パティパダー巻頭法話
Sabbe satta bhavantu sukhitatta
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No.229 (2014年3月)
輪廻は激流です

 ~生きるとは感覚依存症です~
 Buddha’s path leads to perfect calmness
A・スマナサーラ長老     
◎今月の巻頭偈
Dhammapada Capter XXV. Bhikkhuvagga
ダンマパダ(法句経) 第25章 比丘の章

372.
   Natthi jhānam apaññassa
   Paññā natthi ajhāyato
   Yamhi jhānañca paññā ca
   Sa ve nibbānasantike.
372
   智慧なきものに定【じょう】はなく
   定なきものに智慧ぞなき
   定と智慧とを具えなば
   実【げ】にこそ近し 涅槃【ニッバーナ】

373.
   Suññāgāram pavitthassa
   Santacittassa bhikkhuno
   Amānusī rati hoti
   Sammā dhammam vipassato.
373
   比丘空閑の室に入り
   独り心はしづやかに
   正しく法を観ずれば
   人界になき喜悦得る

374.
   Yato yato sammasati
   khandhānam udayabbayaṃ
   Labhatī pītipāmojjaṃ
   amatam tam vijānataṃ
374
   もしも人
   五種なる蘊の消滅を
   瞬時瞬時に覚知せば
   彼は必ず得るならん
   不死の喜悦と充足を
                 (和訳 江原通子)
375.
   Tatrāyamādi bhavati
   Idha paññassa bhikkhuno
   Indriyagutti santutthi
   Pātimokkhe ca samvaro

375
   ここにおける智慧ある比丘には
   これがそのうちの初めなり
   すなわち感官の防護、知足
   根本戒(ルビ:パーティモッカ)による防護なり
                (和訳 片山一良)
     ※『ダンマパダ全詩解説 仏祖に学ぶひとすじの道』大蔵出版,2009

何かとよく分からない「生きる」という行為

依存した生き方

 今月の話は、先月の話の続きです。先月の法話では、生きるとは眼耳鼻舌身意に色声香味触法がふれていくこと以外のなにものでもありません、というニュアンスで語りました。それから、一般的に生きるとは色声香味触法に依存していることである、と説明しました。ひとは計画を立てて自分の意志で生きていると思ってはいるが、蓋を開けてみると、色声香味触法という対象から決して離れない生き方をしているのだ、と理解することができます。そこに生きる自由はありません。ただ、生まれたから、生きていきたいから、死にたくはないから、生存欲と怯えに強いられて生かされているだけの惨めな人生を送っているのです。「生きていきたい、死にたくない」とは強烈な衝動ですけど、誰にもその目的に達することはできません。皆の人生は必ず失敗で終わるのです。この事実が薄々わかっている人もいます。失敗するのだとわかると、さらに悩みが増えるだけです。さらに不安に襲われるのです。

仏道の発見

 解決策としてお釈迦様は、「生きるとは何か」と客観的に観察するように推薦します。それが俗に言う、仏教の冥想なのです。やりかたは、ただ観察するだけなので、皆使っている冥想という単語はふさわしくないのです。くどいと感じるかもしれませんが、正しい言葉は「仏道を実践する」ということになります。仏道を実践すると、色声香味触法に依存して生かされている状況が、変わっていきます。ひとが激流に流されているとしましょう。危険な状態です。その人は、川面に浮いた流木をみつけて、それにしがみつきます。どうしようもなく流されていた状況が、少々、変わります。命が助かることが期待できそうになります。すべての生命が輪廻という激流に流されているのです。仏道を実践するとは、浮いた流木にしがみつくことです。

 流木にしがみついたからといって、まだ完璧に安全という状態になったわけではないのです。命を守る唯一の方法を見つけただけです。期待できそうな状態になっただけです。それから流されている人が、流木をうまく使って岸に辿り着くようにと、よく考えて努力をしなくてはいけないのです。手足をうまく使ったり、流木のながれを調整したりしなくてはいけないのです。これが「精進する」ということです。

 先月、紹介した三七一偈に、jhāya bhikkhu mā pamādoというフレーズがありました。「比丘たちよ、修行しなさい、放逸に陥ることをやめなさい」という意味です。今日の喩えを使って言うならば、「流木にしがみつきなさい、それから、手足を上手に使って、流木を岸に辿り着くようにと導きなさい」というような意味です。たとえ流木につかまったとしても、何もしないで、放逸状態でいたならば、激流に流されて死ぬ可能性はあります。ですから仏道を実践することを始めても、不放逸であることは欠かせないのです。

仏道と智慧の不可分の関係

 今回、紹介しているダンマパダの偈で仏道を示す言葉はjhānaです。Jhānaとは禅定だと訳するのです。動詞として使う場合は、「禅定を作りなさい」ということになります。これは一般的な意味ですが、今月と先月の偈の場合は、「仏道を実践しなさい」という意味で理解したほうがよいのです。サマタ冥想で禅定を作りなさい、というふうに理解したら、意味を間違います。

 さっそく、三七二の偈の意味を理解してみましょう。Natthi jhānam apaññassa智慧が無い人には仏道はありません。智慧がなかったら、仏道をみつけることも実践することもできないのです。次のフレーズは、paññā natthi ajhāyatoです。仏道を実践しない人には智慧が現れません、という意味です。

 ここで困ったことになります。仏道を実践するために智慧が必要です。智慧が無ければ仏道を実践することもできません。喩えを出します。とても有名な人がコンサートを開いている。自分もそれを鑑賞したいのです。しかし入場券が無ければ、コンサートホールに入れません。チケット売り場はどこでしょうかと尋ねたら、「コンサートホールの中で売っている」と言われたとしましょう。それなら、どうしようもない状態になります。チケットを買うためにホールの中に入らなくてはいけないし、入場券がなければホールの中には入れてくれません。

 お釈迦様は矛盾になる言葉を説かれているのでしょうか? 最初からもう諦めなさいと言っているのでしょうか? そうではありません。先月の法話で、耳にタコができるところまで「生きるとはどういうことか」と延々と説明しました。それを理解できたならば、その人にとっては最大の発見になります。いまだかつて知らなかったことを知ったことになります。生きるとは何か、それはどのようなカラクリか、生きることに意義があるか、というすべての生命を悩ませている問題に答えを見つけたのです。これが智慧です。

徐々に成長する智慧と精進

 生きることに何の意味もなく、色声香味触法に依存してただ流されているだけだと発見したら、その人に「ではどうすればよいのでしょうか」という疑問が生じます。それでお釈迦様が、究極の幸福に達する仏道を紹介します。その人に仏道を実践する意欲も現れています。それで仏道を実践することに励むのです。この状況について、「智慧が無い人には仏道はありません」と説かれたのです。
また流木の話に戻ります。流木をつかまえただけで、これで安心だと落ち着くことはできませんね。それから、川の流れを計算しながら、周りの状況を判断しながら、巧みに流木を岸に辿り着くまで導かなくてはいけないのです。仏道に当てはめてみます。流木をつかまえたとは、仏道の実践を始めた、ということです。しかし、激流の状況を明確に把握する必要があります。それだけではないのです。精進して流木を導かなくてはいけないのです。激流の状況を把握するとは、智慧のことなのです。流木を岸まで導くとは、仏道を実践することなのです。ということは、paññājhānaを同時に使うことになるのです。Yamhi jhānañca paññā ca智慧と実践が両方ある人は、sa ve nibbānasantike確かに涅槃に近いのです。流木と激流の喩えに戻ってみれば、意味は明白です。激流はどこまで長いものかと、知れたものではありません。どんな危険が待っているかともわかりません。しかし流木につかまってみたら、その恐怖感・不安感は消えます。安全な岸はすぐそこにあります。ただそこまで泳ぐだけです。仏道の実践を始めた人が、その実践をつねに智慧と繋げておけば、涅槃・解脱はすぐそこにあるものです。

修行道場の意味

 仏道を実践する出家は、人里離れた場所を選びます。俗世間と関わりない静かな場所のことを、仏教用語でsuññāgāra空閑処と言います。ひとっこひとり居ない孤独な場所、という意味ではありません。俗世間的な生き方をしている環境から離れる、という意味です。一緒に仏道を実践する仲間なら、何人いてもかまわないのです。ヴィパッサナー実践をおこなっている現在の皆様のことを考えても、状況はおなじです。家族が大騒ぎしている時、あれやこれやと色んなものを要求されている時、皆自分に話しかけている時などは、俗世間の真っ最中です。修行できるはずはないのです。そこで意図的に、自分だけの時間を作るのです。その状況は、suññāgāra空閑処になります。

 この言葉を物理的な意味で取って、誤解される場合も少なくありません。仏教の世界では、森住の出家は真面目な修行者で、村住の出家は普通だと思っている場合も多いのです。在家の仏教徒たちも、わざわざと森を探していく場合もあります。解脱は環境や形で決めるものではありません。こころの問題です。東京都に住んでいても、簡単にsuññāgāra空閑処を作れます。ただ日常的な煩わしさから離れるだけのことです。

輪廻の危機を感じない人

 再び、激流の話です。流されている人は、自分が置かれている状況を知っているならば、最大の恐怖感・不安感を感じるはずです。では、流木をつかまえたとしましょう。気持ちはどうなるでしょうか。「やっと救われた」という気分になります。輪廻転生しているすべての生命は、輪廻という激流に流されています。それに気づいてないのです。美味しいものを食べられて幸せだなぁ、家族がいて幸せだなぁ、健康で幸せだなぁ、好きなことをできて幸せだなぁ、などなどの「幸せ」を見つけて、激流を楽しむのです。輪廻の危機を感じないのです。感じようともしないのです。調子に乗って生きているのです。この状態に対して、仏教の世界では「蟹の喩え」を使います。冷たい水を入れている釜があります。その中に蟹を放り投げます。捕まえられて怯えていた蟹は、すぐ安心します。釜の中で動きだします。でも、釜の下では火が焚かれています。蟹の安心感は水が温かくなるまでです。俗世間の誘惑に溺れて、何の躊躇もなく生きる人のことを、仏教の世界では「釜の中に遊ぶ蟹の如し」と言うのです。

人間界を超える喜び

 激流の恐ろしさを感じた人は、流木をつかまえた途端、安らぎを感じるのです。良かったぁ、救われたぁ、と感じるのです。これは、美味しいご飯を食べられてよかったぁ、という楽しみとは比較にならない、はるかに高いものです。お釈迦様がこのように語ります。Suññāgāram pavitthassa空閑処に入って、santacittassa bhikkhuno心穏やかにした比丘が、sammā dhammam vipassato正しく現象を観察する時、amānusī rati hoti人間のレベルを超えた喜びが生まれる。激流に流されていた人が、流木をつかまえただけではなく、状況を把握しながら手足を巧みに動かして、岸まで進むのです。その人のこころは喜びに溢れるのです。この喩えと同じく、仏道を正しく歩む人は、人間界を超えた喜びを感じるのです。ヴィパッサナー実践は、うまく進むならば、これ以上の喜びは無い修行になるのです。苦行なんかは全くありません。

生滅智と喜びの関係

 人間界を超えた喜びとは何ですかと、これから説明します。仏道実践を始めた人は、生きるとは何か、自分とは何かと客観的に観察するのです。仏弟子は自分という単語を具体的に理解します。自分とは色受想行識という五蘊のことです。五蘊をそのまま観察してみるのです。そうすると、五蘊とは固定したものではないと発見します。瞬間瞬間、現れては消える、また現れては消える、五つの流れです。色蘊(身体)の生滅が観えてきます。けっこう早く生滅しているのだと、発見します。次に、受想行識の生滅も観えてきます。その時は、観察できそうもないほどの早さで、こころが生滅しているのだと発見します。五蘊の生滅の流れを発見すると、尚更こころが喜びを感じます。よかった、よかったと、満足を感じます。では問題です。生滅を観られたら、何が満足でしょうか。何を喜ぶのでしょうか。激流と流木の喩えで考えてみてください。激流の状態を知れば知るほど、身を守る方法を発見します。激流は最大の危機かもしれませんが、自分は精進している、確かに岸に辿り着ける、だからこそ喜びを感じるのです。よかったという満足を感じるのです。仏教用語で言うならば、(五蘊の)生滅智が現れた時です。お釈迦様はこのように語ります。Khandhānam udayabbayam五蘊の生滅をyato yato sammasati観察するたびに、labhatī pītipāmojjaṃ喜びと満足感が得られる。(なぜならば修行者は)amatam tam vijānataṃ涅槃・不死を知っているからです。

仏道は直ちに結果をもたらす

普通の人々は、仏道は先が見えないほどの長い道ではないかと思っているのです。解脱に達することはできそうもないと、実践の仕方を知らなかった昔の仏教徒たちは実践を止めて、拝んだり祈ったり頼ったりする大乗仏教を作ったのです。自分で努力して助かるのではなく、助けてもらうことに変えたのです。この変質は、ブッダの教えを正しく理解できなかったことに原因があるのです。初心者はまずブッダの教えを理解しなくてはいけないのです。自分とは何か(五蘊)、生きるとは何か(眼耳鼻舌身意に色声香味触法がふれて起こる認識の流れ)ということを理解しなくてはいけないのです。これぐらいの理解にも、智慧と言います。それから、仏道実践する意欲が起きます。それで実践してみます。そうすると、生滅智が現れます。人間界を超えた喜びと安心感をおぼえています。ここは仏道の終着点ではないのです。生滅智が現れたら、本格的な仏道(涅槃に達する一方通行の道)に入ったことになります。それから忽ち、解脱に達します。法の特色の中にakālikoという言葉があります。時間がかからない、という意味です。(時代おくれには絶対ならない、という意味もあります。)それから、sanditthiko目の前で結果が現れる、という意味の言葉もあります。すぐさま解脱に達する教えである、という意味です。

仏道の出発点とは

 激流に流された人が、流木につかまって流れの状況を把握しながら、手足で巧みに努力するならば、すぐさま、岸に辿り着くことでしょう。しかし流されている人にとっては、流木につかまることが自分を救う努力の出発点でしょう。お釈迦様がこのように語ります。Pātimokkhe ca samvaroパーティモッカによって戒めて(パーティモッカとは出家の戒律です)、indriyagutti感覚器官を護る(ひたすら眼耳鼻舌身を放っておくと何が入ってどのようにこころが乱れるのかとわかったものではないのです。ですから、色声香味触がふれても、こころが乱れないように気をつける)、santutthi知足する(ひとの要求にはキリがありません。命を保つ程度に必要な最低限の品物で満足することです)、このような条件が揃ったidha paññassa bhikkhuno比丘の智慧は、tatrāyamādi bhavati仏道の出発点です。とても身近な解説をするならば、冥想実践を始める前に、戒律を護る道徳的な人間になりなさい、五根をみだりに使うことは止めなさい、知足を実践しなさい、ということです。これで究極の幸福に達する、それほど長くない道が始まるのです。

今回のポイント

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