パティパダー巻頭法話
Sabbe satta bhavantu sukhitatta
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No.247 (2015年9月)
納得することが仏道の初歩です

 ~信仰は不治の疑を生む~
 Faith goes with ignorance; confidence goes with wisdom
A・スマナサーラ長老     
◎今月の巻頭偈
Dhammapada Capter ⅩⅩⅥ Brāhmanavagga
ダンマパダ(法句経) 第26章 婆羅門の章

394.
   Kim te jatāhi dummedha
   Kim te ajinasātiyā
   Abbhantaram te gahanam
   Bāhiram parimajjasi
394
   愚かなものよ 髪を結【ゆ】
   皮衣【かわごろも】着て何になる
   おんみら内に欲茂り
   外は見掛けを掃き清む
         (和訳 江原通子)

   愚者よ、結髪が何になる
   そなたに皮衣が何になる
   そなたは内に密林があり
   外を磨いているばかり
          ( 和訳 片山一良) ※『ダンマパダ全詩解説』大蔵出版より

釈尊も苦労しました

 お釈迦さまは、かなり厳しい状況のなかで真理を語られたのです。伝道を始めて間もないうちに、千人以上の方々がお釈迦さまのもとで出家して、阿羅漢になりました。まず、最初に弟子になった五人比丘、富豪の御曹司だったヤサとその友人五十四人、あわせて六十人の阿羅漢が現れたのです。お釈迦様は六十人の阿羅漢方を各地方に伝道活動のために派遣すると、ご自身はウルヴェーラー河の川岸に道場を構えて修行していた千人の行者たちに会いに行きました。彼らのリーダーはカッサパ三兄弟と呼ばれていました。この千人の宗教が何であったかはよく分かりませんが、さまざまな宗教儀式を行なっていたのです。長男のウルヴェーラ・カッサパ師は、自分が覚りをひらいて聖者になっているのだと思っていたそうです。バラモン教には、修行する、覚りに達する、などの習慣はありませんでした。彼らは神々に対して儀式を行なったり、一般人の祈祷・占いなどの儀式を行なったりしていたのです。ですからカッサパ三兄弟は、堕落していたバラモン教には興味がなく、自分の力で真理を発見しようとしていたのではないかと推測できます。

 この三兄弟の目的とするところは、ある程度までお釈迦さまと共通していました。釈尊は「先に真理を覚ったから、同じ目的で修行する方々に真理に達する道を教えたほうがよいのではないか」と思われた可能性もあります。実際、最初期の釈尊は、同じ目的で努力する仲間を選んで効率よく布教をされていました。このように見ると、お釈迦さまは楽々と伝道活動したのではないかと思うことも可能ですが、現実はそうでもなかったのです。

 お釈迦さまを前にして、みんな激しく反発したのです。シッダールタ王子の家来として仕事をしていた五人の仲間でさえも、お釈迦さまが覚ったのだということを容易に認めず、説法さえ聞こうとはしなかったのです。五人が納得してくれるまで、お釈迦さまは時間をかけて説得しました。ウルヴェーラー河岸で修行していた千人の行者たちも同じことで、彼らが釈尊の話を聴く気持ちになるまで、かなりの日時を要したのです。一年以内に1060人の解脱者が現れたというのは驚異的なことですが、伝道活動は決して楽ちんな道ではなかったのです。

不毛の地に拡がる仏教

 お釈迦さまの四十五年間の伝道の歴史には、「どうぞ真理を語ってください。期待しておりました」という好条件は無かったのです。みんな、釈尊を非難・侮辱するための隙を探していました。時々、釈尊に反対するデモまで起きたのです。出家した弟子たちの間でもトラブルが起きたことが仏典に記録されています。ある時、コーサンビー国に住んでいた比丘たちが、互いに喧嘩し始めたのです。サンガの和合がなくなったのです。お釈迦さまが「仲良くしなさい」と自ら教戒したにも関わらず、「尊師には関係のないことなので、介入しないでください」と言い放たれたこともありました。そこでお釈迦さまは、たった一人森のなか、一頭の野生の象と一緒に三ヶ月間も過ごしたのです。このような出来事がいくら起きても、仏教は急速にインド社会に拡がったのは事実です。それには幾つかの理由が考えられます。

理由(1):探求精神

 古代インドの精神世界を牛耳るバラモンカーストの人々は、権力と財産を得る目的で宗教を使っていました。精神世界はバラモンだけの特権だと吹聴していたのです。一方、王家の人々と一般人の間に、バラモンの権威に反対する運動がじわじわと現れてきました。自分自身で精神の安らぎを探し求める宗教家が次から次へと現れて、たくさんの宗教哲学が提唱され始めたのです。宗教家の間では、教義論争が普通の習慣になりました。精神の安らぎを求めた活動は、その目的に達することなく、新たな悩みを生み出したのです。誰も納得する答えには辿り着けずにいましたが、「真理とはなんなのか?」と探し求める興味の炎は消えていなかったのです。

 お釈迦さまが、「私は真理を発見しました。解脱に達して苦しみを乗り越えました」と発表すると、人々のあいだに「この人の話も聴いてみよう」という気持ちが起きたのです。それも素直に聴くというよりは、釈尊と議論してその教えを論破する目的で聴いていたのです。しかし、釈尊が語ったのは哲学思想ではなく、真理なのです。真理を論破することはできません。人々が探究の精神を持っていたからこそ、仏教は急速に拡がったのだと言えます。とはいえ、これも恵まれた環境ではなかったのです。

理由(2):開放された真理

 宗教の教えは、いくら努力しても閉じられた組織になってしまいます。自分の教えを信じる人びとと、信じない人びとという二つに、社会が別れてしまうのです。インドではカースト制度があったので、新たな宗教であっても、ある特定の社会集団のなかでのみ拡がるのです。違うカーストの人びとは、その宗教組織に入ろうとしません。宗教家もさまざまな行儀作法・修行方法を実践していたので、一般人はそれを好んだり嫌がったり反対したりしたのです。

 そこでお釈迦さまが、完全に開放された真理を説き明かしたのです。社会の常識を破る儀式・修行方法などは、まったく無し。真理を聴くために、人のカーストも性別も年齢も知識レベルも財力も社会的地位も問わなかったのです。条件はたった一つです。「あなたは精神の安らぎを素直に求めているでしょうか?」

理由(3):信じるのではなく納得する

 宗教の欠点は「信仰」です。どうしても証明することが不可能な何らかの概念に基づいて説法するのです。証明不可能な概念と言えば、創造論、魂の存在、死後に行けるはずの永遠の天国、神などです。あまり知られていない宗教概念もあります。一つは生命が持っていると信じられている魂を色分けすること。それから、魂が生まれ変われる回数が決まっていること。個の魂が汚れを落としたならば、親分の魂と一体になること、などです。どのように踏ん張っても、これらの宗教概念が正しいと証明することは不可能です。証明しようとすると、矛盾になってしまうのです。

 分かりやすい例を出します。「証拠がないので、私は創造論を信じません」と言ったとしましょう。創造論を信じる人は、「あなたがここにいること自体が証拠です」と言います。誰かが創造しなかったら、物事は存在しないからです。この理論にある矛盾は、①もし森羅万象が誰かに創造されたならば、被造物である私にその事実を発見することは絶対不可能です。②もしどなたかが「私は汝を創造したのだ」と言っても、それは嘘です。「あなたを創造したのは誰ですか?」という疑問が起こるからです。③「創造がなければ存在は無い」という定理を作る前に、創造こそが存在の理由であると証明しなくてはいけないのです。④創造されたものなのに、進化するのです。創造されたまま、現象が止まっていないことも、創造論がはらむ矛盾です。

 宗教家は勘違いして、そういう類の無駄な議論をしているのです。「自分が説く宗教概念が正しいと証明することは不可能です」と正直に認めれば、話は簡単だと思います。

 宗教に興味を持つ人々は、ある特定の宗教概念を信仰しなくてはいけないのです。自分の信仰は正しいかもしれません。あるいは間違っているかもしれません。どちらかと分かる方法はないのです。ですから、宗教を持っている人間はみんな、「不治の疑問」を持ち続けなければならないのです。

 お釈迦さまは、「証拠がある」ということを大事にするのです。調べようともしないで話を鵜呑みにすること、信じることを禁止するのです。ですからブッダの話を聴く人には、議論する自由があります。釈尊を質問攻めにする自由があります。納得しないことを認めない自由があります。お釈迦さまは、「自分の教えを信じるのではなく、納得に至るまで徹底的に調べなさい」と説かれるのです。ですから、仏教徒になった人々には「不治の疑問」という病気は無いのです。

 何かに納得したならば、その人々は精神的に安定します。強くなります。世界の批判などに対応できる力を持っているのです。ですから仏教徒は、他宗教を信じる方々より精神的に強かったのです。お釈迦さまでなくても、仏教徒には自分が実践している教えを他人に教えてあげることができたのです。

理由(4):今生で確かめられる

 宗教の次なる欠点は、目指す目的なのです。目的に達するのは、死後です。自分の信じる宗教が正しいか否かを確かめるために、死ぬまで待たなくてはいけないのです。常識的な人間なら、「死んでから分かる」話に乗らないはずです。しかし人類は宗教に乗っているのです。人々が喜んで乗っているというより、宗教組織が人々の精神を拉致しているのだと言ったほうが正しいかもしれません。

 仏教が説く目的は、死後の永遠の天国ではなく、解脱です。覚りです。解脱とは何かと一般的に分からないので、「解脱とは一切の悩み苦しみを乗り越えた状態である」と説明されます。「精神の完全たる自由」という言葉で説明することもできます。経典では、「為すべきことを為し終えた」「修行を完成しました」「これ以上、為すべきことは何もありません」「自由になりました」などなどのフレーズを使っています。

 自分のこころが解放されたか否かは、自分で分かることです。悩み苦しみが消えたのか否かも、自分で分かるのです。ブッダの実践方法は信仰的ではなく、精密に科学的なのです。ですから、実践すると間もないうちに真理に達します。教えが正しいか否かを死ぬ前に確かめられるからこそ、一般人は他の宗教よりもブッダの教えに興味を抱いたのです。

その他の理由

 釈尊と弟子たちの生活習慣、釈尊の説法の仕方、人の如何なる質問にも丁寧に答える態度、俗世間で起こる日常的な問題にも解決策を持っていること、時代を経ても教えが古くならないこと、すべての生命に対して無制限の慈しみを実践すること、政治世界・経済世界・学問の世界・日常の生き方、いずれもブッダの教えが使えること、などなど理由はたくさんありますが、この辺で省略します。

一番の難関

 「ブッダの教えは宗教ではない」ことが、仏教を拡げるうえで一番の難関なのです。シッダールタ王子は出家して、宗教家の仲間に入りました。宗教のお世話にならず、自分一人の努力で真理を発見したのに、世界はお釈迦さまが宗教の仲間から脱出したことを認めないのです。もし釈尊が在家に戻って真理を語ったならば、仏教は宗教ではないと思われたことでしょう。しかし、一切の煩悩を断った釈尊は、煩悩の衝動で生きる俗世間に戻れないのです。肥溜めから抜け出した人が、再び肥溜めに身を沈めるはずはないのです。

 世界は「釈尊も宗教家の一人である」と固く信じているのに、お釈迦さまは信仰となんの縁も無い科学的な教えを広めなくてはいけなかったのです。それから、地球は平らであると思っていた時代に、宇宙は無限の広がりを持つと説かなければいけなかったのです。お釈迦さまの時間間隔は、日夜に限られたものではありません。時を数える単位は、ひとつの宇宙(もしかすると太陽系かもしれません)が現れて消えるまでの時間(劫)なのです。現代的な知識を持っているならば簡単に語られる事実を伝えるために、さまざまな比喩やエピソード、例え話などを駆使しなくてはいけなかったのです。

 一般人にいちばん分かりにくい難解な教えは、因果法則です。一切の生命も、物理的な宇宙も、因果法則によって一時的に成り立っているものです。「人間は死にますが、神になったら死なない生命体になります」と信じていた人々に、因果法則に沿った無常論を説得することは、不可能に近い仕事です。物質の因果関係をある程度発見することで、現代科学があらわれているのです。しかし科学者は、因果法則のすべては発見していません。特に、こころに関わる因果法則を発見する努力は、いまだに行われていないのです。お釈迦さまは、現代的な科学の思考が無かった次代に、完成された科学を説き明かさなくてはいけなかったのです。

 昔も今も、知識は五根から入る情報を合成することで成り立っています。正しく言えば、知識とは真理ではなく、捏造した主観なのです。お釈迦さまはこの捏造した主観の壁を破って、ありのままの真理を説かなくてはいけなかったのです。お釈迦さまが行なった仕事は、人間にも神々にもできる業(わざ)ではありません。正覚者であるブッダにしかできない仕事なのです。

 現代の仏教学者は、自由にブッダの教えを研究します。しかし、その研究者たちにも、仏教とはどのような教えかと結論づけることはできないのです。「仏教は哲学です」「仏教はどのように生きるべきかと教える処世術です」「仏教も宗教です」「仏教は心理学です」などなどと言っています。現代社会でも仏教は宗教にカテゴライズされているので、この難関はいまだに残っているのです。

宗教と仏教の違い

 宗教は信仰の世界です。「死後、永遠になる」と信じて修行する世界です。宗教家は、魂があると信じていても、こころの働きをまったく理解してないのです。研究する興味さえ持ってないのです。こころの働きは、大学の心理学研究所で学ぶもので、魂を浄化する作業は教会で行なうべきものだそうです。

 魂を浄化するために、さまざまな儀式・行儀作法があります。魂が実在するか否かを実証することはできないので、好き勝手に行儀作法を決める自由があるようです。水で魂を清める。火で魂を清める。断食して魂を清める。特定の食事を摂って魂を清める。祈ること、苦行することで魂を清める。洗礼と懺悔をすることで魂を清める。一般社会から完全に隔離された生活をすることで魂を清める……などなどの方法が無数にあるのです。

 常識的な服装を身に纏わないことも、魂を浄化する一つの方法です。方法はいくらでも考えられますが、根本的に間違っています。魂が実在するか否かを誰も知らないのです。ブッダは明確に、「永遠不滅の魂は存在しない」と語られています。すべて因果法則なので、すべての現象は無常です。

 ある日、お釈迦さまが一人の螺髪を結った行者に出会ったのです。螺髪を解いて洗ったりはしないので、頭はシラミだらけです。彼はけっこう苦しんでいたことでしょう。また、服の代わりに鹿の皮を纏っていたのです。鹿の皮は、硬くて着られるものでもありません。鞣(なめ)すこともしないで、自然のままの皮を着なくてはいけないのです。現代的な革ジャンを着て、革パンツを履いていても、修行しているとは言えないでしょう。この行者は、「自分は真面目な修行者である」と傲慢な態度でいたのです。

 お釈迦さまにしてみれば、その人がやっていることはなんの意味も持たない無駄な行為です。鹿の皮を着て、汚い身体で苦労しても、存在もしない魂が浄化されるはずはないのです。結果は、精神的に悩むことだけです。苦行する自分を苦行しない俗世間と比較して、傲慢になっているのです。こころのなかは、怒り・嫉妬・憎しみ・傲慢・無知などで激しく汚れています。そこでお釈迦さまは、彼にこのように語りかけるのです。「あなたの螺髪にはなんの意味もありません。あなたが着ている鹿の皮にはなんの意味もありません。あなたのこころには藪が茂っています。あなたは見かけを整えようとしているだけです。」

 この言葉にも、宗教的な世界を背景にして科学的な真理を語ることの難しさを感じます。老いて壊れてゆく肉体を整えても、なんの意味もありません。人々は、こころを清めるべきです。こころを清める前に、こころがどのように汚れているのか、なぜ汚れるのか、汚れはどれぐらいあるのか、などを明確に知ってから、こころ清らかにする実践に励むべきなのです。

 宗教は、外のみかけを気にする儀式・儀礼・祈祷・供養・祈り・信仰・迷信の神秘的な世界です。仏教は、宗教的なものに一切頼らず、こころを整えて清らかにする具体的な世界です。

今回のポイント

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