよく浸水している。そのままでは危険です。やがて沈没します。早く思考という水を汲み出さなくてはいけない。このように説かれるのです。思考という水を汲み出せば汲み出すほど、心は楽になります。
 では舟に浸水している場合、水を汲み出すことが正解でしょうか? そうではありません。緊急手当は水を汲み出すこと。しかし、そればかりしてもキリがありません。舟の穴を修理しなくてはいけないのです。心のなかに思考が浸水して、沈没の危機が迫っている。思考は存在欲(râga)と恐怖感(dosa)という二つの穴から侵入します。その二つの穴を塞ぐことが、安穏(涅槃)に達する唯一の方法なのです。

今回のポイント

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