パティパダー巻頭法話
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No.245 (2015年7月)
師匠

 ~正しい生き方を選ぶガイドライン~
 Authority
A・スマナサーラ長老     
◎今月の巻頭偈
Dhammapada Capter ⅩⅩⅥ Brāhmanavagga
ダンマパダ(法句経) 第26章 婆羅門の章
392.
   Yamhā dhammam vijāneyya
   Sammāsambuddhadesitam
   Sakkaccam tam namasseyya
   Aggihuttamva brāhmano
392
   ブッダの説きし教法を
   いかなる人から学ぶとも
   それなる人を敬(けい)すべし
   火(アッギ)神を祀(まつ)る バラモンが
   祭火を敬(うやま)い 拝すごと
       ( 和訳 江原通子)

バラモン教

 お釈迦さまの時代、主流の宗教はバラモン教でした。しかしバラモン教は、仏教やジャイナ教のような、まとまった宗教組織ではなかったのです。バラモンというカーストの人びとは、人間のスピリチュアル世界に関わる仕事をしていました。祈祷、祈り、祝福、占い、冠婚葬祭、宮中祭祀などにたずさわり、死後の世界、救済、解脱、修行などに対しては、それほど興味が無かったのです。

 しかし、バラモン教以外の宗教組織では、魂のありかた、魂の解放、不死なる境地、解脱などの概念に強い関心を持っていました。バラモン・カーストの人びとは、基本的に社会の知識層です。ですから、政治家のアドバイザーとして大きな役割を果たしていたのです。知識人なので、他の宗教家と議論したり、自分たちも死後のことを考えたりするうちに、バラモン人も様々な修行方法を考えることにしたのです。それでバラモン・カーストは、よく分からない複雑な組織になってしまいました。俗人か聖職者か、よく分からない存在です。祈祷・祈りなどの迷信に凝り固まった人々もいたし、自由思想家も哲学者もいました。自分が一番上のカーストであると自負していたわりに、王家の人びとの下で家来として仕事をしていたのです。
 いまのインドでは、バラモン教と名乗る宗教はありません。いまはヒンドゥー教と言うのです。インド人の宗教、という意味になります。この意味で考えると、仏教もジャイナ教もヒンドゥー教の一部になってしまうのです。ヒンドゥー教と言えば、何でもあり得ると言える宗教世界です。ヒンドゥー教は基本的に排他主義になりません。

聖火信仰

 バラモン教の一つの習慣を紹介します。バラモン教は多神教です。一億を超える神々がいるのです。一般人が直接、神に祈るのは構わないが、人間界にいる神のエージェントはバラモン・カーストの人びとです。ですから、祈りたければ、神に何か願いごとをしたければ、エージェントを通してやるべきであると、バラモン・カーストの人びとは主張します。神と人間のコミュニケーション・チャンネルは「火」です。それに聖火と言うのです。しかし、一般人の台所にある火は聖火になりません。聖火は、エージェントであるバラモン人が持っているのです。聖職者として仕事をするバラモン人の家には祭壇があって、そちらに代々伝承されてきた聖火が灯されています。決して消さないようにして、その火を守っているのです。現代ヒンドゥー教の大寺院のなかにも、聖火が燃え続けています。聖火を通して神に祈るのは主流派です。しかし、すべてのバラモン・カーストの人びとが聖火を守り続ける必要はないのです。自分がどのような形で神に祈るのか、ということは自由です。

 聖火を通して祈る宗派の人びとにとって、聖火は自分の命ほど大事なものなのです。火が消えたということは、神とのコンタクトが断たれたことになります。彼らは儀式の際、ヴェーダ聖典を読誦しながら、あるいは自分たちが作った祈祷文句か呪文を唱えながら、聖火にお供え物を投げ入れるのです。その供物が燃えて、煙になって上にのぼります。それで神々は、人間が祈っているのだと分かるのです。神々は供物を煙の形で栄養にするのだ、という信仰もあります。もしそうであれば、神様に水をあげることはできなくなるのですが⋮⋮。
 聖火を信仰するバラモンたちは、朝晩、必ず聖火の前で祈ります。出かけるときも、家に戻るときも、聖火を拝みます。聖火はバラモン・カーストの家の祭壇そのものなのです。神様が実際に住んでいる聖地です。延々と聖火の話をしたのは、聖火に何か意味があるからではありません。それがインド人にしつこく残っている習慣だからです。ブッダの立場から見れば、聖火に供物をあげることも、聖火の前で祈ることも、何の役にも立たないただの迷信です。悪くいえば、邪道です。しかしこの習慣がどれほど根づいているかというと、のちに現れた大乗仏教と名乗るグループも、火を拝むことにしたほどです。日本の伝統的な宗教である真言密教と、新興宗教の一部である阿含宗なども、ブッダが否定されたこの迷信を大事に守り続けているのです。

サーリプッタ尊者の習慣

 ここで話を変えます。サーリプッタ大尊者は、智慧第一で出家者のリーダーとして活動していた方です。仏弟子の首座という位をお釈迦さまから与えられたのです。サーリプッタ尊者は、バラモン・カーストの出身でした。尊者には、夜、休みに入る前に欠かさず行なう習慣がありました。ある方角を調べます。調べてから、その方角に向かって五体投地(両膝と両肘と額が床に触れるように行なう礼拝。現代チベット仏教徒が行なっている体全体を投げ出して拝む行為は十体投地という)をする。それから尊者は、その方角に頭を向けて休むのです。
 ふつうの出家者たちは、大尊者のこの習慣をみて怪しんだのです。「サーリプッタ尊者は、仏弟子になったにもかかわらず、バラモン人としての迷信を捨てていない。バラモン人と同じく、方角を拝んでいる」と批判してしまったのです。この旨がお釈迦さまに報告されます。訴えがあったら、本人に直接きいて調べるのがお釈迦さまのやりかたです。そこでサーリプッタ尊者を問いただしたところ、尊者は「訴えられた行為の意味は、お釈迦さま自身がご存知でしょう」と答えたのです。それでお釈迦さまが、サーリプッタ尊者の弁解をなさいます。

師匠は尊敬に値する

 サーリプッタ尊者は出家してから、真理を探し求める旅に出ました。様々な宗教家の教えをいただいたが、納得いく答えは得られなかったのです。最後に、いかなる問題に対しても明確な答えを何一つも出さない、という主張を持つサンジャヤ師(六師外道と言われる宗教家の一人です)のところに留まっていたのです。
ある日、托鉢しているときに、お釈迦さまの最初の五人弟子の一人だったアッサジ尊者と出会います。完全たる安穏に達していたアッサジ尊者にこころ惹かれて、教えを請うたのです。アッサジ尊者は、自分は釈尊の弟子であるが、詳しく説法できないと述べて辞退します。サーリプッタ尊者は、「私に詳しく説法する必要はありません。ご自分が知っている真理を、一行だけでも充分なので教えてください」と頼んだのです。アッサジ尊者は、一偈を教えます。

Ye dhammā hetuppabhavā
Tesam hetum tathāgato āha
Tesañca yo nirodho
Evamvādî mahāsamano

すべての現象は原因により生じます。
如来はその原因を説かれました。
またその原因が滅することも。
これが大沙門の教えです。

という偈です(律蔵大品)。サーリプッタ尊者は、「すべての現象は原因により生じます」という一行目を聴いた瞬間で、預流果に覚ります。そして、その瞬間に仏弟子となったのです。
 要するに、サーリプッタ尊者に真理を教えた師匠はアッサジ尊者なのです。サーリプッタ尊者は、智慧の第一であるだけでなく、謙虚な方としても第一の方です。たとえ一偈であっても、自分に真理を教えて、一切の苦から脱出する方法を示してくれたアッサジ尊者を、一生、師匠として尊敬したのです。アッサジ尊者がどこに住んでいても、その方角には脚を向けて休みません。毎日、休みに入る前に、師匠に礼をするのです。師匠がそばにいてもいなくても、サーリプッタ尊者はその習慣を絶やさなかったのです。お釈迦さまは、「サーリプッタ尊者はバラモン教の迷信を続けているのではなく、聖火を命と同じく大事にするバラモン人のように、自分に真理を教えた師匠を大事にしているのだ」と、比丘たちに教えてあげたのです。

師匠は幸福を与える

 無明に覆われている人々は、輪廻転生という限りない苦しみを回転しています。生きることは苦であると分かっても、その脱出する仕方を知らないのです。輪廻転生の限りない苦しみから脱出する方法は、お釈迦さまが発見し、皆に語ったのです。その方法を聴く人々に、一切の苦しみを乗り越えることができます。私たちはいろんな人々から、様々な協力、助けをいただいて生きているのです。とてもありがたいことです。しかし、それは生きるための助けであって、生きる苦しみを無くす助けではないのです。人間にとって、父母はこの世で一番大事な存在です。しかし、その父母でさえ、生きることには協力してくれても、生きる苦しみを脱出する方法は教えてくれません。もし誰かが他の誰かにブッダの説かれた真理を教えてあげて、その人が教えに従って苦しみを脱出することに成功したならば、誰にも与えることはできない、究極の幸福を与えたことになるのです。

 究極の幸福を与えたその人のことを、仏教では師匠というのです。すべての仏教徒の大師匠は釈迦牟尼ブッダですが、直々に他の誰かからその教えを学ばなければいけない。また、冥想指導を受けなくてはいけないのです。ですから師匠こそが、命を与える存在なのです。仏教の世界では、師匠をとても大事にします。バラモン人が聖火を大事に拝むように、仏弟子は自分の師匠を大事にするのです。ブッダは人類の大師匠で、自分に真理を教えてくれる人は自分個人の師匠です。仏教徒に、二人の師匠がいるのです。

今回のポイント

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