パティパダー巻頭法話
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No.238 (2014年12月)
彼岸此岸の物語と事実

 ~両岸を知って執着を捨てる~
 Strayed in this world and the other world
A・スマナサーラ長老     
◎今月の巻頭偈
Dhammapada Capter ⅩⅩⅥ Brāhmazavagga
ダンマパダ(法句経) 第26章 婆羅門の章

385.
   Yassa pāram apāram vā
   Pārāpāram na vijjati
   Vîtaddaram visamyuttam
   Tamaham brûmi brāhmanam

385
   彼の岸も此の岸も
   また彼此(ひし)両岸も非存在
   惱みを離れ縛(ばく)を解く
   そをバラモンと我は説く
          ( 和訳 江原通子)

   彼岸も此岸も見られない 彼岸此岸も見られない 恐れも離れて、束縛もない
    かれを私はバラモンと呼ぶ
          ( 和訳 片山一良)     ※『ダンマパダ全詩解説』大蔵出版より

先人への尊敬は信頼される人の条件

 日本全国でお彼岸の行事が終わりました。日本の各お寺で彼岸法要が厳粛に執り行われます。一般の方々も、しぶしぶ参加します。ということは、ハロウィン、バレンタインデー、クリスマスなどの行事ほど、興味を持たれていないのです。しかし、お彼岸の祭りはハロウィンのような原始的なものではありません。高度な文化に基づいた、歴史の古い伝統行事なのです。彼岸法要は先祖供養でもあります。お盆も先祖供養のお祭りです。人々が自分の文化を大事にすることも、次の世代に伝えることも、とても大切な役目です。

 それでは、彼岸行事に関わる意味から今月の話に進みたいと思います。彼岸とは「あの世」という意味なのです。この世を去ってあの世へ逝った親族が、彼岸の時期、この世に戻るのです。それでお祭をしたり、供養したり、法要を行なったりして、先祖に対する感謝の気持ちを表したり、先祖がより幸福にいられますようにと祈願したりするのです。先祖に対して感謝の念を抱くことは大切です。自分がまともな人間であることを示す行為です。先祖や親に感謝の念を抱かない人々は、あまり信頼できる人間だと思えないのです。
私たちがそのような人々を助けてあげても、逆に裏切られる可能性もあるのです。ですから、先祖供養は「私たちは信頼できる立派な社会人である」ということを表わすのです。

事実よりも迷信

 人間とは面白いものです。事実と論理的な話は嫌がるのです。神話や迷信などの話が好きなのです。どうしてもやらなくてはいけない事があったら、それを何かの神話に仕立てなくてはいけなくなるのです。また、何かの迷信に関連付けておかなくはいけないのです。事実は否定するが、神話や迷信などは否定しないのです。先祖に感謝の念を抱いて大事に思わないようでは、まともな一人前の人間になれません。我々のいまの知識や経験などは、一日にして得られたものではないのです。昔の人々が、自分たちの知識・能力・経験などを次の世代に伝えるのです。それがあってこそ、いまという時代があるのです。学校でおこなう四十五分の科学の授業で、昔の人々が一生苦労しながら発見して何百年もかけて積み上げた知識を軽々と学ぶのです。先人の苦労を大事に考える人は、怠けないのです。自分も苦労して、新しい知識を発見するのです。しかし、先祖や先人を大事にしなさいと言われると、嫌な顔をするのです。このアドバイスを何かの神話物語に載せて語らないといけないのです。それで先祖供養の場合は、あの世の話(彼岸)を作ったのです。盆の場合は、先祖が自分の家を訪ねるというストーリーです。これは信じがたい話なので、皆その話に乗るのです。彼岸法要もお盆祭りも真剣におこなうのです。

あの世物語の起源と発展

 先祖供養は仏教行事なので、なんの根拠もない嘘の物語を作るわけにはいきません。お釈迦様が現れる以前から、インド文化では「この世を去る人々は、あの世に逝きます」という言葉を使っていたのです。人々は、自分の親しい方々が死んで消えてしまったとは思いたくないのです。この世で亡くなってもどこかで幸福にいて欲しい、という気持ちがあるのです。ですから、「あの世に逝った」というただの言葉の意味が、徐々に変わっていったのです。

 あの世はどのようなものか?
 あの世に逝くためにどのようにすればいいのか?
 あの世は幸福な世界なのか?
 幸福な世界があるならば不幸な世界もあるのではないか?
 あの世でどれくらい長くいられるのか?
 あの世でいられる時間が切れたらどうなるのか?
 まったく無になるのか?
 また再びこの世に戻るのか?
 このような様々なことを考えて、哲学ではないが哲学のような世界をつくったのです。
あの世の物語は国によって違います。古代文明を築いたエジプト人、メソポタミアの人々、中国人、インダス文明の人々、インド人、それぞれがあの世の物語を持っています。時代によっても、あの世の物語は変わるのです。例えば、紀元前二千年頃に編纂されたヴェーダ文献に書かれたあの世の物語と、紀元前六世紀から徐々に現れたウパニシャッド文献に見られるあの世の物語とでは、その内容が大きく異なるのです。日本にしても、沖縄の神話に描かれるあの世の物語と、古事記など本土の文献に出てくるあの世の物語はずいぶん違っています。人間が自由に想像する世界なので、際限なく変化していくのです。(皆、素直な気持ちで先祖に感謝の念を抱いたならば、ここまで苦労せずに済んだはずですけど。)

ひとの妄想には乗れません

 では、お釈迦様が語る「あの世とこの世」はどのようなものでしょうか、と考えてみましょう。
まず人間が仏教徒に訊くのは、「あの世の物語は本当なのか、嘘なのか?」という質問です。
 天国と地獄はあるのか?
 極楽浄土は実在するのか?
 魂が無いと言っているのになぜ輪廻転生すると言っているのか?
 輪廻転生が正しければ輪廻する魂があるはずではないか?
 などなどです。
人間が作るあの世の物語について、前の段落で説明しました。彼らは「人間の頭で自由に想像する世界は、そのとおりなのでしょうか?」と訊いているのです。
 正しいのは古代ペルシャ人のあの世の物語でしょうか?
 はたまた中国人のあの世の物語でしょうか?
 答えは、「そんなのはどうでもいい」です。物語が面白ければ、それで十分でしょう。

 お釈迦様は、俗人の感情に乗っかって様々な神話物語をつくって、人々の機嫌を取ってあげることはしなかったのです。
そんな暇はなかったのです。人間に、苦しみを乗り越える方法を説かれたのです。解脱に達する道を説かれたのです。それは、論理的に不可能だと言えるほど難しい作業です。しかし、その気さえあれば、老若男女だれでも解脱に達することができるのです。極端に難しいことを誰にでも実践できるように語るということは、正覚者であるお釈迦様しか持ち得ない能力なのです。

あの世・この世を知るのは聖者です

 お釈迦様の教えは、以下のように意訳できます。「この世を知るべきです。あの世も知る べきです。もし人が、この世もあの世も実在しないと発見するならば、その人は完全に自由なのです。このような人に真のバラモン(聖者)と言うべきです。」この言葉は、いままでの話とは随分レベルが違います。解脱に達するために、苦しみを完全に乗り越えるために、この世とは何か、あの世とは何か、と明確に調べるのです。その結果、この世も実在しない、あの世も実在しない、という結論に達するのです。そうすると、心には執着する対象が無くなるのです。執着する対象が見当たらなくなった心が、真の自由に達するのです。

輪廻の仕組み

 仏教には、輪廻転生という話があります。それはお釈迦様が説かれたものであって、誰かが勝手に仏教に取り入れたものではないのです。現代人の言葉に入れ替えるならば、エネルギーの流転なのです。エネルギーとは常に変わるものです。物質にはいくらでも変われるポテンシャル・エネルギーもあるのです。心もエネルギーなのです。「これが心」と言える実体は無いのです。このエネルギーも流転するのです。
心のポテンシャルは、渇愛・存在欲・執着と言います。心は常に、何かに執着しているのです。ですから、ポテンシャルがあるのです。いとも簡単に流転するのです。この現象に、輪廻転生と言うのです。これは他宗教で言っている、永遠不滅の魂がこの肉体を捨てて別なところに引っ越しする話ではないのです。人間に理解しがたい、精密な科学の話です。

この世を理解しましょう

 仏教のこの世の話とあの世の話は、それほど複雑なものではないのです。
ただ迷信と神話物語が無いだけです。
「この世」とは、自分自身のことです。自分自身には、「生きている」という実感があるのです。その実感はなんなのかと調べると、眼耳鼻舌身意なのです。それが「この世」です。眼耳鼻舌身意があっても、活動はしないのです。眼耳鼻舌身意に色声香味触法が触れなくてはいけないのです。色声香味触法は外にあるのです。それは「あの世」です。眼耳鼻舌身意に色声香味触法が触れると、感覚が生じるのです。それで「私がいる」という錯覚が起こるのです。「私がいる」とするならば、「私を」守らなくてはいけない。「私は」生きていきたい。「私が」死ぬのも怖い。「私に」必要なものを獲得しなくてはいけない。「私の」邪魔するものを攻撃したり壊したりしなくてはいけない。このように、妄想の世界が限りなく拡がるのです。限りなく苦しみが拡がるのです。眼耳鼻舌身意という「この世」に、色声香味触法という「あの世」が触れただけの話です。それで感覚が起きたのです。その感覚に「私」という錯覚が起きたのです。

あなたは存在しますか?

 さらに調べてみると、眼は私ではありません。耳は私ではありません。鼻は私ではありません。舌は私ではありません。身体は私ではありません。意は私ではありません。眼耳鼻舌身意は、瞬間瞬間、変化してかわっていくのです。眼耳鼻舌身意に現れる感覚も瞬時に変わるもので、決して「この視覚が私です」「この聴覚が私です」などなどとも言えません。「私とは視覚です」「私とは聴覚です」とも言えません。このように正しく調べてみるならば、「この世は実在しないものである」と、発見するのです。実在しないとは、虚無という意味ではありません。「瞬間瞬間、変わる現象」という意味なのです。

あの世も幻覚です

 では、「あの世」とは何でしょうか?
 色声香味触法なのです。見えるもの、聴こえるもの、などなども、瞬間瞬間、変わるのです。何かを見ると、視覚が生じます。それで正しく見えたといえるのでしょうか?

 言えません。
見る対象と自分の間にある距離によって、視覚が変わるのです。対象に当たる光によっても、視覚が変わるのです。では、ありのままに正しく見るために、どれぐらいの距離が必要か、どの程度の光があったほうがよいのか、という決まりはあるのでしょうか?

 ありません。
この理論は聴覚から意識まで同じです。色声香味触法は「あの世」ですが、それも無常です。瞬間瞬間、変わります。私たちが、いくら外の世界を知っていると言っても、その知識は当てになりません。客観性はないのです。ということは、「あの世」も、正しく観察する人には実在しないものになるのです。「私」という気持ちが錯覚であるならば、「この世」だとする眼耳鼻舌身意が無常であるならば、「あの世」だとする色声香味触法が無常であるならば、「あの世を知っている」という言葉が当てにならない主観であるならば、この世もあの世も、実在しないことになるのです。「私」という実体が錯覚であると発見するのです。では、渇愛という存在欲は成り立ちますか?

 成り立ちません。

執着に値するものはありますか?

 ありません。

心に悩み苦しみ苛だちなどが起こり得ますか?

 起こりません。

ということは、正しく物事を観察する人は、究極の安穏に、解脱に達するのです。この世とあの世を如実に知る人は、聖者なのです。

 人間がつくる「あの世の物語、この世の物語」は、お釈迦様にかかると以上説明したような話になります。神秘や迷信の霧が晴れて、精密な真理の世界が現れるのです。

今回のポイント

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