パティパダー巻頭法話
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No.232 (2014年6月)
心を読む能力

 ~身体が心をあらわす~
 You can read the mind but not the thoughts
A・スマナサーラ長老     
◎今月の巻頭偈
Dhammapada Capter XXV. Bhikkhuvagga
ダンマパダ(法句経) 第25章 比丘の章

378.
   Santakāyo santavāco
   Santavā susamāhito
   Vantalokāmiso bhikkhu
   Upasantoti vuccati

378
   体はしづか 語【ご】もしづか
   心もしづか 定を得て
   世間の利得 捨てし比丘
   寂静者【ウパサンタ】とぞ 呼ばるなる

          ( 和訳 江原通子)

心を読む能力

 ひとが何を考えているのかと分かりますか? ひとの心を読めますか? 読心術に興味はありますか? それについて、今月は考えてみましょう。
 お釈迦様の六神通のなかで、三番目はcetopariya ñāṇa他心智通と言います。他人の心を読める能力、という意味です。人間にふつうに付く能力ではありません。冥想実践によって、五根に限られている認識次元を超えなくてはいけないのです。ふつうの能力を超えた力なので、神通と言うのです。
 世の中で、超能力があるのだ、神のメッセージを受信しているのだ、人の心を読めるのだ、人の過去と未来を透視することができるのだ、などなどと言って、元手なしで大々的に商売繁盛している人々もいます。お釈迦様の時代にも、そのような人々がいたのです。科学的に心の法則を語る仏教の立場から見ると、超能力商売は詐欺になります。ある日突然、なんの理由もなく、心に超越した能力が付くわけがないのです。正しい方法で努力して、心を育てるならば、話は別です。

幻覚をつくって認識と言う

 我々の脳は、眼耳鼻舌身から入る情報を捏造して現象をつくるのです。視覚・聴覚などは、ありのまま外の世界を見たわけでも聞いたわけでもないのです。自分の脳がつくった現象を認識しているのです。脳のなかに現象が現れたところで、認識というのです。認識をつくる時は、脳に入るデータよりも人の煩悩(感情)が大きな役割を果たします。欲が優先している時は、美しくないものも美しく見える。美味しくないものも美味しく感じる。怒りが優先になると、美しいものなのにそうではないと認識する。美味しいのに不味いと認識する。感情の種類はたくさんありますので、我々が物事をどのように認識するのかということは、私たちにもわからないのです。このプロセスを簡単な言葉に言い換えます。脳がつねに幻覚をつくっているのです。幻覚をつくりたいのです。幻覚に対して「私は知った」と言っているのです。
 ここまでは誰の脳のなかにも起こるプロセスなので、常識と言っても構わないのです。時々、脳細胞が暴走します。その時も、幻覚をつくります。しかしその場合は、常識ではありません。異常なので、治療できるか否か調べなくてはいけないのです。たまに自我を誇示したくて、他人より自分が優れていると見せたくて、意図的に嘘をつく人間もいるのです。簡単に儲けて贅沢したいと思っている人もいるのです。これらの人々も、自分に超能力があるのだとアピールするのです。ただの嘘つきで詐欺師です。常識が壊れたわけではないのです。というわけで、超能力があるのだと言っていることは、仏教心理学上、認めがたいものになるのです。

読心術は怖い

 ふつうの人々は、誰かに読心術があるのだと思ったならば、必ずそれは怖いと思うでしょう。その人に近寄らないほうがよいと思うでしょう。それは当然なことです。自分が何を考えているのかと他人に分かってしまったら、たまったものではありません。他人に知られては困ることもたくさん、我々は考えているのです。自分が考えたことを他人にも知ってほしいと思う時、私たちは話します。話した言葉から、自分が考えたことを理解してほしいのです。しかし話す前に、私たちの頭のなかでたくさんの思考が入り乱れて起こるのです。「はじめまして」と言う場合は、はじめて出会えて嬉しい、ということを言っているのです。しかし心のなかは、そうとも限らないのです。相手に対して何を考えたか、何を感じたかは、知られてほしくないのです。発言した言葉の意味だけで理解して欲しいのです。ですから、読心術は怖いのです。

読心術はあり得ない

 大丈夫です。怖がらなくても結構です。読心術は存在しないのです。ひとの考えをそのまま読み取ることは不可能です。私たちは瞬間も休むこと無く。あれやこれやと思考したり妄想したりしているのです。ひとつのテーマに定まった思考は、ほとんどしないのです。晩御飯の献立を考えている時、頭のなかでテレビドラマの事もテレビに出てくる料理研究者のことも考えているのです。その他も、様々なことを考えているのです。多層に妄想するから、思考自体は激しく縺れているのです。そんなのは他人に読めません。不可能です。読めると言っている人の心も、同じパターンで働いているのです。ひとの心なんか読める暇はまったくありません。たとえをだします。砂浜から両手で砂を掬いましょう。では自分の手のなかに砂粒は何粒ありますか? 二三秒以内で、私たちは思考・妄想する量も、両手で掬った砂くらいになります。すぐその数を言えるというのは、あり得ない話です。

他心智通はほんもの

 お釈迦様と大阿羅漢たちは、長い間、冥想実践をしたのです。思考も妄想も止めることに成功したのです。心が幻覚をつくる機能を破ったのです。それは一切の煩悩を無くしました、という言葉で表現しています。感情は一切無いのです。ですから認識データを捏造する必要が無くなったのです。ものごとを認識する色眼鏡が無くなったのです。それだけではありません。心がどれほど早く生滅変化しているのかと、分かっているのです。それから、自分の心が瞬間瞬間、変化してゆくプロセスを客観的に見て経験しているのです。これは「無常・苦・無我を発見した」という言葉で発表されています。これくらいの、ふつうの人間をはるかに超えた能力があるならば、その気になれば、他人の心の流れを見ておくことができます。
 能力があれば、それは簡単な作業です。思考の一切ない自分の心で、相手の心にコンタクトする。それでその心の流れが見えてくる。人が川岸に座って、何も考えないで川の流れを見て、観察しているような感じです。お釈迦様には瞬間にこれができるのです。阿羅漢たちは、サマーディに入って思考をストップしてから、見ることができるのです。いま説明したくらいの能力があるならば、「私は読心術を身につけている。私に人の心が読める」と言っても構わない。自我と欲に溺れている人々には、人の心どころではなく、他人の気持ちさえも理解することができません。

心は読める/思考は読めません

 念処経などでは、心を観察する方法が明確に説かれています。しかし、思考・妄想を観察する方法なんかは説かれていないのです。妄想ははじめから役に立たない嘘なので、カットするのです。
 まず、自分の心を観なくてはいけないのです。それも経典に説かれているとおりに行わなくてはいけないのです。身体の観察と感覚の観察ができるようになったら、心を観察することができます。飛び級はできません。その時、「私は何を考えているのか」とは観察しないのです。「これは欲の心。これは欲が消えた時の心。これは欲が現れそうな心。これは欲が増してゆく心。これは欲が減ってゆく心」のように観察するのです。怒り・嫉妬・憎しみなどのその他の感情が起きた時も、同じパターンで観てみるのです。さらに、「これは弱い心。これは強い心。これは狭い心。これは拡大した心。これは明るい心。これは柔軟な心。これは固い心」などなども適宜に観察するのです。集中力があがっていくと同時に、心を明確に発見していくのです。さまざまな感情に支配されて、心はどのように流れるものかと観えてくるのです。心の強弱も観えてくるものです。心の揺らぎも観えてくるのです。それで自分の心を観られる達人になります。
 他の生命の心も同じパターンで動くものだと発見したほうが、心の法則は分かったことになります。ですから、この達人は、他人の心の流れも観ることにします。最初はうまくいかないかも知れませんが、徐々に人の心の波を観察できるようになります。自分の心を観る時でも、思考をカットしたのです。思考を観なかったのです。他人の心を観る時でも他人の思考を観ないのです。心の流れを観るのです。現実的にできるのは、これだけです。

思考を読めるというのは嘘

 思考は読めません。思考はその個人固有のものです。普遍性がまったくありません。では日本人であるあなたに、アラビア人の思考を読めますか? 読めると言うならば、アラビア語を知っているはずです。たとえ標準アラビア語を学んだことがあっても、ネイティヴ・スピーカーたちは標準語で思考・妄想しないのです。自分固有のアラビア語なのです。英語のネイティヴ・スピーカーの場合も同じことです。アラビア人どころではありません。自分が赤ちゃんの時から大事に育てた、我が子の思考は読めますか? 読めないでしょう。ではいま自分が何を考えているのかと、読み取ってみてください。考えたことが消えてしまって、別な考えに変わってしまうのです。要するに自分自身の思考さえも読めないのです。文化・経験・感情・環境・言語・生活習慣・性格などによって変わる思考は、個人固有のものです。読めるためには、何かの一貫性が必要です。何かの共通性が必要です。それはまったくありません。お箸で水を飲むようなことになります。

気持ち(感情)は読めます

 あの人は怒っている。あの人は悩んでいる。あの人は落ち込んでいる。あの人は興奮している。あの人は嫌がっている。あの人には落ち着きがない。これは当たりですね。あなたは他心智通もないのに、人の気持ちを見事に読んでいるのです。しかしあなたの読みは、100%の確率で正解とは言えません。誤解する可能性はいくらでもあります。それでも、人の気持ちはそうとう読んでいるのです。その能力がないと社会生活はできません。読み違いがある時は、社会生活にトラブルが起きます。

正確に読む方法

 正確に読む必要があるとは思えません。確実性が高ければ充分です。「あの人は怒っている」と簡単に言いますが、なんでそのように言えたのかと、調べたことは無いでしょう。それが問題です。なんとなく読めるのではなく、理論的に科学的にその仕組みを知ったほうが、確実性がグーンとあがるのです。
 やりかたは至って簡単です。まず思考・妄想を抑えて、自分の心を観てください。念処経はそれを説かれています。自分の心の流れが手に取るように分かってくると、それを基準にして、他人の心を観るのです。自分の怒った心をよく知っている人は、他人が怒っている時、それは正確に読めるのです。他の感情の場合も同じことです。
 この方法はお釈迦様が推薦する科学的で正しい方法です。また必要なのです。ひとの気持ちさえ分からないようでは、生きていけません。詐欺師は人の気持ちを踏みにじって金儲けだけするのです。それは罪です。ひとの気持ちが分かる人は、人を傷つけません。それは善行為です。

誰の心も読めますか?

 諦めてください。これは正覚者しかできないのです。理由があります。実践方法で、まず自分の心を観るでしょう。欲・怒り・嫉妬なども観察するでしょう。一人の人間の心に、千五百のすべての煩悩は現れないのです。それはその時その時の条件によります。自分の性格にもよります。性格的に優しい人がいるとしましょう。自然に他人を助けてあげる。喜ばせてあげる。他人を認めてあげる。それはその人の性格です。そうなると、人のことを嫉妬しないのです。嫉妬が起こる可能性は持っているが、性格的に現れないのです。その人が冥想実践して、自分の心を観察する。自分の心に現れる煩悩を観察する。しかし嫉妬を観察するチャンスが無いのです。ですから嫉妬とはどんな気持ちなのかと、経験的に分からないのです。ですから、「あの人は少々暗い」と読めるかもしれませんが、「あのひとの心に嫉妬があるみたい」とは読めないのです。
 私たちは、自分の気持ちを理解して、相手の心に合わせて、シミュレーションしてみるのです。それは他人の気持ちの読み方です。自分に経験ないものはシミュレーションできません。ですから一般の方々に、覚りに達した人々の心はまったく読めません。一般の方々に、冷血な犯罪者の気持ちも読めません。以上、お釈迦様が推薦する他人の心を読む術の解説でした。

ボディ・ランゲージ

 これもいたって簡単です。心がなければ、身体とはただの物体です。微塵も動きません。我々の身体は瞬間も止まること無く動いているのです。無停止で物質を動かす力は、心です。ですから、人が小指を動かしたとしましょう。その人の心がその小指を動かしたのです。身体の動きは三種類です。1.意図的に歩いたり座ったり食べたり書いたりすること。2.しゃべる時に手を動かす。貧乏揺すりをする。その他のしぐさがたくさんあります。それは自動的に起こるので、本人が気づいてないのです。やめようという意志があれば、やめることもできます。でも難しいと思います。例えばしゃべる時、激しく手を動かす人がいるとしましょう。その人に、「手を動かさないで落ち着いて喋りなさい」と命令します。本人は頑張りますが、話はうまく進まなくなります。3.心臓・呼吸・血液の流れ・脳の働き・細胞の動きなど、自分にはまったくコントロールできない動き。
 これら三種類の動きも、心がおこなっているのです。論理的には身体の動きを見れば心が読めるはずです。しかしこれは理論だけです。修行すればできるようになります。人間はいろいろなものを調べるのです。ひとの身体の動きを調べて、相手がどんな気持ちでいるのかと調べるのです。その結果現れたのは、ボディ・ランゲージということです。これはけっこう合っていると思います。心臓の鼓動や脈の動きで、人の心を読むこともできます。その場合は、少々深いところを読めるのです。

落ち着き

 すべての生命の心は、千五百の煩悩によって活動しているのです。煩悩がある限り、落ち着きは存在しないのです。心はつねに揺らいでいるのです。煩悩の働きには、個人差があります。ですから心の揺らぎにも、個人差があります。動物を観察すると、いつも激しく動いていることが見えます。落ち着きがないのです。いつ観てもなんの動きもなく、止まっている亀・ワニなどの動物も見えます。これは落ち着いているのではないのです。心が無知に支配されて、睡眠状態になっているのです。機能低下状態になっているのです。身体を動かす力さえ無い状態なのです。しかしその気になったら、ワニも亀も人間には叶わない早さで動くのです。
 もし人の心の煩悩が減ってゆくと、どうなるでしょうか? 心の揺らぎが減るのです。同時に、身体に起こるわけもわからない動き、役に立たない動きも、減ってゆくのです。煩悩が減ったとは、落ち着きが現れたということです。もし心から煩悩が完全に消えたとしましょう。心が完全な落ち着きに達するのです。心の揺らぎが完全に消えるのです。ということは、身体の無駄な動きも一切なくなるのです。心臓さえも一定のリズムで鼓動するのです。脈も暴れたりしません。呼吸も乱れたりはしません。このような人をみつけたら、誰だって「こんな人間もいるのか」と、びっくりすることでしょう。
お釈迦様は完全に解脱に達した聖者のことをボディ・ランゲージで語られたことがあるのです。身体が落ち着いている。(身体が完全に落ち着いて動いていること。)言葉が落ち着いている。(言葉にも感情的な揺らぎはありません。)思考も落ち着いています。(無駄な妄想は一切無い状態。)心が安定している。この世に対する執着を一切捨てている。このような人こそ、本物の落ち着いた人(寂静者)と言うのです。解脱に達した人のしぐさを見て、一般の方々もある程度で何かを感じるのです。身体を見ると、奇跡的に落ち着いているのです。それは心が安穏状態に達しているという証拠です。
「落ち着け、落ち着け」と皆に言われています。しかし落ち着くことは一般の方々に無理な話です。解脱に達するまで、心は落ち着きません。

今回のポイント

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