パティパダー巻頭法話
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No.239 (2015年1月)
幸福とは心の成長です

 ~心の穢れに注意しましょう~
 Absolute victory against the competitive world
A・スマナサーラ長老     
◎今月の巻頭偈
Dhammapada Capter ⅩⅩⅥ Brāhmanavagga
ダンマパダ(法句経) 第26章 婆羅門の章

386.
   Jhāyim virajamāsînam
   Katakiccamanāsavam
   Uttamatthamanuppattam
   Tamaham brûmi brāhmanam
386.
   彼の岸も此の岸も
   穢【 けがれ】 をはなれ独り坐し
   なすべきことをなしおえし
   無漏最上義の禅定者
   そをバラモンと我は説く
          ( 和訳 江原通子)

幸福祈願は必要

仏法僧のご加護により、2015年も幸福に満ちた年でありますようにと、祝福と誓願をいたします。仏法僧とは真理のことです。人々は真理を知らないうえに、平安で安穏に生きる方法も知らないのです。生きかたについて迷っているのです。人生に迷ったり、不安を感じたり、自信が無くなったりするたびに、他の祝福と応援を期待します。ひとを祝福してくれるところは無数にあります。しかし、真理により人々を祝福する組織は、仏教以外に無いのです。真理を発見して、真理を体得している人々は、究極の幸福と安穏に達しているのです。仏法僧による祝福は、最高の祝福になります。我々はつねに仏法僧に護られ、祝福される生きかたをしなければいけないのです。

幸福になる順番

自分の師匠は釈迦牟尼如来であると納得するところから、この生きかたが始まります。
それから、ブッダの教えに納得します。真理を体得した仏弟子たちを信頼して、その導きを受けることにします。次に、釈尊が説かれたような生きかたを歩んでみようと挑戦します。最後に真理を発見して、真理を体得して、究極の幸福と安穏に達します。仏道を歩む人の人生は、問題なく好転する生きかたに変わるのです。

差別主義者の哲学

お釈迦さまは、真理を体得して解脱に達した方々のことをbrāhmanaと呼ぶのです。これは当時の社会において、挑戦的な言葉なのです。インド社会はカースト制度で分かれています。人間は平等である、という立場は無いのです。カースト制度は神様が創造したそうです。だから、不平不満を言わず、自分が生まれたカーストに与えられている義務を果たさなくてはいけないのです。創造神の話は世界中にあります。それらの話は証拠に基づいたものではなく、人間の妄想に基づいた想像力の産物です。そこで、ストーリーをつくる人々は決まって、勝手に「自分の立場こそが世界最高だ」とするのです。インドの創造物語をつくったのは、brāhmanaカーストの人々です。彼らこそが神の直系の存在だそうです。他のカーストの人々は、彼らのお世話をしなくてはいけない下級の存在です。

お釈迦さまは、神話物語や迷信を信仰する宗教家ではなく、科学者なのです。人間・動物・植物などを観察すると、生まれつき種 しゅによる違いがあることが分かります。しかし、人間という種は、一種類の生き物以外の何者でもありません。仏教は「生命は平等である」という立場を取るのです。しかし、「生命は同一である」という考えは避けます。生命には個性もあるのです。

ひとは人を見下す

人間は、どうしても仲間を上下に区別してみたいのです。何かの理由を探して、自分は他人より優れていると思いたいのです。これは「他を見下す」という精神病です。皆、この病気に罹っています。しかし、他を見下そうとしたところで、それはうまく行かなくて、自分が見下されることのほうが多いのです。とにかく人間は、上位を目指して戦っています。私たちが築いているこの世界は、その闘いの結果なのです。財産、権力、体力、能力、知識、美貌などで競争して、勝者・敗者を決めるのです。ひとは、一つの項目で勝者になっても、他の項目では敗者なのです。自分が勝者だと思うことは、勘違いです。例としてスポーツの世界を見てみましょう。ある人がボクシングで世界チャンピオンになる。しかし、スケート、野球、ゴルフなどなど他のスポーツにおいては、能力を発揮できない敗者なのです、権力・財力・知識能力などに当てはめてみると、さらにまた敗者になる可能性もあるのです。一万以上の競争項目のなかで、一つに成功しただけでは最優勝者になれないのです。しかし世間には、ゴールドメダリスト、ワールドチャンピオン、グランプリ受賞者、スーパースター、ミスワールドなどなどがいます。無数の競争項目のなかで、たった一つ上手くいっただけの話です。ですからこの世に、完全勝利者はいないのです。

競争社会は惨めです

世間的な勝利者という立場は、あまりにも惨めなものです。今年のワールドチャンピオンは、次の年、他の選手から挑戦を受けなくてはいけないのです。一回二回と勝ったとしても、いつか必ず、自分のワールドチャンピオンシップは無くなります。世界一の美人も歳をとります。権力者もその座から追われます。富豪家の財産も無くなります。ひとは何を得ても、その全てを死によって失います。お釈迦さまは「死によって失わない幸福はあるのか?」と考えるのです。「全勝者と言うべき立場とは何なのか?」と考えるのです。お釈迦さまは正解を持っています。

真の人格向上

ひとは自分のことを他人と比較して見る。心のなかで、他を見下せるか否かとチェックしているのです。自分のエゴで、煩悩で、他と自分を比較しているのです。他人も自分と同じレベルのエゴと煩悩を持っているので、この比較は無意味なのです。目の見えない人が、他の目の見えない人に対して「めくら」と非難するようなものです。ですから、お釈迦様は、「ひとの心がどれくらい清らかなのかとチェックしたほうがよい」という立場を取ります。しかし、心のチェック項目について「自分は他人より勝れている」と思うことはエゴです。それは禁止するのです。正しいチェックの仕方は、自分で自分の心を観察してみることです。激しい怒りに病んでいた人が、努力して怒りを制御する。ほとんど怒らない人間になる。自分がかつてより今、優れていると思えばよいのです。嘘をつくクセがある人が、自分を戒めて、嘘をつくことをやめる。事実のみを語る人間になる。かつての自分よりは、今の自分のほうが優れているのです。この判断チャートによるならば、心の汚れが一切無い人、二度と汚れが顕れないような精神状態に達した人こそが、最も優れた人になるのです。解脱に達した人こそが、もっとも優れた人なのです。生きるという問題を完全に解決したので、完全勝利者です。その人にとって、俗世間の評価は関係ありません。金メダルは要らないのです。

虚しい出自自慢

 Brāhmanaカーストの人々は、自分こそが人類のなかで最も優れている人物だと自称していたのです。
しかしお釈迦様から見れば、ただの心汚れている一般人です。不可触民と呼ばれていた人間と、なんの変わりもないのです。王であれ奴隷であれ、仏教から見れば、ただの人間です。しかし、どの程度で道徳を守って生きているのか、どの程度で心を清らかにしているのか、ということによって、人間の上下が成り立つのです。それでも、注意してください。「私はあなたより道徳的な人間である」と思うことは禁止です。それで自分が減点になります。そこでお釈迦様は、brāhmanaカーストの人々を戒める目的も含めて、「解脱に達した人こそが真のbrāhmanaである」と公言なさったのです。この言葉の裏を読むと、 brāhmanaだと自称している一部の人間は決して真のbrāhmanaではない、という意味になります。それはただの所属名に過ぎないのです。

聖者は完全勝利者です

 Brāhmana家の一人が出家したのです。お釈迦様がたびたびbrāhmanaという語を使って弟子を賛嘆するのを聴いて、彼は考えたのです。「最も優れているのがbrāhmanaであるならば、私もbrāhmana家で生まれたので、最も優れた人々の一員ではないでしょうか?」と。それを釈尊に確かめなくてはいけないのと思って、伺ったのです。お釈迦さまはその人に、どのような人物を真のbrāhmanaと称するべきかと説明したのです。

 Jhāyim 心を統一している人。冥想修行によって心を統一して、サマーディに達しなくてはいけないのです。
サマーディは二種類です。サマタ冥想で達するサマーディと、観察冥想で達する出世間サマーディです。サマタ冥想のサマーディによって、俗世間的な煩悩が休止状態になります。観察冥想のサマーディによって、煩悩が滅します。観察冥想とは、ヴィパッサナー冥想のことです。観察冥想のサマーディとは、預流果・一来果・不還果・阿羅漢果という解脱に達することです。サマタ冥想のサマーディとは、第一禅定から第四禅定です。第四禅定に達した修行者には、無色界の四つの禅定に達することもできます。しかし、この八種類のサマーディによっては、煩悩が休止するだけです。滅することは無いのです。

 Virajam 世間との関わりを断っているのです。ふつうの人々の生きかたとは、世間との関わりを持つことです。世間と関わりを持たなかったら、生きる事ができないのです。心のなかに、物事に依存する弱い状態が無くなったら、関わりを断ったことになります。要するに、真の孤独者なのです。 Āsînamとは、坐っている、という単純な意味になります。
Virajamāsînamとは、世間との関わりを断って真の孤独者として生活する人、という意味になります。

 Katakiccam とは、なすべきことをなし終えた人、という意味です。ひとがなすべきこととは、心を成長させることと、心の汚れを落とすことです。心を究極の位まで成長させて、一切の煩悩を滅尽したならば、なすべきことをなし終えたことになります。要するに、最終解脱に達した聖者、という意味です。

 Anāsavamは、 Katakiccamの同義語です。煩悩は一切無い(無漏)、という意味です。この二つの言葉で、修行者が阿羅漢果に達していることを表しているのです。

 Uttamattham 最高の意義に、anuppattam達している。最終解脱(阿羅漢果)に達している聖者のことです。
Tamaham brûmi brāhmanamこの聖者に対して、私(釈尊)はbrāhmanaと言うのです。

 質問した比丘は、 brāhmana家で生まれたことは仏道において何の意味も無いのだ、と理解したことでしょう。
Brāhmanaとは、心清らかにする仕事を完成した人に使う尊称なのです。

新年の抱負

仏道は、究極の幸福に達する道を教えるのです。家内安全、学業成就などの一時的な幸福のみを教える道ではありません。たとえ家内安全を確保しても、他のところで不幸に陥る可能性があります。学業成就できても、まともなところに就職できなくなる場合もあります。
無病息災といっても、病や災難が減ることはあれども消えることは決してあり得ません。万が一、ひとが無病息災で一生を過ごせたとしても、心は汚れたまま、老いて死ぬのです。このような幸福は、美しいシャボン玉を手に載せてみるようなものです。不可能ではないが、儚いものです。

  「ひとは心の汚れによって不幸や苦しみに陥るのだ」と理解した人は、際限なく神社仏閣 パワースポットなどを巡ることをやめて、できるだけ自分の心を清らかにしようと励むのです。
たとえわずかでも心が清らかになったら、その分、幸福になるのです。人生を好転させる道は、仏法僧を信頼するところから始まります。次の一歩は、道徳を守ることです。それから、自己観察して心の汚れを徐々に落としていくのです。「仏道に挑戦して、真の幸福に自分の努力で達します」ということを、今年の抱負にしてみては如何でしょうか?

今回のポイント

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