パティパダー巻頭法話
Sabbe satta bhavantu sukhitatta
HOMEパティパダー巻頭法話→権威の導き
No.244 (2015年6月)
権威の導き

 ~正しい生き方を選ぶガイドライン~
 Authority
A・スマナサーラ長老     
◎今月の巻頭偈
Dhammapada Capter ⅩⅩⅥ Brāhmanavagga
ダンマパダ(法句経) 第26章 婆羅門の章
391.
   Yassa kāyena vācāya
   Manasā natthi dukkatam
   Samvutam tîhi thānehi
   Tamaham brûmi brāhmanam
391.
   身にも語にもまた意にも
   悪しき行為が見られない
   三処に防護している者
   かれを私はバラモンと呼ぶ
      ( 和訳 片山一良※)

※『ダンマパダ全詩解説』大蔵出版より

 権威に管理されている

 今回は、世間の常識とお釈迦様の立場の共通点と相違点について考えてみましょう。しかし今月の法話では、一つのポイントしか説明できないのです。それは権威(authority)です。これだけでは意味が分からないと思いますので、例を出します。「Aさんは頭のよいエリートです」と言われても、信頼できません。次に、「Aさんは東大を首席で卒業し、ハーバード大学で修士課程を卒業したのです」と言われます。このように言われると、Aさんがエリートであることは間違いないのです。ここで私たちは、東大とハーバード大学を権威として扱ったのです。大事な仕事の面接などを受ける場合、その人は卒業証明書を持っていくのです。卒業証明書は権威です。警察官には、私たちに職務質問することができるのです。権威があります。しかし、私たちには他人を呼びとめて職務質問することはできません。その権威はないのです。卒業証明書、免許証、許可書、入場券、パス、等々もそれなりの権威を持っているのです。医師免許は、治療するための権威ある許可書なのです。この世で誰かを信用するためには、何かしらの権威が必要であると理解できると思います。

宗教の世界にも権威が働く

 宗教の世界も、権威の問題からは解放されません。ひとが自分の家を教会のように改装して、神父の服装を身にまとって「自分は神父である」と言っても、だれも信頼しないのです。カトリック教会の組織から訴えられる可能性もあります。神父さんになりたければ、神学校を卒業して、見習い期間を経て、正しい儀式を行なって、バチカンからその資格を任されている長老の神父さんから認定されなくてはいけないのです。自分勝手に神父になることはできません。この世には、自分勝手で宗教家になる、開祖様になる人間もいるのです。そういう人々は精神的に病気であるかもしれませんが、それでも権威の問題は否定できません。「神様が私に直々、話されました」「山の上で修行中、目の前に不動明王が現れました」等々という場合、その人々は権威を示そうとしているのです。または、『○○さんの霊言』というタイトルでどうでもいい話をたくさん出版すれば、権威を奪い取ったことになります。

絶対的権威・権力はあり得ない

 世にあるまともな宗教組織の場合も、権威が大事です。勝手に禅僧にはなれません。天台宗、真言宗などの僧侶にはなれません。テーラワーダ仏教の比丘にもなれません。権威のある組織から、正しく認定されなくてはならないのです。このように話すと、権威・権力を持っている組織は絶対的な力を持っているように見えてしまうのです。組織などは、絶対的な権威があるかの如く振舞いたがっているかもしれませんが、それもできません。
カトリック教会の最高権力者はローマ教皇なのです。彼の指令は絶対的です。しかしその方は、わがまま好き勝手に活動しません。教皇の下で、彼にアドバイスする組織がたくさんあるのです。それら組織の方々の意見を聴いて、教皇は自分の意見を発表するのです。

 日本の仏教にも、貫主・門主と呼ばれるトップクラスの方々がいるのです。しかし、それらの方々が自分の権力をどのように使うべきか、という決まりもまた別にあるのです。
日本国で最高権力を持っているのは国会です。国会とは議員さんの組織です。しかし、議員さんは憲法を大事に守らなくてはいけないのです。議員とは法律を作ったり変えたり廃止したりする人々なのに、彼らもまた法律を守らなくてはいけないのです。憲法が絶対的な権威を持っているかと言えば、そうでもないのです。憲法も変えられます。というわけで、権威無しにこの世は成り立たない。しかし、絶対的権威・権力も成り立たない。独裁者という存在は異常現象です。社会に現れる恐ろしい病気なのです。

神と聖書は世界宗教の権威です

 宗教になると、もう一つ問題が見えてきます。宗教は、ある民族の信仰組織かもしれません。例えば、神道は日本国民の信仰組織の一つです。ユダヤ教はユダヤ民族の信仰組織です。キリスト教イスラム教は世界宗教なので、民族信仰組織にはなりません。自由な生き方を享受する現代人は、宗教を信じるか否かは個人の自由であると思うかもしれません。絶対的で唯一の神を信仰する宗教では、信じるか否かは個人の自由かもしれませんが、権威は宗教組織にあります。また、神の言葉を記したとされる聖書にあります。自分の信仰が正しいか否かは、聖書を参照して決めなくてはいけないのです。

個人の信仰と権威の問題

 心を清らかにすることが宗教の実践である、と説かれる教えもあります。ヒンドゥー教の一部の宗派、ジャイナ教と仏教がこのグループに入ります。心を清らかにすることは、明らかに個人の仕事です。他人が自分の心をいじることは、洗脳でありマインドコントロールです。決して正しくありません。ある個人が、自分の信仰している宗教の修行法を実践して、心を清らかにしたとしましょう。その人は、自分の心が清らかになったと発見する。私たちには、人が言うことをそのまま事実として受け止めることはできません。その人のいう言葉が正しいか否かを調べなくてはいけないのです。また、その個人も、如何なる権威に基づいて自分の心が清らかになったのかと、チェックしなくてはいけないのです。

「私は覚った」と言われた場合の権威

 ここで大きな問題が起きます。神を信じる人々は楽です。聖書の言葉に自分の生き方が合っているならば充分です。聖書は他人にも読めますので、他人にも調べることができます。ある人が、「私は大悟を得た」と発表する。それで一般人が、「本人がそう言っているから、大悟を得たに違いありません」と言うのは、あまりにも無責任で無知な態度なのです。ひとには、物事を調べて正しいか否かを確かめる自由があります。それも一種の権威なのです。
大悟を得たという人は、(1)本当のことを言っているかもしれません。(2)勘違いしているかもしれません。(3)世間を騙すために嘘を言っているかもしれません。(4)常識を失った、病んでいる人かもしれません。それを調べる権利は、皆にあります。

 ひとの心を調べるというのは、この世で最も難しいことです。他人の心どころか、自分の心の働きさえも分からないのです。ひとには、自分の本音とは違うことを世に発表することもできます。ほとんどの人々は本音を言わないのです。本音を表していない言葉を通じて、他人の心を理解することはできません。感情の場合も同じです。落ち着いてないのに落ち着いている人間の如く、怒っているのに怒ってない人間の如く、何も分かってないのによく分かっている人の如く、振る舞うことができます。一般常識的に考えれば、なぜ必死になって「覚った、分かった、大悟を得た、最終解脱しました」等々と、俗世間に派手にアピールするのでしょうか? 自我を消した・大悟を得たと称して自我を張っている、俗世間から認められたいという欲求、弟子に囲まれて生活したいという希望などがあって、発表するのかもしれません。心を清らかにする道は正しいのだと他人にも報せるために、他人にもその道を教えて幸せにしてあげるために、自分の精神状態を俗世間に発表する場合もあるのです。しかし、人が「心清らかになった」と力説する場合、どんな目的で語っているのか、われわれ俗人には分からないのです。ここで説明したのは、はっきりした権威が無い場合に必ず起こる問題です。権威があったほうが、何でもスムーズに進みます。

仏説を権威に仏教組織が成り立つ

 では、仏教の話に戻りましょう。仏教徒と言えば、三宝を中心にして生きる社会組織です。その組織も、在家・出家の二つに分かれます。この側面では、仏教も他の宗教と似ているのです。在家として正しい生き方をしているのか、出家として正しい生き方をしているのかと、誰にでも調べることができます。その権威はお釈迦様の教えです。仏教経典は、地球上のどんな人間にも読んで調べる自由があります。ある人の生き方が仏教的でないと、経典を権威にして批判することは、イスラム教徒にもカトリック教の神父さんにもできます。

自証も権威になります

 問題はこれではありません。ブッダの教えの目的は、煩悩を断って解脱に達することです。言い換えれば、心を完全に清らかにすることです。それは個人の仕事です。仏教徒の組織は関係ないのです。修行者は、自分の心の進み具合を自分でチェックしなくてはいけないのです。また、先輩の経験者たちと話し合ってみなくてはいけないのです。自分で自分の心をチェックすることも、決して簡単ではないのです。心を清らかにした経験が無いからです。少々、清らかになったところで、「やった。終わった」という気持ちに陥る恐れもあります。ある程度で修行が成功したならば、修行者は「心のなかでどんな汚れが無くなったのか、どんな汚れがまだ残っているのか」と観察することが決まりです。その観察のおかげで、微妙なものでも心に引っかかるならば、直ちに発見することができるのです。完全に煩悩が無くなったら、「完全に解脱に達しました」と、本人に明確に分かるのです。
お釈迦様が示す喩えは、「ターラ樹(ヤシ科の植物)の先端を切り取ったら決してその樹は育ちません。枯れます。ひとの心の無明を根絶したならば、二度と煩悩は現れないのです。」この喩えはその植物に馴染みのない方々に理解しにくいので、別な喩えを提案します。ひとの首を切ったとしましょう。どのように治療を施しても、その人を治すことはできません。最終解脱に達した修行者は、人の首が切られた時点でその人は死んだと知っているように、自分の心が完全に清らかになったと、これ以上やることは何もないと、明確に知るのです。教えは自証できるものだと言うのは、この意味です。

 個人がやっていることに、他の権威は無くても結構です。子供が真面目に勉強するならば、お「母さんが証明してくれないと自分では自分が勉強したか否か分からない」ということはあり得ません。この時点で、勉強するつもりで本を理解もせずただ読んだ、またゲームばかりやって、お母さんに勉強しているふりを見せた、等の問題も起こり得ます。
仏教の修行の場合も、このような問題が起こります。そこで、この問題を解決するために欠かせない条件は何だと思いますか?
 ひとが素直で正直であることです。この基本的な条件が無ければ、たとえお釈迦様が直々に指導なさっても、修行者は解脱に達しません。

Dhamma とvinaya は仏教の絶対的権威

 仏教においても、権威という働きを無視できません。仏教の権威は、ブッダの教えとブッダの説かれた生き方です。パーリ語ではDhamma とvinaya と言います。宗教組織として活動する時も、われわれは自分たちの生き方がdhamma とvinaya に合っているか否かをチェックしなくてはいけないのです。修行する時も、自分の心の成長と修行の仕方がdhamma に合っているか否かをチェックしなくてはいけないのです。正しく解脱に達したならば、そのチェックは要らなくなります。しかし、解脱に達した人が他人に自分の精神状態を発表する場合、精密にdhamma に従って、dhamma を参照して語るのです。

 Dhamma とvinaya が仏教の権威なので、仏教徒は皆平等な社会になっています。行儀作法は厳しいので、後輩は先輩に敬意を払わなくてはいけない。しかし、出家している大和尚様の生き方に何か問題を見つけたら、たとえ在家の若者であっても、その間違いを示す権利があるのです。その場合は、dhamma とvinaya を参考にして言わなくてはいけないのです。ですから根拠も無いのに、調べようともせず、自分の主観で他を批判することは、厳しく戒めてあります。Dhamma とvinaya がすべての仏教徒の憲法なのです。犯すべからざるものなのです。仏教の権威はdhamma とvinaya であると理解しましょう。

権威を理解しないとトラブルが起きます

 面白いエピソードが注釈書にあります。出家組織は正しく戒律を守らなくてはならないのです。それはvinaya に従って生活することになります。出家を認定する決まりがあります。女性が出家する場合は、三か月間の見習い期間を完了しなくてはいけない。それから、最低二十人の比丘・比丘尼で構成される会議で、一人前の比丘尼として認定儀式を行なわなくてはいけないのです。女性は出家しても、細かいことにはうるさいのです。お釈迦様を育てた母親は、マハーパジャーパティ・ゴータミー妃です。彼女は五百人の女性たちと一緒に押しかけて、かなり強引な態度を取って出家を認めてもらったのです。最初の比丘尼はマハーパジャーパティ・ゴータミーです。注釈書によると、後に出家したある比丘尼のグループが、「マハーパジャーパティ・ゴータミーは正式的に認定を受けた人ではないので比丘尼ではない」と言い張って、ゴータミー長老尼が出家の定期的な行事に参加することを拒否したそうです。彼女たちの言い分は次のようなものでした。「ゴータミーは見習い僧として修行しなかった。二十人の比丘・比丘尼の会議で正式的に認定されなかった。ただ自分勝手に頭を剃って、衣をまとって、尼僧堂にいるだけです。」この批判も、権威の問題です。経験と知識の浅い比丘尼たちが、自分たちに与えられたvinaya の形式だけを根拠に、釈尊の母親の出家をチェックしたのです。それで合格しなかったのです。注釈書はこのエピソードを記録していますが、それは権威の問題であるとは指摘していないのです。仏教はお釈迦様の教えです。最初に解脱に達したのはお釈迦様です。解脱に達する方法を説かれたのも、お釈迦様です。ですから、仏教ではお釈迦様が絶対的権威を持っているのです。涅槃に入られる時、dhamma とvinaya にその権威を譲ったのです。ゴータミー妃の出家は、お釈迦様が認めたものです。それで話が終わるのです。すべての出家した比丘・比丘尼たちが集って満場一致で決めても、ゴータミー妃の出家を抹消することはできません。マハーパジャーパティ・ゴータミー比丘尼は、比丘尼戒律を守っている限り比丘尼なのです。最終解脱に達したので、完全なる出家の資格を得たことになるのです。

解脱者を調べる方法

 これは権威に関する問題であると、お釈迦様は知っていたのです。組織のトラブルは大したことではありません。トラブルというほどのものでもないのです。しかし仏道は、完全に煩悩を無くす道です。正式的な出家であるか否かは、ただ社会的な問題に過ぎません。心清らかにすることは、個人の仕事です。個人が自分で自分の心をチェックしなくてはいけないのです。修行する人々は、先輩の指導を受けなくてはいけないのです。先輩の修行者たちが解脱に達しているならば、素直にその指導者のアドバイスに従うことができます。その人を模範にすることもできます。ですから、覚りに達していない人々も、何らかの方法で人が解脱に達しているか否かを調べる必要が生じるのです。素直に解脱を目指している修行者であるならば、これはある程度で可能です。しかし、興味本位で調べようとしても、聖者の心のうちは決して理解することができないのです。

 ひとが解脱に達しているか否かを調べる方法・権威は、このように語られています。
「誰かが身体でおこなう行為に何も間違いは起こりません。喋る言葉にも間違いはありません。その人の思考にも何の間違いも汚れもありません。身口意の行為において完全な落ち着きがあるのです。その人こそバラモン(解脱者)であると、私(釈尊自身)は説きます。」これがお釈迦様の言葉です。絶対的権威のある言葉です。しかし個人が「間違い」という単語を自分の主観で判断してはならないのです。正しい行ない・間違った行ない等は、普遍的な基準で決めなくてはいけない、真理でなければいけないのです。それはお釈迦様の法(dhamma)のなかに説かれています。ダンマパダの391偈で、お釈迦様は新しい権威を教えているのではないのです。身口意の行為に間違いがあるか否かをチェックすることは、その人の生き方をdhamma とvinaya に照らし合わせることになるのです。
しかし、dhamma とvinaya と言えば量は膨大です。理解できるものも理解できないものもあります。一般人の立場から見れば、理解できないもののほうが多いのです。修行を始める仏弟子が、解脱に達している指導者をdhamma とvinaya に照らし合わせて発見しようと思っても、お手上げ状態になるのです。お釈迦様もそれを知っていたので、「人の身口意の行為を調べなさい」と、分かりやすい言葉で説かれたのです。

今回のポイント

次の法話へ→        
HOMEパティパダー巻頭法話→権威の導き
© 2000-2013 Japan Theravada Buddhist Association.