パティパダー巻頭法話
Sabbe satta bhavantu sukhitatta
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No.250 (2015年12月)
聖者は束縛を断ち切る

 ~存在欲とは脅しです~
 Enlightened mind
A・スマナサーラ長老     
◎今月の巻頭偈
Dhammapada Capter ⅩⅩⅥ Brāhmanavagga
ダンマパダ(法句経) 第26章 婆羅門の章

396.
   Sabbasamyojanam chetvā
   Yo ve na paritassati
   Sangātigam visamyuttam
   Tamaham brûmi brāhmanam
397
   一切の縛 断ち切りて
   惱みおそれの更になく
   執着をこえとらわれず
   そをバラモンと我は説く
      (和訳 江原通子)

   すべての縛りを断ち切って
   決して動揺することのない
   執着を超え、縛りのない者
   かれを私はバラモンと呼ぶ
      (和訳 片山一良※)   ※『ダンマパダ全詩解説』大蔵出版より

 解脱に達する、覚りをひらく、とはどういう意味でしょうか? 阿羅漢になる、人間を超越して聖者になる、とはどういう意味でしょうか? 今月はその意味に挑戦してみたいと思います。

思考とは概念の掻き回し

 私たちが知りたがるのは、聖者たちの精神状態です。しかし、煩悩に汚れている心には、真理を知る能力は無いのです。ひとが思考するのだと自慢しても、結局やっているのは自分の主観に基づいた思考・妄想の回転なのです。ただ考えたからと言って、新たな智慧が現れるわけではありません。考える人は、今まで自分の心の中で持っていた概念をかき回して、形の違う概念を組み合わせるだけのことです。子供のレゴブロック遊びを考えてみましょう。持っているレゴブロックを好き勝手に組み立てるだけの遊びです。何を組み立てても、同じレゴブロックです。レゴブロックで「家」を作っても、そちらに家らしいものは何もないのです。家が持つ機能の何ひとつも備わっていません。「よくできました」という気持ちが済んだら、ブロックを外して元の箱に収めなくてはいけないのです。

 思考を駆使して新たなアイデアを生み出すことは、レゴブロックの遊びと似ているのです。ですから、聖者とはどのようなものかと理解することは、五根(眼耳鼻舌身)の情報に基づいて思考する人には不可能なことです。しかしレゴブロックで「家」も作れますから、私たちにも似たような思考の組み合わせで、聖者とは何者かと推測することができます。レゴブロックで組み立てた「家」は、本物の家と全く違うものです。聖者に対する私たちの理解も、似ても似つかないものだと思ったほうが、誤解しないで済みます。

知っているところから未知に挑戦

 お釈迦さまは、覚者と解脱について語る場合に一つの手段を使うのです。解脱のことは人間に理解できません。煩悩でできている人間の脳の中で、解脱を理解する概念は存在しないのです。言葉とは、概念に張るラベルなのです。ですから、解脱の境地を説明できる言葉も存在しないのです。私たちは、私たちのことなら知っています。世間のことなら知っています。解脱者は世間の次元を乗り越えたので、何を乗り越えたのかと説明することができます。例えば、私たちには怒りが現れる。それに対して、解脱者は怒りを滅尽しているのです。ですから、怒りの滅尽者とは、解脱に達した人のことです。

 それでお釈迦さまが使われた手段が分かりましたでしょうか? 私たちに理解できる精神状態を説明して、解脱者はそれを乗り越えているのだと説く方法です。これはウパニシャッド哲学みたいに、否定形を使って説明する義務から逃げているのではありません。解脱者の説明をするときは、「私たちもこのように実践するべきです」という戒めが入っているのです。ですから解脱者に関する話を聴いたら、分かったつもりで高慢になるのではなく、謙虚に精進する意欲を作らなくてはいけないのです。

断ち切れない存在欲

 ではお釈迦さまの説明に入りましょう。「Sabbasamyojanam chetvā 一切の縛 断ち切りて」とあります。Samyojana とは、束縛のことです。束縛とは何でしょうか? 私たちは、存在し続けなくてはいけない、という情況に追い込まれているのです。簡単な言葉でいえば、生きていかなくてはいけない、という気持ちのことです。その理由は私たちには分かりませんが、生きていきたい、死にたくはない、という気持ちだけは確かなものです。もし誰かが、「なぜあなたは生きていきたいのでしょうか? なぜ死にたくないのでしょうか?」と訊かれたら、正直に答えられないのです。あたりまえのことを訊くから、おかしな質問だと思ってしまうのです。あたりまえの質問であっても、答えがあるはずです。別なあたりまえの質問を考えましょう。「なぜあなたは呼吸しているのでしょうか?」これには簡単に答えられるでしょう。

束縛に気づかない

 なぜ生きていきたいのかと問われたら、そのとき初めて私たちは、いろいろな理由を考えるのです。「生きていれば面白いです。生きることには何か大事な意味があります。生きることは楽しいのです」などなどの答えを考えるのです。これらはそのときの気持ちで妄想して出す答えであって、真剣に考えて言うものではないのです。要するに、生きていきたいという気持ちは確かですが、なぜそう思うのか、ということは分からないのです。お釈迦さまは、束縛という正解を出します。しかし私たちは、「え、束縛? なんだそれは」という気持ちです。それは釈尊を軽視する気持ちではないのです。束縛されていることに気づかないのです。囚人の女性が刑務所で子供を産んで育てても、その子供は刑務所にいることが分からないのです。自分が住んでいる家だと思っているでしょう。生命は無始なる過去から、束縛されているのです。ですから、分からないのです。

束縛が誤解を招く

 理解できるように、レベルを下げて説明しましょう。私たちに、眼、耳、鼻、舌、身、意という感覚器官(六根)があります。ですから、見たいでしょう。聴きたいでしょう。香りをかぎたいでしょう。味を感じたいでしょう。身体で感じたいでしょう。頭でものごとを考えたいでしょう。それなら、見られるもの、聴こえるもの、香りのあるもの、味わえるもの、触れるもの、考えられるもの(概念)に頼らなくてはいけないでしょう。それらから、離れられますか? 離れられませんね。ほら、束縛です。生きるとは、このように刺激を受け続けることです。この刺激によって、心が生滅という波をうって回転するのです。

 心は、何の刺激も受けない、という状態は理解できません。心の定義は、対象を認識することです。それなら、対象に触れないならば、心があるとも言えなくなるのです。私たちの心には、対象に触れないという瞬間は一つもないのです。ですから、ずーっと心があるような錯覚をしています。それに「私、私という実体、いのち、タマシイ、霊魂、soul,spirit, ego, anima」などなどの言葉を使っているのです。心は瞬間瞬間に生まれては消えますが、消える瞬間に新たな対象を認識して、新しい心が現れるのです。心には、認識せざるを得ない、という欠陥があります。その欠陥に「束縛」と言うのです。

愛着を発見しましょう

 束縛の説明は難しかったので、現実的に私たちに理解できる束縛について学んだほうがよいのです。まず、自分の身体に束縛されている。身体に愛着があると言ったほうが分かりやすいのです。愛着があるとは、束縛があるということです。財産に愛着がある。知識に愛着がある。家族にも、ペットにも愛着がある。国にも愛着がある。食べるものにも愛着がある。見るもの、聴くものなどにも愛着がある。遊びにも、旅行することにも愛着がある。愛着があるものは、いくらでもあるのではないでしょうか? 愛着があるところに、束縛がある。愛着がない、という状態は理解できません。ですから私たちが「愛着が無くなった」と言う場合は、実は愛着が無くなったのではなく、愛着の代わりに怒りの感情が現れたということです。残念ながら、怒りも愛着の一種です。怒りの対象も、心から離れません。愛着があるとは、束縛がある、という意味なのです。解脱者の心は、すべての束縛を断ち切っているのです。

十種類の束縛

 修行の役に立てるために、解脱に達することを早めるために、お釈迦さまが親切に束縛を十種類(十結)に分けて説かれているのです。 (1)有身見sakkāya_ditthi(自分の肉体に対する愛着です。自分の尊い命は肉体である、という誤解。) (2)疑vicikicchā(妄想に対する愛着です。真理である無常・苦・無我・因縁などを理解できず、ああではないか、こうではないかと心が彷徨っている状態。) (3)戒禁取sîlabbata_parāmāsa(儀式・儀礼・決まり・戒などに対する愛着です。) (4)欲貪kāma_rāga(色声香味触に対する愛着です。) (5)瞋恚patigha(色声香味触という対象に愛着できない場合に現れる怒り。) (6)色貪rûpa_rāga(冥想でもして超越した次元≪梵天≫に生まれたいという愛着。) (7)無色貪arûpa_rāga(冥想でもして身体さえも現れない精神だけで生きられる次元≪無色界梵天≫に生まれたいという愛着。) (8)慢māna(自分という気持ちを中心にして物事を認識するという愛着。) (9)掉挙uddhacca(何も明確に認識しないで混沌状態でいたいという愛着。ひとは酔った状態、麻薬を服用した状態、興奮状態が好きなのです。) (10)無明avijjā(これはすべての束縛の親分です。真理とは無常・苦・無我です。それを発見する努力をしないで、ありとあらゆるものに愛着するので、すべての現象に束縛されます。)

束縛の発見と切断

 修行すると真理を経験できるのです。無明が薄くなっていくのです。無明という親分が弱くなっていくと、子分である有身見などが落ちていくのです。解脱を四つの段階に分けて説明しているのは、束縛が四つの段階で断ち切られるからです。預流果に達すると、(1)有身見・(2)疑・(3)戒禁取が断ち切られます。一来果に達すると、(4)欲貪と(5)瞋恚が弱くなります。不還果に達すると、(4)欲貪と(5)瞋恚が断ち切られます。阿羅漢果に達すると、残るすべての束縛が断ち切られます。不還果までに断ち切られる五つの束縛は五下分結、阿羅漢果になるまで断ち切られない五つの束縛は五上分結と名づけられています。

 普通の方々は、束縛が十種類あると分からないのです。それは修行する人が発見するものです。普通の私たちに理解できる束縛は、身体に対する愛着、色声香味触に対する愛着、自分がいるという愛着と、疑です。疑とは面白い束縛です。人々は、神々の話、奇跡の話、超能力の話などを言うと面白がって聴くのです。本当かと訊いたら、知らないのです。本当であって欲しいと思っているのです。それは疑です。ブッダの説かれた真理を聴くと、「そうかもしれません」という程度で止まるのです。それこそ事実だという納得までは行かないのです。それも疑というものです。信じる宗教があれば、その宗教が説く形式的な生きかたに束縛されます。宗教が無い人も、形式的な生きかたを好むのです。誰でも自分が慣れている生きるパターンを変えたくはないのです。これは戒禁取という束縛です。一般人に欲も怒りも理解できますが、修行してそれを断ち切ることはできません。修行すると主観が消えて、理性が現れます。そのとき、最初の三つの束縛が断ち切られるのです。

概念にならない聖者の境地

 聖者が束縛を断ち切ったとは、一般的な言葉でいうと、生きていきたいという存在欲が無くなったことです。生きていきたいという気持ちさえ無ければ、心には悩み悲しみ怖れなどが現れません。心には何の揺らぎも起きません。聖者の心は、人間に理解可能なすべての概念から離れているのです。ですから、解脱者の心はこのようなものである、と指す単語は、どんな言語にも存在しないのです。言語とは、概念に張るラベルなのです。一切の概念から離れた人の心境を語る言葉は存在しません。作ることも不可能です。

 単語があったほうが話しやすいので、釈尊は涅槃という言葉を使ったのです。大乗仏教では、空と無という言葉を使っているのです。単語は存在しないので、無理に単語を作っても意味が通じるわけではないのです。私たちは知っている概念に基づいて、新たな概念を理解しようとするのです。「小さい」という単語を理解してみてください。理解できそうでしょう。しかし理解できません。頭の中にある何かの概念と対照しなくてはいけないのです。ですから、「小さい」の理解は人それぞれです。欲が無い心、束縛が無い心、無執着の心、涅槃を経験した心、などなどの言葉があっても、理解は聴く人の概念によって変わります。ですから、それらの言葉は正しく意味が伝わってないのです。一般の方々は、涅槃・解脱・覚りなどの単語を聴いても、脳の中にある概念を掻き回すだけで、理解に至るわけではないのです。ですからお釈迦さまは私たちに理解できる束縛について語って、聖者の心は束縛の無い心であると説かれるのです。

 束縛のせいで、私たちには限りの無い悩み苦しみ憂い悲しみ不安などがあるのです。心は揺らいでいるのです。落ち着かないのです。生きていると言うよりは、脅迫されて生かされている状態なのです。生きていきたいという束縛さえ無ければ、一切の悩み苦しみ憂い悲しみ不安から解放されます。如何なる条件に遭遇しても、心が揺らぐことはありません。過去に囚われず、将来に期待せず、いま現在にも執着せず、いられるのです。これが聖者の心です。

今回のポイント

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