パティパダー巻頭法話
Sabbe satta bhavantu sukhitatta
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No.237 (2014年11月)
執着を落とす方法

 ~科学的なアプローチで心を育てる~
 Concentration and wisdom are compulsory
A・スマナサーラ長老     
◎今月の巻頭偈
Dhammapada Capter ⅩⅩⅥ Brāhmazavagga
ダンマパダ(法句経) 第26章 婆羅門の章

384.
   Yadâ dvayesu dhammesu
   Pâragû hoti brâhmano  
   Athassa sabbe samyogâ
   Attham gacchanti jânato
384
   止観二法で彼の岸の
   極みに至りし バラモンぞ
   これなる智者に一切の
   結縛( けばく) は消えて義に至る
          ( 和訳 江原通子)

出家を心配して

 地方から三十人ほどの比丘たちが祇園精舎に来て、釈尊に礼拝して座りました。そこに居たサーリプッタ尊者が、この比丘たちを解脱へ導かなくてはいけないと思い、釈尊に質問をしました。「世尊、二つの法があると説かれています。その二つの法とは何でしょうか?」まず、この質問の意味を考えてみましょう。二つの法とは何でしょうか、と訊かれても、答えづらいのです。二つに分けて説かれた法は、たくさんあります。この場合は、出家した比丘に対して、絶対的に必要な二つの法なのです。出家する比丘たちの唯一の目的は、解脱に達することです。その目的を実現するために欠かせない二つの法は何でしょうか、という質問です。

 お釈迦様が答えます。「二つの法とは、サマタとヴィパッサナーです。」それから比丘たちに、釈尊が詳しく説法なさったことでしょう。なぜならば、説法が終了すると、みな解脱に達したからです。これから、この二つの用語について、ある程度は理解できるように努力しましょう。

知ってるつもりは危険

 サマタとヴィパッサナーという二つの語は、皆様にも馴染みのある言葉です。仏教用語を聞き慣れることは、実を言うと危ういのです。「知っている」という錯覚に陥るからです。人間は何でも、頭で、知識で、理解しておきたいと思っているのです。理解できたら、よく分かったつもりになるのです。何かを分かったからと言って、人格が改良するわけではありません。私たちも日々、「分かってますよ、分かってますよ」と言うケースがた くさんあります。なぜ、そのように返事するはめになるのでしょうか? それは、分かっ てはいるが、やってはいないからです。本人は、やるつもりでいるだけです。実行は後回しにしているのです。待っているだけで、実行には移しません。この現象は、仏教を学ぶ時も普通に起きます。四聖諦、八正道、十二因縁、無常・苦・無我という三相、五戒・八戒・十戒、冥想実践などなどを分かっているのです。それだけです。実践してみることは後回しになります。

 今回は、サマタとヴィパッサナーは解脱に対してどのような働きをするのか、と理解しておきましょう。仏教の場合は、儀式・儀礼を行なうことで、法要をすることで、祈りで、苦行で、解脱に達することはできないのです。戒律を正しく守ることだけでも、解脱に達することはできません。これらの行為では、日常的な生き方がいくらかまともになるかも知れませんが、人格改良には一時的な影響しかないのです。それで、サマタとヴィパッサナーの二つの法が入ってくるのです。サマタとヴィパッサナーは、修行者を解脱へ導くのです。

サマタ冥想とヨーガの違い

 サマタとは集中力を育てる冥想実践のことです。サマタ冥想は仏教以外の宗教にもあるのです。釈尊オリジナルの冥想とは言えません。各宗教によって、サマタの手法は変わります。各宗教が自分たちの教理学に合わせて、目的を決めているのです。その目的を目指して、サマタ冥想をするのです。ここで注意していただきたいことは、サマタという言葉が釈尊オリジナルの単語であることです。他宗教では、この用語は使いません。他宗教においては、冥想が修行そのものです。サマタという形容詞をつけることで、冥想の一部になるのです。自分たちの修行そのものについて、お釈迦様から「修行の一部である」と説かれることは、他宗教者にとって決して面白い話ではないのです。ですからサマタという用語は、仏典にしか出てきません。現代では、ヒンドゥー教の冥想修行はヨーガという名前で知られています。

 サマタ(ヨーガ)とは、心の集中力を育てる方法です。「集中力が最高位に達したら、真理の発見ができるのだ」と、仏教もヒンドゥー教の諸宗派も言っているのです。しかし問題は、「その真理とはなんぞや?」ということです。ヒンドゥー教が説く真理は、仏教用語で言えば「我論」です。
真理とは、魂(アートマン, ātman )だけが実在するもので他 の森羅万象は幻像である、ということです。それで、個には個我があります。絶対的な真理として、真我があります。自分が個人であると思うことは、幻覚です。「自分の我も、真我も、二つではなく一つである」と発見することが、ヨーガの目的です。
不二論、一即一切、梵我一如、tat tvam asiなどなどの有名なフレーズで、知られているものです。

 仏教から観れば、このような修行には欠陥があります。最初から、「魂(アートマン, ātman )が実在する」と頭にインプットして修行に励むので、心に先入観を刻みこむこと になります。先入観でものごとを見ると、認識するものはすべて先入観に合わせてしまうのです。我々の脳は常に幻覚を作って認識にしているので、先入観に合わせて「魂は実在する」と幻覚を作ることは、いたって簡単なのです。これはヨーガの致命的な欠陥です。

先入観を捨ててサマタを実践する

 お釈迦様は、ありのまま事実を発見したければ、如何なる先入観もバイアスも障害になるのだ、というスタンスです。ですから、修行者が「魂がある」という前提で実践すると、道を外れます。「魂はあるのか?」という、理性に基づいた疑で修行をはじめるのはかまわない。しかし仏教では、そのような仮説さえも立てないで、修行に挑むのです。

 ではなぜお釈迦様が、ご自分で間違っていると思っている修行を仏道の一部に入れたのでしょうか?

 それは、心の成長を心理学的に観ていたからです。呼吸冥想、何かを念じ続ける冥想などで、心に集中力が現れるのです。大事なのは、その集中力です。宗教的な観念ではありません。心の働きは、人間みなに同じです。観念や考えはそれぞれ違います。集中力だけは、全ての人間にとても必要な能力です。集中力を育ててもらう必要があるから、お釈迦様は他宗教でも実践している修行方法を科学的に改良して、仏道に取り入れたのです。

集中力の働き

 次に、集中力とはどのような働きかと理解しましょう。脳の機能から説明したほうが分かりやすいと思います。生きる場合は、脳から来る電気信号が欠かせないのです。しかし脳は、全体的に満遍なく電気信号を送っているわけではありません。体の各部位に合わせて、電気信号を送るのです。脳の中は、分業体制なのです。見る、聴く、話す、考える、判断する、記憶する、感情を引き起こす、体の各部位を動かす、などの仕事は分業体制です。これは固定的な分業体制ではないが、脳の見るモジュールを使って聴くことか話すことをしようとすると、相当難しいのです。論理的に可能であるだけです。病気などで脳の何処かのモジュールが壊れたら、訓練することによって、脳で使っていない脳細胞に配線を作ることができるのです。

脳とは肉体なので、仏教は脳の機能に基づいて教えを語ることはしません。仏教的に言えば、「心という働き」が無ければ、脳にも仕事はできません。分業体制に合わせて心が働いているので、生きるという作業は上手くいったり、上手くいかなかったり、失敗したりするのです。心は慌てて忙しく活動しなくてはいけないのです。光よりも早く動くことができるので、誰も不自由は感じません。しかし、慌てて瞬間たりとも休むことなく働くので、心は弱いのです。心が弱くなると、脳内機能も低下します。脳の機能が低下すると、体にも厳しい影響を与えます。心が明るくて活発に動くほうがよいのです。そうすれば脳も活発になり、体も柔軟に動かせるようになるのです。集中力とは、心の機能を強化する方法です。

ひとは万能になりません

 人間とは何でもできる万能の存在ではない。それは誰でも知っている。何か上手にできるようになると、何かができないようになるのです。プロというのは、何か一つのことを見事にこなせる能力を持っているという意味でしょう。少数ですが、いくつかの能力をプロのレベルで持っている人もいます。そういうケースでも、よく調べると何かパターンがあるのです。サッカーのプロ選手に、言語を二つ三つくらい達者になることは可能です。

しかし、このサッカー選手が、優秀な心臓外科医になるのは無理でしょう。プロは脳の一部のモジュールを成長させるので、そちらにたくさん脳細胞をつなぐのです。心に集中力を与える場合は、似たようなことになります。修行の場合は、俗世間的な活動やそれに対する意欲を抑えるのです、その代わりに、冥想指導者から与えられた冥想対象に集中するのです。成功すると、俗世間に対する未練は薄くなります。脳細胞の数は無数にあるわけではないので、節約しなくてはいけないのです。ですから何かができるようになると、何かができないようになるのです。

サマーディに五欲は邪魔

 ひとは五欲を満たすために生きています。しかし、決して満たせるものではないので、それに精一杯なのです。超越した能力を育てることはできません。仏教は五欲に依存するのを戒めることと、戒律を守ることを推薦します。それで、脳の各モジュールが楽になります。慌てなくてもよい状態になります。それから何かの対象を選んで、その対象に集中する訓練をはじめるのです。集中する対象は四十種類です。他宗教で言っているように、阿弥陀様や観音様、マリア様の名を念じるような、妄想から作り出した概念は使えません。呼吸に集中する、肉体は不浄であることに集中する、ブッダの九徳の一つに集中する、慈悲喜捨を実践する、無常・苦・無我を観察する、などの対象を仏教では推薦しているのです。脳の機能が壊れないように、とても気をつけているのです。幻覚を引き起こさないように、気をつけているのです。

 集中力を育てると、サマーディという統一状態が現れます。分業体制で働く脳に、ふつうはその経験はないのです。ひとつの仕事だけ徹底的にやらせて、それが上手くいくように脳の体制を整えたら、サマーディなのです。脳は淡々と楽々に活動するので、喜悦感が生まれます。感情が引き起こす五欲の機能は、休止します。サマーディにもランクがあります。高いレベルのサマーディのランクでは、喜悦感の代わりに、苦も楽もない冷静な状態(捨)が起きます。心が努力して集中力を育てたので、脳も整理整頓されます。両方とも活発に働けるようになります。五欲を追う俗世間の生き方とは比較にならないほど、喜びと幸福を感じるのです。ここまではサマーディ(サマタ)の世界です。

 他宗教の教えはこの冥想で終了します。しかし心理学的に判断して実践しないので、ほとんどの修行者は、サマーディが現れる以前に先入観に合わせた幻覚を作って「修行が完成した」という思い込みに陥ります。お釈迦様が説かれる冥想方法なら、サマーディに達することは難しくないのです。信仰を捨てて、理性に基づいて客観的なアプローチで冥想しなくてはいけないのです。

サマタを卒業して観察に入る

 お釈迦様は、さらに進みます。サマーディ状態も壊れるものです。集中力を緩めたら、五欲を追う脳のモジュールが活動を始めます。サマーディ状態が壊れます。はじめからやりなおし、ということになります。サマーディ(サマタ)冥想より高いレベルの冥想は、ヴィパッサナーと言うのです。ヴィパッサナーとは、観察することです。「生きるとは何か?」と観察するのです。世界は生きることに対して主観的な感想ばかり語っているのです。神が人間を創造した、人間の永遠不滅の魂があるのだ、死後永遠の天国に行くのだ、などなどです。他宗教で語られている教えは一つも、正しいか否かを試したことがないのです。だから、言われるとおり信じるはめになります。そこで仏教は、先入観を一切措いておいて、「生きるとは何か?」と客観的に観察するのです。

 大雑把に言えば、呼吸したり、歩いたり、座ったり、見たり、聴いたり、話したり、考えたりすることが、生きることです。それ以外、何も不思議なことをやってないのです。

それをそのまま観察すると、見たい、聴きたい、食べたい、などの衝動を発見します。この衝動は、体の感覚によって現れるのだとも発見します。要するに、感覚があるから生きているのだと発見します。生きていきたいという気持ちも、死後永遠になりたいという気持ちも、感覚から現れるもう一つの衝動にすぎないのです。感覚は無常で、苦で、虚しいものです。このように客観的に事実を発見していくのです。もし集中力さえあれば、精密に観察することができるのです。そうなると、すべては無常で瞬間瞬間変化しているのだと発見します。「生きる」と一般人が大雑把に、大げさに言うことは、なんのことない、ただの幻覚に過ぎないのだと発見します。瞬間瞬間の無常を発見すると、生きるという幻覚が破れる。同時に、生きることに対する執着も無くなる。それが、苦しみを乗り越えたことだと言うのです。なぜならば、観察冥想をする人は、「生きることは苦以外のなんでもない」と客観的に発見しているのです。

サマーディは消えても智慧は消えません

 発見したものが再び分からなくなった、ということはあり得ません。人間は体に酸素を取り入れているのだと、科学者が発見しました。それを人間が忘れてしまって、再び発見するはめになった、ということはあり得ません。サマーディ状態とは、優れたとても気持ちのいい安楽な状態です。しかし、それは消えます。真理を発見した智慧は、消えないのです。ヴィパッサナー冥想(観察実践)のポイントは、無常・苦・無我のいずれかを発見することによって、心に無明によって現れる、「生きていきたい、死にたくはない、永遠になりたい、絶対的な神に縋りたい」などなどの煩悩(執着)が、心から落ちてしまうことです。そこで、生きものとしてやるべきことは一切、やり終えたことになるのです。

修行は観察冥想からはじめられる

 ここでサマーディとヴィパッサナーのことを別々に説明しましたが、修行はヴィパッサ ナー冥想からはじめたほうが結果は早いのです。ヴィパッサナー冥想を実践すると、必要な集中力も同時に現れてきます。修行者は、集中力と観察能力のバランスだけ気にすればよいのです。サマタ冥想のみを先に実践すると、サマーディに達するまで、けっこう時間がかかります。ひとによって、高度なサマーディが生まれない場合もあります。ヴィパッサナー冥想から修行を始めると、この問題は起きません。必要なサマーディの力が現れます。解脱に達するためには、サマタから得られる心の力と、ヴィパッサナーから得られる智慧が欠かせないのです。集中力だけでは解脱に達しません。智慧だけがあっても執着は落ちません。両方が必要なのです。

お釈迦様の説法の結論は、法句経の三八四偈にまとめられています。「二つの法(サマタとヴィパッサナー)を極める修行者は、一切の執着を消して意義のある境地(解脱)に達します。」

今回のポイント

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