パティパダー巻頭法話
Sabbe satta bhavantu sukhitatta
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No.233 (2014年7月)
修行とは自分に出会うこと

 ~社会は自分を育てません~
 Meet yourself
A・スマナサーラ長老     
◎今月の巻頭偈
Dhammapada Capter XXV. Bhikkhuvagga
ダンマパダ(法句経) 第25章 比丘の章

379.
   Attanā codayattānam
   Patimamsetha attanā
   So attagutto satimā
   Sukham bhikkhu vihāhisi
379
   自(みづ から)己を点検し
   自から己を省りみよ
   それにて自己が守られて
   念(サティ)ある者の幸せに
   比丘よ そなたは 住むならん
380.
   Attā hi attano nātho
   (Ko hi nātho paro siyā)※
   Attā hi attano gati
   Tasmā samyamamattānam
   Assam bhadramva vānijo
380
   己こそ 己の主(あるじ)
   (如何にして他が己の主とならん)※
   己こそ 己の寄辺(よるべ)
   それ故 自心(じしん)を 自制せよ
   商人 賢馬を馴らすごと
                      ※ミャンマー版のみ
          ( 和訳 江原通子)

農夫の物語

ボロ服を身にまとい、一本の鋤 すきを担いで、あちこちで他人の田んぼを耕して日払い労賃を貰って生計を立てている極貧の農夫がいました。その人の財産といえば、一張羅のボロ服と使い古しの鋤だけでした。村へ托鉢に出たある比丘が、この農夫のみじめな姿を見ました。「君、みじめに生きているより、出家して修行に励んではいかがでしょうか?」農夫は「先生、私のような身分の者に出家を認める人はいません」と答えたのです。比丘が「私があなたの師匠になります」と言ったので、農夫は出家することにしました。比丘は農夫を祇園精舎まで連れて行って、自らの手で身体を洗ってきれいにしてあげました。そして戒壇堂で比丘戒を授けました。それまで着ていたボロ服と鋤は、傍らの樹にかけておいたのです。それからの生活は楽でした。一日中働きづめでクタクタになる人生から解放されたのに、時間が経つと出家生活が退屈になりました。そんな時、彼は一直線にボロ服と鋤がかかっている樹のところに行って、このように自分を叱りました。「お前は仏教徒たちが心を込めて差し上げる布施を食べて、修行することに飽きたのか。またこのボロ服を着て、鋤を持って、みじめに生きたいのか」このように観察すると、また修行する意欲が起きたのです。しかしその樹のところに行く回数は、けっこう多かったのです。周りの若い比丘たちが、「あなたはすごい勢いでどこへ行くのか?」と尋ねました。「私は指導者のところに行きます」と、この比丘は答えました。やがて修行が実って、彼は阿羅漢果に達しました。煩悩は根絶したので、あの樹を訪ねることも無くなったのです。

若い比丘たちは、「あなたは最近、指導者を訪ねませんね」とからかいました。その時、この比丘は、「そうですね。その時は執着がありましたから、どうしようもなかったのです」と答えたのです。「この比丘は間接的に、阿羅漢に達したと言っているのだ」と思った若い比丘たちが、釈尊にその旨を報告しました。釈尊は、元農夫の比丘が阿羅漢になったことを発表しました。「この比丘は自分で自分を戒めて解脱に達したのだ」と説かれたのです。

過去に対する未練

 なんのオチもないエピソードのように見えますが、人間の心の揺らぎを見事に表現した 物語です。ひとが貧困から脱出して豊かになったら、幸福三昧というわけでもないのです。金が無かった時は夫婦の仲が良かった、家族みんな互いに心配していました、などなどと思うケースは普通にあります。重労働にもそれなりの楽しみがあります。重労働している時は、苦しみしか見えません。しかし、楽をするようになったら、「労働していた時もけっこう楽しかった」と思うようになります。過去のことを思い浮かべて「昔はよかった」と悩むのは、人間にとって習慣になっています。それはいまの人生に不満を感じているからです。昔はよかったと思っても、昔は決してよみがえることはありません。いまの人生に不満を感じる癖がついたら、死ぬまで「昔はよかった」と悩みながら生きるはめになります。

中毒になる楽しみ

 では、「いまは楽しい。最高です」と思って生きることは正しいのでしょうか?
 ものごとをありのままに理解する能力が無い一般の方々には、このような態度も危険なのです。いまの状況に執着してしまうのです。依存してしまうのです。先が見えなくなるのです。
やり過ぎになるのです。飲み会に行ったら飲み過ぎ、食事に行ったら食べ過ぎ、皆と楽しく会話するならば喋り過ぎ、仕事になったらやり過ぎ、ということになるのです。正しいのは、冷静に生きることです。TPOに応じて、遊んだり、仕事したり、他人との関係を築いたりするのですが、やり過ぎにならないようにと、冷静さを保つべきです。

人生の選択肢

では、エピソードの次のポイントに進みましょう。元農夫の比丘はたびたび、自分を躾けるため、ボロ服と鋤がかかる樹のところに行きました。自分の目の前で、生きる道が二つ現れます。出家として修行する道と、仕事をして生計を立てる道です。出家に決めたら、信者さんの施しで生きているので、真剣真面目に修行する義務があります。在家になると決めたら、修行する義務はありません。しかし、重労働して苦しい生活を送らなくてはなりません。樹の下で、この二つの生きる道について、考察したのです。それで「出家として頑張ります」と決めます。しかし、また時間が経つと、悩みが起きます。再び、樹の下に行きます。考察します。悩みながらも真面目に修行したので、解脱に達します。この比丘は、自分が決めた生きかたで大成功をおさめるのです。われわれ一般人にも、どちらにすればよいか分からなくなることが、よくあります。いくつかの選択肢があって、どちらが良いのかと判断できず、悩むことになります。この場合、判断することが少々、難しいのです。エピソードにでてきた比丘には、判断は簡単でした。修行して心を清らかにするか、修行をやめて惨めな生き方をするか、という二つでした。俗世間に現れる選択肢の場合、道はそれほど明確ではありません。どちらを選んでも大したことはありません、という選択肢ばかりです。そうであるならば、何か一つを選んで、その道を極めて成功を収めればよいでしょう。選んだ道を極める、という戒めです。

社会は無関心

この比丘の生き方を見て、お釈迦様が示すポイントはとても重要です。それは「自分で自分を戒める」という道です。在家であれ出家であれ、正しい生き方は自分で自分を戒める生き方です。無知な人間は、他人に言われるまで自分の過ちに気づかないのです。他人が指摘しない限り、自分の生き方は正しい、問題ない、という態度を取ります。これは間違った態度です。「私を善い人間に育てあげる義務が社会(他人)にあります。私の責任ではありません」という態度です。社会といっても、個人の集まりです。個人が、「自分を育てる義務は他人にある」と思っているならば、個人の集まりである社会は、他人の躾に対して完全に無関心になるのです。それが現実です。私たちがどのような生き方をしても、社会は無関心です。しかし自分の生き方が社会に対して迷惑であるならば、社会が自分を裁くのです。育ててあげません。社会とは、自分を判断し、裁き、批判する組織です。それも、いい加減に、好き勝手にやっているのです。このような社会に身を任せてよいのでしょうか?

みな洗脳されている

この問題は、残念ながらすべての人間にあります。これは一種の洗脳です。人間の幼少期は、他のすべての生きものより長いのです。現代は十八年間も親の保護下に生きていなくてはいけないのです。十八年間、他人任せの人生です。親という存在は、子供のためならなんでもやる生きものです。子供を守るのです。間違いを犯しても、弁護するのです。
親にとって、我が子は世界一かわいいのです。このような本能で育てられる人間の脳は、自然に洗脳されてしまいます。子供の時は、親が守っているから、気楽にわがまま好き勝手に生きていたのです。自己責任という言葉の意味は分からないのです。子供が走ってこけたら、他人が悪いことをしたような感じで子供は号泣します。無知な親が走ってきて、「ごめんごめん」と言って慰めてあげる。これが間違いのスタートです。「走ったらこけますよ。こけたら痛くなりますよ。そのうち痛みがきえますよ」と教えてあげないのです。

要するに、自己責任という能力を育ててあげないのです。それで「自分に対する責任は他人にある」という誤った概念で、洗脳されます。

洗脳の代表者

この洗脳の恐ろしさを示す、代表的な症例は「全知全能の神」という概念です。神が存在するという証拠は微塵もありません。昔から今まで、人間はあらゆる工夫をして神の存在を証明しようと努力しています。いまだに成功していないのです。しかしこの概念を捨てたくはないのです。私たちの人生に対して完全に責任を持っている存在がある、という洗脳からは抜けていないのです。親と親戚以外の社会は自分のことをそれほど心配していない、というところまでは分かっている。それなら、自分の命に対して完全に責任を持っている、完全に心配してくれる存在が、人間とは別にいるはずだ。この妄想概念を「全知全能の神」と呼ぶのです。

自己観察

マインドコントロールと違って、洗脳はとてもたちが悪いのです。洗脳されていると本人は気づかないのです。洗脳を破る方法は、「自己観察」です。客観的に自分を観ることです。これには勇気が必要です。自己観察を始めたら発見する自分は、どうしようもない、だらしない、優柔不断の自分です。汚れた思考で支配されている自分です。ですから、自己観察とは勇気がいる作業です。汚れた自分を発見するたびに、「これを無くすように気をつけなくては」という気持ちが働きます。ですから、解脱に達するまで、徐々に人格向上をして進むのです。

自分の主は自分

洗脳を破り、人格を完成させて、苦しみを乗り越えるためには、自己観察以外の方法は存在しません。これはお釈迦様の説かれる「気づきの実践」でもあります。洗脳されたままで、他人に身を任せて生きることはみじめです。まったく自由を感じられない生き方になります。他人が自分を叱ることは、期待しないほうがよいのです。自分が自分を叱るのです。自分が自分を監視してみるのです。それに「気づき」と言います。気づきがあれば、自分を守っていることになります。このような修行をする比丘が、楽に生きるのです。というわけで、自分の主は自分です。(ダンマパダのミャンマー版では、この意味を強調するために「どうして他人が自分の主になるでしょうか」というフレーズも入れてあります。)自分がどのようになるのか、ということは、自分次第です。自分を幸福にさせること、成功させること、死後天界に行かせること、死後地獄に陥れることなどは、他人にできません。すべて自分の生き方次第です。自己責任です。ですから、すべての人間の義務は、自分を戒めることです。自分を制御することです。自分を育てあげることです。「馬の商人が馬を育てるように」という喩えが出されています。生まれてからなんの調教もなく成長した暴れ馬は、高値で売れません。もしかすると全然売れないかもしれません。馬を見事に調教しておけば、高値で売れます。馬の値段は調教によります。そのように、人間の価値は自分で自分を戒めることによります。

今回のポイント

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