パティパダー巻頭法話
Sabbe satta bhavantu sukhitatta
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No.241 (2015年3月)
ブッダの教えはオリジナルです

 ~仏教用語の定義~
 Buddha’s teaching is unique
A・スマナサーラ長老     
◎今月の巻頭偈
Dhammapada Capter ⅩⅩⅥ Brāhmanavagga
ダンマパダ(法句経) 第26章 婆羅門の章

388.
   Bāhitapāpoti brāhmano
   Samacariyā samanoti vuccati
   Pabbājayamattano malam
   Tasmā "pabbajito"ti vuccati
388.
   離悪の故に バラモンと
   物靜か故 沙門(サマナ)とぞ
   我が垢 常に拂う故
   出家者( パッバジタ)とこそ呼ばるなれ

 ※原詩はすべて語呂合せ 
          ( 和訳 江原通子)

批 判

 お釈迦様は、現代の一部の仏教学者からも非合理的な批判を受けることがあります。仏教は自由な教えなので、批判すること自体は悪いと言えません。しかし、批判とは、証拠に基づいて行わなくてはいけないのです。お釈迦様が生きていた時代でも、釈尊は他の宗教家たちから批判を受けました。インドは議論する文化でしたので、お釈迦様も批判に対しては適切に答えたのです。また、他宗教の方々も、根拠のない話でお釈迦様を批判することを恐れたのです。それは誹謗中傷になるからです。

批判の必要性

 批判を受けること自体について、お釈迦様はポジティブ的に見ていたのです。批判する人々は何らかの考え・スタンスがあって、それがお釈迦様の教えと合わないから批判するのです。その批判に対して、お釈迦様が明確に説明してあげるのです。そうすることで、相手方も仏教を理解するのです。批判は知識的なものです。批判者と同じ知識を持つ人々は、仏教に対する批判も共有しているのです。ですからお釈迦様が一人の批判に対して答えたら、同じ知識を持つ他のたくさんの人々の疑いも晴れるのです。ブッダの教えを批判するとは、その知識人がある程度で仏教を理解しようとしたことでもあります。ですから、批判する人間に正しく説明してあげると、ブッダの教えを理解することが可能になるのです。

 しかし、感情的に、何ひとつの証拠もなく批判することは、批判ではなく誹謗なのです。ひとを誹謗する人は、何ひとつも学ばないのです。人間には、﹁自分の考え﹂というものがあります。ひとの話を聴くと、その内容を自分の考えと比較してみるのです。頭の悪い頑固な人なら、自分の考えに合わないものは頭ごなしに捨てます。柔軟性ある人々は、自分の考えと違った話を調べて、どちらが正しいのかと決めようとするのです。これが心のなかに起こる「批判」 という作業なのです。というわけで、自分の理解能力を向上させたいと思うならば、批判能力を大事にしなくてはいけないのです。ものごとを鵜呑みにしてはならないのです。

批判に対するアプローチ

 当時インドにあった批判はさまざまです。一部のバラモン人は、お釈迦様に虚無主義者、破壊主義者、厳格主義者などなどと言ったのです。ブッダの話を聴いて、その考えに陥ったことでしょう。お釈迦様は、「あなた方は間違っています」 という態度を取らなかったのです。「私は心の煩悩の壊滅を説くので、虚無主義者と言われても仕方がありません。貪瞋痴の完全破壊を説くので、破壊主義者だと言われても仕方がありません。微妙な間違いも起こさず心を成長させなくてはいけないと説くので、厳格主義者と呼ばれても仕方がありません」 と答えるのです。仏教について、一部のバラモン人たちは乱れたバラモン教を正しい道に戻すための教えだと思っていたのです。お釈迦様は誰の間違った道であっても正すので、この批判にも反対しないのです。そこで理性のあるバラモン人たちは、「最高の神である梵天と一緒に生まれるための修行として伝承されているさまざまな方法のなかで、どの方法が正しいのか?」 と訊くのです。
お釈迦様は師匠たちの伝承に乗ることなく、「梵天は無量の慈悲喜捨を持っているのです。あなた方も無量の慈悲喜捨を実践しなさい。死後、同じレベルの精神があるところに生まれます」 と説くのです。要するに、梵我一如のブッダ・バージョンです。同じくバラモン人から、正しい供犠の行ない方を訊かれたこともあります。また、ジャイナ教の修行者たちは、お釈迦様が贅沢に溺れているのだと批判するのです。それはジャイナ教が、苦行こそが正しい道であると信じていたからです。
お釈迦様は、「安穏な精神に達している自分ほど贅沢に住む生命は、他に存在しない」 と答えるのです。相手の批判を否定もせず肯定もせず、見事に自分のスタンスを表明するのです。それは一般人にとって、なかなかできることではありません。一般人はお釈迦様の智慧に圧倒されましたが、お釈迦様が批判に対してどのような態度をとるのか、ということは理解できなかったのです。
ですから、お釈迦様ご自身が説明します。相手の質問に対して、(1)賛成する、(2)否定する、(3)質問を分析して答える、(4)質問に答えようとしないで捨てる、という四つの立場を取るのです。

当てにならない現代人の批判

 現代の仏教学者もいろいろ批判しますが、ここですべて説明することはできません。
一つだけ取り上げます。現代の学者は、突然、新たな思想が現れるはずもないと思っているのです。さまざまな思想体系が背後にあって、新たな思想が現れると考えるのです。要するに、新しい思考・概念にも裏付けがあるはず、という考えです。このスタンスは間違ってないのです。ブッダの教えは文献研究から学ばなくてはいけないのです。文献は言語です。それで仏教用語として、輪廻、業、涅槃などなどの単語に出会います。より古い文献を調べると、同じ単語が見つかります。それで「お釈迦様のこの考えは、昔からあったものです」と、直ちに結論づけます。これは丁寧な言い方です。その結論を乱暴な言い方に変えれば、「ブッダの教えにはオリジナルなものは何もありません。すべて、もともとバラモン教にあった教えのパクリです。」 もし学者が、この乱暴なフレーズを観察したならば、自分の結論が合っていないと発見するはずです。何故ならば、ヴェーダ聖典には高度な哲学は一欠片もありません。輪廻の話もありません。輪廻のような話はちらちら出てきますが、それもあまりにも原始的な思考です。ウパニシャッド哲学は、出始めたばかりです。
ウパニシャッドは、バラモン伝統以外の修行者たちの修行経験も参考にしながら、アートマンとは何かと説明するテキスト類です。
残念ながら、仏教は無我論です。
 ブッダの教えは、完全オリジナルなのです。それはお釈迦様が何回も何回も繰り返し仰っていることです。「未だかつて誰にも発見できなかった真理を発見しました」 と、説かれてあるのです。説法する時、たまに昔の人々の言葉も引用する時があります。そういう時、お釈迦様は、知識人らしく明確に、それを言うのです。ひとの考えを自分のものとして喋ることは一切無かったのです。もしどなたかがそのように言うならば、それこそブッダに対する誹謗中傷です。それだけではありません。「ブッダの話は論理ばかりです。明確に論理的にしゃべります。しかしブッダには超越した智慧はありません」 と批判された時、お釈迦様は直ちに真っ向から反論したのです。

単語の読み違え

 では、ブッダが昔の人々の考えを取り入れて新しい教えとして説かれた、という誤解はなぜ現れたのでしょうか?

 それは言語の問題です。お釈迦様は言葉で語らなくてはいけないのです。言葉とは、一般人が日常使うものです。言葉は、お釈迦様より古いのです。お釈迦様が、世に存在しないまったく新しい言語を開発しても、それは誰にも理解できないことになります。発見はオリジナルであっても、みな日常使っている言語でそれを発表しなくてはいけないのです。しかし、同じ意味では使ってないのです。ですから経典には、言葉の定義がたくさん出てきます。仏教用語のすべてを定義されています。

Karma(kamma) の意味は、行為です。しかし仏教用語の kamma の意味は、意志です。当然、行為という意味でも使います。
インドでは、森羅万象を示すために sanskârâ(sankhârâ) という単語を使います。お釈迦様は、因縁によって作られたもの、因縁によって現れたもの、必ず消え去るもの、という意味で sankhârâ という語を使うのです。日本語では、「行」 といいます。ですから、お釈迦様の時代より古い文献に似た単語があったからといって、お釈迦様が古い人々の教えをコピーしたのだというのは、根拠のない誹謗になります。批判になりません。

お釈迦様が行なう単語の定義

 今回、お釈迦様が古くから伝わっていた三つの単語をどのように使ったかを説明します。一番目の単語は brâhmana です。
brâhmana とは、一般的に「バラモン人」 という意味です。バラモン教では、バラモン人はバラモン・カーストに入ります。自分たちは生まれつき聖職者である、と自称していたのです。他のカーストの人々より自分たちは優れているのだと思って、カースト差別を支えたのです。大富豪のバラモン人たちも、貧乏なバラモン人たちもいたのです。バラモン人の仕事は、ヴェーダ聖典を学んで唱えること、宗教的な儀式儀礼を行なうこと、その他の知識も得ることでした。基本的にバラモン人は知識人なのです。そのなかで、宗教に興味を持ったバラモン人たちは、哲学思考をしたり修行したりもしたのです。しかし俗人のバラモン人たちと比較すると、少数派だったのです。

バラモンの定義

 お釈迦様は、brâhmana という言葉を散々使ったのです。
しかし、人種差別には真っ向から反対したのです。ひとが生まれつき聖職者である、という話は断言的に否定したのです。ひとの善し悪しは、その人の行為の結果によるのだと説かれたのです。「たとえバラモン・カーストに生まれても、人の物を盗むならば盗人であってバラモンではない」 と説くのです。ではなぜ、お釈迦様はbrâhmana という単語を使ったのでしょうか?

 その単語に、「優れている」 という意味もあったのです。ですから、お釈迦様が仏教用語として brâhmana という語を使う場合は、バラモン・カーストではなく、「優れている人」 という 意味で使うのです。しかしバラモン人たちと対話する場合は、相手を brâhmana と呼ぶの です。その時は、その人の家柄を意味します。

 お釈迦様が俗世間のバラモン人を示す時も、 brâhmana という語を使います。優れた人、という意味でも、brâhmana という語を使います。この混乱を避けるために、定義しなくてはいけないのです。お釈迦様は、精密な言語学は好みではなかったのです。一般人が使う流動的な単語をできるだけ使って、説法したのです。 brâhmana という語は、成長する、という語幹からできたものです。おそらく一般人は、 r の発音はなまって使ったでしょう。
お釈迦様がこのように定義します。「bâhitapâpo 悪を捨ててしまった人は、brâhmana です。」 これは精密な言語学的な定義ではないのです。音が似ているだけです。悪から心を完全に離した聖者を示すために、brâhmana という言葉を使うのです。お釈迦様が、「真の brâhmana 」 と説く場合は、必ず 「解脱者」 という意味になります。時々、出家者に対して軽く brâhmana という単語を使う場合もあります。

 お釈迦様の教えは、バラモン教の教えと違います。バラモン人の教えはほとんど間違っているのだ、と批判することもあります。しかし、仏道を歩んで解脱に達した人は、 brâhmana なのです。あえて brâhmana という単語を使うことによって、バラモン教に対 して反対の立場をとられたのです。

沙門の定義

 次の単語は、samana です。
samana とは、バラモン伝統以外の宗教家が使った単語なのです。修行者という意味になります。バラモン・カーストに生まれてない人々が宗教に興味を持っても、バラモン人は受け入れないのです。しかし、精神とはどのようなものかと調べる自由は人間にあります。それらの人々は、バラモン教と関係なく、自由に出家するのです。それぞれの師匠たちの教えに従って、修行もするのです。これらの修行者たちを示す単語は samana です。
samanaとは、統一したある一つのグループのことではありません。
samana の間に、たくさんの宗教思想家がいたのです。しかし皆、それぞれ自分で考えだした方法で真理を発見しようと頑張っていたのです。しかし、何かの見解に基づいて修行したので、誰一人として納得のいく結果には至らなかったのです。
samana たちは集まって、誰の教えが正しいのか、誰の教えが間違っているのかと、議論ばかりする羽目になったのです。彼らは論争する方法まで開発したのです。呆れた人々は、知識とはあり得ないものだとして、不可知論まで語ったのです。
samana という修行者たちは、修行についても宗教についても、なんのまとまりもない互い違いのグループでした。しかし、真理を発見するために修行する、という点では皆一緒でした。

 お釈迦様は、自分の出家弟子たちを samana と名づけたのです。お釈迦様のことも、他の宗教家が samano gotamo と呼んでいたのです。「ゴータマ沙門」 という意味です。たくさん弟子たちがいたので、お釈迦様は mahâsamano 大沙門と呼ばれたこともあります。
お釈迦様は大沙門で、弟子たちはただの沙門です。
お釈迦様が samana という単語を使ったのは、ご自身の教えはバラモン教の伝承と違うからです。カースト制度は関係なく、誰でも自由に出家できるからです。「自由な宗教の世界」 という意味で、samana という単語を使ったのです。しかし、教えも生きかたも修行もバラバラで、なんのまとまりもない論争ばかりして時間を無駄にするグループの一員にはなりたくなかったのです。それで、その単語に定義をします。
Samacariyâ (身口意の行為を清浄な状態に保つ)という意味で、samana と言うのです。
解説はこのようになります。ひとの行為は悪になったり善になったりするのです。それは心を清らかにしていないからです。悪の根源は貪瞋痴です。心から貪瞋痴を残りなく取り除けば、心が究極の安穏に達します。その人の行儀作法は、当然、冷静になります。この精神状態に達した人が、真の samana なのです。ですから、仏弟子である samana は、当時インドにあった samana とは決して似ていないのです。当時のインドにあった samana たちの教えも、行儀作法も、修行方法も、お釈迦様はコピーしてないのです。ただ一般的な意味で、samana という単語を取り入れて、それに仏教的な定義をつけて使ったのです。

出家の定義

 次の単語は pabbajita です。単語の意味は 「遊行者」です。それも修行者を意味する言葉なのです。バラモン教のなかでも、pabbajita がいたのです。
この名前で人を示すために、条件が必要です。在家生活をやめて出家していること。それから、真理を探して旅をすること。この二つの条件で pabbajita なのです。ただ出家して旅するだけで pabbajita だと思っていた人々もいたのです。
師匠を訪ねて旅する修行者たちにとっては、一つの信仰に固まっていることもできないのです。新しく出会った師匠の教えが自分の教えより優れていると分かったら、その時点で宗教を変えなくてはいけないのです。ですから、真理に達するまで、自分の信仰は流動状態にするのです。自由思想家というより、真理を探している人、なのです。それには固定概念が邪魔になるので、自分の教えが負けたら相手の弟子になります。これは面白い現象です。ですからバラモン人も、自分の宗教に取り入れたのです。正しいバラモンは、年老いたら sanyāsin になるのです。バラモン伝承以外の宗教家は、サンニャーシンという単語ではなく、pabbajita という単語を使ったのです。

 お釈迦様も、出家してから真理を探求する旅に出たのです。いろいろな師匠を訪ねたのです。そのなかで、アーラーラ・カーラーマ仙人とウッダカ・ラーマプッタ仙人が有名です。この二人は、高いレベルの禅定に達することができたのです。しかし、真理を発見していなかったのです。
お釈迦様は自分一人で努力して、最終的に真理を発見して解脱に達したのです。それで、pabbajita(遊行者)としての義務を完了したのです。
仏教では、pabbajita という単語は「出家する」という意味で使います。出家仏弟子たちは皆、pabbajita なのです。それは一般的に出家仏弟子を示す単語です。
しかし、お釈迦様は 「遊行を完了した」 という意味で定義します。その定義を作るために、元の単語の意味を意図的に変えています。
Pravarjita というサンスクリット語の単語が、パーリ語になると pabbajita になります。
Pravarjita とは、離れる、厭う、嫌う、という意味です。「自分の心の汚れ(煩悩)から離れる」 という意味で、 pabbajita という言葉を使用されているのです。真の pabbajita は解脱者です。煩悩を無くす修行をする出家も、(見習い)pabbajita なのです。

 というわけで、インドの宗教家の間で一般用語として使っている単語を用いて語ったからといって、お釈迦様の教えにオリジナリティがない、というのは恐ろしい冒涜なのです。お釈迦様は、誰にも発見できなかった真理を発見して語られたのです。

今回のポイント

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