パティパダー巻頭法話
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No.23 (1997年1月)
「愚か者」もいろいろ
A・スマナサーラ長老

 本来無知なる性格の人間が、人生を無知のままで終えてしまうようなことにならないためにはどうすればよいのかということを考察してみましょう。無知な人は結構頑固です。自分が物事を知っていると思っています。自分が持っている考え方と違った考え方を聞くと、それを頭から拒否します。そうすると性格は変ることはなくなります。これは正しいと断固として決めつけることなく、心の窓をいつでも開いておくならば、毎日智慧が成長していきます。無知な人は、新しい考え方をとり入れることを怖がります。自分の知識だけに満足し、安心して生きていたいのです。

そのように死ぬまで愚か者でいるのです。社会の様々な変化や新しいものをすぐ批判したり反対したがる人々も結構いますが、もしそれが変化についていけないことが原因であるならば、それも愚か者の頑固さだといえます。

「愚か者は、生涯賢者につかえても、真理を知ることがない、匙が汁の味を知ることができないように。※」(Dh.64)

 ただ安心して生きていきたいために、無知な人は自分の知識に満足しますが、無知を変えて賢者になりたい人は、心を柔軟にして真理を求めるべきです。そうであるならば確実に智慧の道を歩めるのです。そのような性格をもっている人こそが智慧のある人といえます。

「聡明な人はまたたきの間賢者につかえても、ただちに真理を知る。舌が汁の味をただちに知るように。※」(Dh.65)

 釈迦尊は「真理を知る」ということばで悟りの体験を意味しています。わずかな教えでもよく理解し実践すれば、智慧が現われて悟りを開けます。しかし特に仏教の場合は、いくら勉強しても人の知識は増えるかもしれませんが、性格が直ることもなく苦しみを乗り越えることもできません。

仏陀の教えを勉強はする人々でも、それを実践してみようというところにまでは気持ちが向かないケースも多いのです。

つまり、自分が今までもっていた既存の知識にあてはめて考えてみたり、似ているものだけ受け入れたりします。
それは一概に悪いとは言えませんが、その人は仏陀の教えから何も得られないともいえます。

知識人は、すぐ新しい概念などに飛び込んで信じようとはしません。今までの知識とよく比較し、いろんな角度からそれを調べたり考えたりします。関連ある他の知識もできるだけ集めて並べてみます。それは普通の方法ですが、結局は何も決められないことになってしまうという結果になることもあります。そういう人々にとって「実践」は対象外です。いくら知識人であろうとも、頭の中のあらゆる概念の森の中で迷っています。このような性格の人も、釈迦尊の立場から見れば愚か者です。真理を体験して幸福をつかまえることこそが大事なポイントです。

本来無知なのだから仕方がないではないか、と思うかもしれません。そこにも危険な落とし穴があります。

無知なる人には自分の生き方、自分の行動は、正しいかどうかわからないのです。人の行動は貪瞋痴(貪りと怒りと無知)に基づいていますから、一般的には人が正しいと考え行なっている行動のほとんどが不善な行動になってしまいます。不善な行動は不幸な結果を生みだします。悩むことなく困るべき問題もなく、ストレスもたまることなく幸福に生きていられるということは、事実上至難の業で、不可能なことになっています。それは、一切の行動にもとづく貪瞋痴の結果です。結局は、普通の人(無知な人)が自分のため、他人のためだと正直に思って行なっている行動は、反対の結果を生みだします。言い替えれば自分が自分の敵として行動することになります。もし我々が本当に自分のため、他人のために生きているならば何も問題は起らないはずです。実際には、私達はありとあらゆる悩み苦しみを作っているだけではないでしょうか。その上、周りの人々にも、社会のなかでもいろんな問題を作っているのです。その衝動は貪瞋痴ですから、やむをえない結果です。無知な人の行動は、自分自身を自分の敵に回していることになってしまいます。

「あさはかな愚人どもは、自己に対して仇に対するようにふるまう。悪い行ないをして、にがい木の実を結ぶ。※」(Dh.66)

自分と他人を守りながら、幸福になりたいと思うならば、本来の感情の衝動で行動を起すことをやめたほうが正しいと思います。行動を起す前に、その行動によってわずかでもあとで後悔することになると思うならば、そういう行動はすぐやめることです。結果も良くて後で思い出すときでも良かったと思える行動だけを確実に行なうことです。

「もしもある行為をした後に、それを後悔して顔に涙を流して泣きながら、その報いを受けるならば、その行為をしたことは善くない。※」(Dh.67)

「もしもある行為をした後に、それを後悔しないでうれしく喜んで、その報いを受けるならば、その行為をしたことは善い。※」(Dh.68)

 感情と無知から生まれた知識に基づいて人は生きていますから、悩み苦しみのない幸福な社会というのは、かつてもなかったし今もないし、これからも現われることはありません。人は、そのときそのとき楽しいことをしていると思って後のことをあまり気にせず行動します。それで自分の人生は幸福だと思っています。残念ながら、その生き方の結果は後になって現われます。ストレスや精神的身体的悩み、社会的な問題が現われてからではもうほとんど手遅れ状態です。ですから人の行動に関わる問題をよく理解しておきましょう。それは、行動を起すときはそれ自体がとても楽しいと、正しいと、やりやすいと、感じてしまうことです。あえていえば、悪いことはとてもやりやすく楽しいのです。自分と他人のためになることは、その場では楽しく面白く感じないのです。

今回のポイント

◎経典の言葉
Madhû va maññati bâlo − yâva pâpamna paccati,
Yadâ ca paccati pâpam −atha bâlo dukkham nigacchati.(Dh.-69)
愚かなものは悪いことを行なっても、その報いの現われない間はそれを蜜のように思いなす。
しかしその罪の報いの現われたときには、苦悩を受ける。(Dhammapada−69)
※中村元訳
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