パティパダー巻頭法話
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No.249 (2015年11月)
差別と区別の違い

 ~心清らかな人は優れている~
 Difference and discrimination
A・スマナサーラ長老     
◎今月の巻頭偈
Dhammapada Capter ⅩⅩⅥ Brāhmanavagga
ダンマパダ(法句経) 第26章 婆羅門の章

396.
   Na cāham brāhmazam brûmi
   Yonijam mattisambhavam
   Bhovādi nāma so hoti
   Sace hoti sakiñcano
   Akiñcanam anādānam
   Tamaham brûmi brāhmanam
396.
   母より生まれた胎生者を
   バラモンなりと、私は呼ばず
   かれがもしも所有するなら
   「君よ、と呼ぶ者」となる
   無一物にて無執着の者
   かれを私はバラモンと呼ぶ
           (和訳 片山一良※)
      ※『ダンマパダ全詩解説』大蔵出版より

個 性

 誰でも皆、「私はあなたたちと違います」という思いを持っているのです。自分のアイデンティティ、個性、というのはこの気持ちです。当然、一切の生命に個性があります。性格が似ているケースはいくらでもあるが、決して同一にはならないのです。性格が同一にならないということで、皆いろいろな問題を作ります。

ややこしい自己愛

 いちばん困る問題は、自分が他人より上だと思うことです。すべての生命に自己愛があります。この世の中で何よりも、自分のことが好きなのです。「あなたのためなら死んでも悔いはありません」と言うのは、嘘です。あり得ないことです。自己愛はふつうの現象です。それが少々変化して、自分が他人より優れているか、上だと思うようになるのです。それは生命の気持ちであって、感情なのです。ですから、客観的にデータを調べて達する結論ではないのです。要するになんの理由もなく、自分は他人より上なのです。誰にでも微妙にあるこの気持ちが拡大すると、大きな問題になります。自我を張ったり、他人に迷惑をかけたり、他を見下したり、社会を非難したり、悪を犯したり、最終的に自害することまでするのです。

自我の錯覚と慢のあらわれ

 自分が上だという気持ちは、別な方向にも展開します。例えば、自分が上だと思っていたのに、周りの人々がより優れていると見えてきます。そのとき、自己嫌悪に陥ります。自分が優れていたという気持ちがなかったならば、自己嫌悪に陥る必要はないのです。自分にそれほど大した立場がないと感じる人々は、別な手段を執る場合もあります。自分より優れていると思える社会の人々を指して、「私もこの人と似ているのだ」という気持ちを作るのです。自分が優れているのだという気持ちが壊れたので、この態度を執って自分の気持ちを修復するのです。

三種類の慢

 自己愛は仕方がありません。そのまま置いておけば、自己愛は人間の向上を支えてくれます。しかし自己愛は簡単に、自我を張るという間違った感情に変わるのです。この自己愛の変化に、仏教用語で慢と言うのです。慢は過慢、同等慢、卑下慢という三種類になります。自己愛は瞬時に自我に変身して、自我が三種類の慢に変身するのです。自我の気持ちは、覚りに達していない一般人に必ずあります。それから自我の気持ちは慢に変わります。ひとりの人間が、時に過慢になったり、同等慢になったり、卑下慢になったりするのです。私たちは回数の多いほうで人を判断します。過慢に陥る回数が多い人は、傲慢な性格だと言います。同等慢の回数が多い人を見ると、他人の気持ちを理解する人だとラベルを張ります(これは間違ったラベルです)。卑下慢に陥る回数が多い人には、自信を持てない人、勇気がない人、おどおどした人、などなどのラベルを張ります。ひとに対する社会の評価は、正確ではないのです。見た目の判断なのです。芸術世界で悪役ばかり演じる人を見て、ふだんも怖い人間だと思ってしまうような感じです。

差別感情に支配されている世界

 自我が差別の始まりです。自我の気持ちがあると、当然その人は、他の生命を差別意識で見るのです。人間には、区別と差別を見分ける能力がないのです。認識できるのは区別です。区別は現実です。しかし私たちは、区別を認識して差別意識を作ります。差別は世に存在するものではありません。心の中に起こる錯覚です。区別データを差別感情に捏造する危険な認識システムは、覚りに達しない限り、直らないのです。

 差別病にかかった人々は、他の生命を差別するために、自分が他と違いますと言うために、いろいろ理由を探すのです。差別を正当化したいのです。差別感情は精神的な病であると理解していないのです。わかりやすく言えば、この世では民族差別・人種差別が根強いのです。口先だけでよくないと言っているが、この問題は治らないのです。次に酷いのは宗教差別です。自分が信仰する宗教以外の人々を差別するのです。それから、宗派差別もあるのです。同じ宗教なのに、互いに殺し合いを行なうまでに宗派差別はエスカレートします。次に政治差別があります。政治思想に基づいて、デモ、攻撃活動、破壊行動、武力闘争、戦争などが起こるのです。次にあるのは経済差別です。豊かな人々は貧しい人々を軽視します。貧しい人々は豊かな人々を怨みます。これは個人だけに限った問題ではないのです。国同士でも、経済差別があるのです。

 これだけの問題でも精一杯ですが、人間はさらに差別感情を拡大するのです。エリート層と一般人、有名人、芸能人、人気者、美男・美女、老年層・若年層、既婚者・独身者、定職がある・無職、都会人・田舎者、モテる・モテない、などなど沢山の単語があります。それらの言葉は、区別するためではなく差別する目的でも使うのです。よくあるイジメは、差別感情の結果です。

カースト制度

 お釈迦さまは、差別は正しいと思っていた社会に生まれたのです。当時のバラモン教は、神(ブラフマ)が四種類に分けて人間を創造したのだと説いていました。人間の社会に現れる区別を宗教的な説明で不動のものにして、出自差別を正当化したのです。その結果、バラモン教では、不動のカースト制度が現れました。人々は自分が生まれたカーストに与えられた仕事以外、何もやってはいけないのです。もし別な仕事を選んだならば、それは神を冒瀆したことになります。使用人の両親に生まれたら、一生、使用人として生計を立てなければいけないのです。商売を始めたら、神の定めを犯したことになるのです。

 宗教を職業にしたカーストはバラモン・カーストです。自分のカーストが優れているというために、彼らは「バラモン・カーストは神の口から生まれたのだ」と唱えたのです。学問もこのカーストの仕事でした。当時はすべての学問において、暗記することが重要でした。ですからバラモン人は朝から晩まで、何かを唱えているのです。その現象を見る一般人も、神の口から生まれたという言葉に違和感を憶えなかったでしょう。

お釈迦さまの差別否定

 お釈迦さまは差別感情に反対なのです。自我の錯覚を無くす道を説かれたのです。自我の錯覚が無くなったら、一切の差別感情は消えるのです。また、社会にある差別も批判しました。個人個人の能力に適した仕事を選んで生計を立てるべきという立場をとったのです。ひとが出家を求める時は、カーストを問わなかったのです。出自ではなくて、精神を育てる能力があるか否かを調べるのです。生命は輪廻転生するという立場から考えると、すべての生命は平等です。いまの生まれは一時的な現象に過ぎないのです。ですから、一切の生命を慈しむべきであると説かれたのです。ひとは生まれた家に、生まれた地方に、一生束縛されなくてはいけない、という立場も否定したのです。自分の能力を活かせるところに住むことが、幸福になる原因の一つであると説かれたのです。

 人々の知識はさまざまです。経験も理解能力もさまざまです。ですから、お釈迦さまの教えを理解する時に、差が現れるのです。学識のある一部の出家は、この現象を心配しました。如来の教えが誤解されては困ると思った彼らは、ブッダの説かれた教えもヴェーダ聖典と同じく人工語(古いサンスクリット語)で編集したほうがよいのだと提案したのです。しかし、お釈迦さまはこの提案に反対したのです。仏教をある一つの言語に限ってしまえば、他の人々にそれを理解する機会が無くなります。教えは人類に平等に開放しなくてはいけないのです。ですから、ブッダの教えを自分の言葉で学ぶことも理解することも許可したのです。差別意識は、こころが煩悩で汚れていることの結果です。仏教はいかなる場合も、差別は認めません。

区別能力を育てて差別感情を無くす

 差別は認めないが、区別を否定するわけではないのです。学ぶとは、区別できる能力を育てることです。人間も一人ひとり違うのです。優れた区別能力がある人にだけ、どのように違いますかと明確に言うことができるのです。一般人にはできないことです。お釈迦さまも、優れている人とそうでない人という区別をされたのです。

 優れた人のことを阿羅漢というのです。聖者です。供養に値する、人類が従うべき存在です。このような人格者に、(真の)バラモンという言葉も使っていたのです。

 ある時、「仏弟子たちは真のバラモンになる目的で修行するのだ」という話を耳にした一人のバラモンが、お釈迦さまを訪ねました。彼は釈尊に向かって、自分も正真正銘のバラモン人である、と告げたのです。もしかすると、「あんたがたは、苦労に苦労を重ねてバラモンになろうとするが、われわれは生まれつき聖者でありバラモンである」という批判をしたかったかもしれません。

優れた人間とは?

 お釈迦さまは、このように説かれます。
「バラモン家の女が産んだからと言って、人はバラモンになりません。この世に対して強い執着を持って一般人として生活するならば、その人はただ『○○君』と呼ばれるだけの話です。いかなるものにも執着しない、なにものにも囚われない心を作った人こそ、真のバラモンである」と説明してあげたのです。

 この世には、優れた人間もそうでない人間もいるのです。生まれ、知識、財産、権力、などでは優れた人間になりません。決め手は、行ないなのです。悪行為をする人は悪人です。善行為をする人は善い人です。煩悩にまみれて汚れた心で生活する人の人生は卑しいのです。煩悩の働きが少ない分、優れた人間になるのです。煩悩を無くす道を歩む人びとは、聖者(真のバラモン)になる道を歩んでいるのです。煩悩を無くした人は、最高に優れた人です。

 せっかくの人生なので、清らかな心を育てましょうと誰でも努めるべきです。怒る人よりは、怒らない人のほうが優れているのです。

今回のポイント

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