パティパダー巻頭法話
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No.252 (2016年2月)
自己燃焼

 ~怒りは自己発火装置~
 Anger is inflammable
A・スマナサーラ長老     
◎今月の巻頭偈
Dhammapada Capter ⅩⅩⅥ Brāhmanavagga
ダンマパダ(法句経) 第26章 婆羅門の章

398.
   Akkosam vadhabandhañca
   Aduttho yo titikkhati
   Khantîbalam balānîkam
   Tamaham brûmi brāhmanam

399. 心に瞋り抱かずに
   罵 ののし り、鞭打、縛 ばく に耐え
   心も猛き忍 にんにくしゃ 辱者
   そをバラモンと我は説く

           (和訳 江原通子)


ダナンジャーニーと夫のバラモンの物語

 今月は、怒りに対するお釈迦さまの説法を紹介したいと思います。注釈書では、怒りにまつわる三つのエピソードを引いています。

 ダナンジャーニーという女性がいました。彼女はバーラドヴァージャ姓という高貴なバラモンの妻でした。バラモン教を厳密に守る厳しい家柄の人でありつつ、彼女は預流果に達していた仏教徒だったのです。しかし良い妻として、家の仕来りを守って生活していました。しかし彼女には、クシャミをしても、咳をしても、つまずいても、つい「正等覚者に礼拝します」という仏教徒の決まり文句を言う習慣がありました。クシャミなどをしたら、何か祝福の文句を言うのはインド文化的な習慣です。その時、普通は自分が信仰する神の名前をとなえるのです。ダナンジャーニーがいくら高貴なバラモン家の妻であっても、彼女は預流果に覚っていたので迷信などは一切持っていません。ですから自分自身に対する祝福として、釈尊に礼拝する文句をとなえたのです。

 ある日、その家で、大きな行事がありました。お手伝いで忙しかった彼女は、つまずいてしまいます。そこで反射的に釈尊に礼拝する文句をとなえたのです。大事な宗教行事の真っ最中、外道の師匠を賛嘆したことに対して、夫のバーラドヴァージャ・バラモンが激怒したのです。当時のインド人は、女性とは何の知識も理性もない愚かな存在であると思っていました。夫は、彼女に向かって「おまえの禿頭の師匠を論破して潰してやるぞ」と言い放ったのです。
彼女は「はいどうぞ。できることなら頑張ってみてください」と冷静に答えます。プライドを傷つけられたバラモンは、論破しないで逃げるわけにはいきません。お釈迦さまに会いに行ったバラモンは、このように質問したのです。「ゴータマよ。人々が楽に生活できるために、悩みに陥らないために、突破するべきものは何かと、ずばり一言で述べたまえ。」
 釈尊が答えます。 「バラモンよ。怒りを断てば、楽に生活できる。怒りを断てば、悩みに陥らない。甘美な毒の根になる怒りを突破するべきだと、聖者たちが推奨する。」

 甘美な毒の根とあるのは、怒る時、本人は気分爽快だと勘違いするからです。お釈迦さまは見事にバラモンの質問に「怒りですよ」と一言で答えたのです。自分にも怒りの経験があったので、バラモンはびっくりしました。お釈迦さまの智慧に感銘して、出家して阿羅漢になったのです。

侮辱バラモンの物語

 弟が釈尊のもとで出家したという報せを聴いて、兄のバーラドヴァージャ・バラモンは我慢できなくなったのです。彼は釈尊を非難侮辱することが生活習慣になってしまいました。これは侮辱バラモンとアダ名を付けられるほど酷かったのです。調子に乗った彼は、お釈迦さまに面と向かって非難侮辱したくなって、お釈迦さまを自分の家に呼んだのです。お釈迦さまは何のことなく、家を訪れました。その時、バラモンは、水一杯さしあげることもなく、派手に釈尊を非難侮辱したのです。お釈迦さまは黙って聴いていました。彼が疲れ果てて黙った瞬間に、お釈迦さまが質問します。

「あなたは高貴なバラモンなので、あなたの家を友人・親戚などが尋ねるでしょう。その時、あなたは、ごちそうを作って客を接待するのではないでしょうか?」

「はい、腕によりをかけてごちそうを作って接待します。」

「では、来る予定の友人・親戚たちが突然、来られなくなったら、あなたはあのごちそうをどうしますか?」

「それなら、ごちそうはもったいないので、私と妻と子供たちで食べます。」

バラモンの言葉を聞いた釈尊は、次のように返しました。

「あなたが私を招待したのです。あなたが私に対して非難侮辱という接待をしたのです。しかし、私はその接待を受け取れないのです。ですから、自分と自分の家族と御一緒に、この接待をご賞味ください。」

 この答えで、バラモンの目が醒めたのです。なんの罪もない人を非難侮辱すると、その呪いの言葉が反射して自分に降りかかるのだというのは、インド文化の常識です。バラモンは自分自身で自分を破壊していることに気づいたのです。その人も出家して、後に阿羅漢になったのです。

 ひとを侮辱して貶すのは、このバーラドヴァージャ系の習慣のようです。スンダリカ・バーラドヴァージャとヴィランヴィカ・バーラドヴァージャという二人の弟がいたのです。彼らもお釈迦さまを侮辱しようとしたところで、うまく行かなかったのです。二人とも、お釈迦さまのところで出家する結果になりました。性格は悪かったかもしれませんが、かなり知性のある人々でしたので、皆、阿羅漢になったのです。

怒ったときは脳が閉じられる

 怒りに感染したら、それは精神病に罹ったことです。怒っている人には、理性的な話は通じません。怒ったときは脳が閉じられるので、人のアドバイスなどは入らないのです。自分の心のなかに現れた怒りを回転させて、自己燃焼するのです。脳にとっては、とても危険な情況です。脳が自己燃焼プログラムをカットした場合は、怒りも収まります。ひとが怒っても、時間がたつと怒りが無くなるのは、そのためです。それは能力だと勘違いしてはいけません。誰だって一生、怒っていることは不可能です。やりきれないから、脳が怒りのプログラムをストップするだけの話です。お釈迦さまが推奨するのは、自分で意図的に怒りを収めることです。それは自分の能力になります。怒りが起きたら、決して自然に消えるまで待ってはならないのです。自分の意志を使って、怒りを消すのです。これを繰り返すと、怒りに汚染されない人格が現れてくるのです。

他者の怒りを収めたいなら

 怒った人の怒りを収めてあげることは、普通の人々にはできないのです。普通の人々も、怒る性格を持っているからです。「あなたは何で怒っているのか?」と相手に訊く場合も、自分が相手の怒りに対して怒っているのです。ですから、その質問も怒りの炎の燃料になるのです。他人の怒りを収めてあげたいなら、自分に怒りに打ち勝つ能力が必要です。ですから、個人個人が怒りを収める訓練をすることが、周りの幸福にも繋がるのです。「怒れない人」がいるならば、周りの人々もその間では怒らなくなるのです。怒った人の怒りを収めてあげることも、怒れない人にしかできないことです。

怒り症に共通する特色

 上に述べたエピソードを読むと、お釈迦さまは怒りが習性になっていた人々の怒りを、いとも簡単に無くしてあげたことが分かります。しかし怒ってしまう弱みがある私たちには、その真似はできないでしょう。ですから私たちは、自分の心のなかに現れてくる怒りの火種が大きくなる前に、消してしまう訓練をしなくてはいけないのです。怒り症になっている人々に共通する特色があります。それは、「私は正しい。相手が悪い」という気持ちです。病気を治したければ、決して怒りを正当化しないことです。必要悪とは、愚か者の考えです。悪結果を出すエネルギーに、悪というのです。悪い結果は決して必要ではありません。ですから、必要悪とは、成り立たない妄想概念です。

いつでも損をするのは怒った人

 このような情況を推測しましょう。誰かが自分の玄関のベルを鳴らす。ドアを開けて「なんでしょうか?」と訊く。その時その誰かが、自分を力いっぱい殴って、もしかすると怪我もさせて、帰ろうとする。自分が知っている人ではありません。それなら、相手に対して怒るでしょう。自分がなにも悪いことをやってないのに、殴られて怪我をさせられる理由はありません。相手が悪いのです。しかし、このような場合でも、自分の怒りを正当化するべきではないのです。ただでさえ殴られて痛いのに、怒りを抱くことで、さらに一生治らない精神的な傷を受けるはめになるのです。その怒りは自分の幸福を壊します。死後も不幸に陥る可能性があります。しかし、殴った人はそこまで考えていなかったでしょう。もしかするとその人は、ふざけて程度の悪いイタズラをする気持ちでいたかもしれません。あるいは精神的な病人かもしれません。ですから、損するのは加害者ではなく、怒りを抱いた被害者なのです。

ノコギリの喩え

 怒りを収める方法として、お釈迦さまは出家に「ノコギリの喩え」を説かれています。「凶暴な人々が自分を捕まえて、逆立ちさせてノコギリで切断するとしましょう。そんな時であっても、凶暴な人々に対して怒りの気持ちが起きたならば、あなた方は私の教えを実行していない者になる」とお釈迦さまは説かれたのです。それは、怒りがどれほど自己破壊的な感情であるかと教えているのです。

ナーラーギリ象の物語

 お釈迦さまに出会ったら、どんな人も落ち着くのです。お釈迦さまを暗殺しようとした人が、象軍のナーラーギリという象に酒を飲ませ、いじめて怒りに狂わせて、お釈迦さまが托鉢に出た町に放ちました。人間はみな逃げましたが、お釈迦さまはそのまま歩いて進 んだのです。ナーラーギリ象に「なんでお前は怒っているんだい? カッコ悪いよ」と 言っただけです。象はお釈迦さまの前に跪いて礼をしました。ひとが怒っている時は何の話も通じないのに、お釈迦さまはそれでも見事に落ち着くようにしてみせるのです。釈尊の「人を落ち着かせる能力」について比丘たちが話し合っていたところで、お釈迦さまがその方法を教えてあげたのが今回の偈です。

怒りを収める方法

  「ひとが他を非難侮辱する。また暴力を振るう。その場合は、怒りを抱かないで忍耐をす るのです。忍耐を訓練して、力 ちから になるまで育てるのです。自分の力が忍耐である人は、聖者であると私は説きます。」という説法をなさったのです。怒りに対して、お釈迦さまは忍耐を推薦しています。忍耐とは、我慢することではありません。パーリ語でkhantīと言って、これは心が落ち着いている状態なのです。我慢する人の心は、落ち着いていないのです。落ち着くとは、実践して育てるべき能力です。我々の脳は、簡単に興奮してしまうのです。身体に入るデータを自分の都合で捏造することは脳の仕事です。自分の都合で捏造することが出来なくなったら、混乱状態に陥るのです。怒りはそのとき現れる反応なのです。自己防衛のつもりで怒りの反応をするが、それは自己破壊の結果になります。

捏造をやめたら心が落ち着く

 物事をありのままに観察することができれば、心は落ち着きます。要するに、捏造をやめたら心が落ち着くのです。ありのままに観ることに成功すれば、一切の現象は無常・苦・無我であると発見するのです。一切の現象は無常・苦・無我であると発見した人に、心が興奮する理由は成り立たないのです。それでやっと、忍耐を確立したことになります。ですから、「忍耐が力になった人こそが聖者なり」と説かれる時は、忍耐と解脱を同義語にしているのです。ひとが解脱に達したならば、周りにいる人々も怒りの炎で燃えなくなるのです。周りにいる人々も、安らぎと幸福を感じるのです。というわけで、怒りを収める実践に挑戦しましょう。

今回のポイント

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