パティパダー巻頭法話
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No.253 (2016年3月)
知識の限界

 ~知識はこころを汚す~
 Knowledge cannot reveal truth
A・スマナサーラ長老     
◎今月の巻頭偈
Dhammapada Capter ⅩⅩⅥ Brāhmanavagga
ダンマパダ(法句経) 第26章 婆羅門の章

400.
   Akkodhanam vatavantam
   Sîlavantam anussadam
   Dantam antimasārîram
   Tamaham brûmi brāhmanam

400. つつしみありて戒を持し
   瞋ることなく欲増さず
   最後身をば保つ人
   そをバラモンと我は説く

           (和訳 江原通子)

知識の役目

 人間の知識は、生きることを支えるために現れるものです。知識は生まれてから徐々に育てて増やしていくものです。高度な知識を持っている人と、最低限の知識を持っている人との間に、それほど差はないのです。知識は豊富であろうが貧困であろうが、知識の目的とは、この身体を存続させることです。どうすれば楽に生きられるのか、何が命に危険なのか、という二種類に知識は分けられます。自分の存続に何の関係も無いものを知ることは不可能です。

 人間は地球上の他の生命より、膨大な量の知識を育ててきました。そのために、知識は単純に存続を目的にしているのだということを忘れているのです。例えば、この世で人間に魂があるという考えがあります。それから、魂はどのようなものかと考えて作りだした沢山の魂論もあります。死後のこと、天地創造のこと、創造主のこと、なども考えます。
また、それらは数学・経済学のように、生きることに直接関係あるものではないと勘違いしています。俗世間的な知識と別枠の「精神世界」というごまかしの単語まで使っているのです。

 これは大したアイデアではありません。生きていきたい、死にたくない、だけの気持ちで知識を増やしていく過程で、他の生命が死んでいくという事実も認識するはめになったのです。しかし脳に「自分が死ぬ」という事実を理解することは不可能です。ですから、自分が死なないと自己満足するために、いわゆる精神世界の知識を作りだしたのです。

真 偽

 私たちの知識は、事実であってほしいのです。なぜならば間違った知識で行動すると、命の危険に晒されるからです。そこで「私が知っているものはすべて事実だ」という錯覚を作って、自己満足しようとするのです。しかし生きるために必要な知識が、必ず事実でなければいけないという決まりはありません。嘘の知識も大いに役に立ちます。私たちは芸術作品、映画などを鑑賞して喜ぶでしょう。暇つぶし、楽しみ、感情の掻きまわし、なども生きることを支えてくれます。芸術作品、映画などは、完全な嘘です。しかし誰一人として、「これは嘘だからやめましょう」という気にならないのです。

 いま飽食の時代に生きています。食べるものに対して、有機栽培か否か、賞味期限以内かどうか、あれこれの添加物が入っているか否か、養殖物か天然物か、どこで作られたものか、などなどをやけに気にしますね。その上、何を食べれば癌になるのか、何を食べれば癌予防になるのかも気にします。このような知識は、事実であると思っているのです。
しかし、すべて嘘です。飢餓状態が現れたとしましょう。その時は、添加物が入っているか否かを考えますか?

 いままで食べたこともない木の皮まで食べるようになるし、いままで食べたこともない動物まで食べるのです。要するに、知識のポイントとは「生きられるか否か」です。生きられるならば贅沢思考を育てて、余った時間を埋めるのです。

 私たちは自分を生かすための知識を取り入れているだけです。真偽を問う能力はありません。たとえ嘘であっても、生きることを支える知識は、その個にとっての事実です。ですから、私が正しいと思うものを、他の人が正しいと思わないことは当然です。「私が正しい、相手が間違っている」と喧嘩をしたくなるのは本能かもしれませんが、意見の真偽を問う争いは無駄なことです。データは同じであっても、存在欲によって現れる知識が変わるのです。人間には花は美しいものとして見えるが、毛虫には食べものとして見えます。
海は人間にとって居心地の良い棲家にはなりません。しかし魚にとっては、陸上は危険な場所で、海は居心地の良い棲家なのです。どちらの意見が正しいのか、ということではありません。生きられるか否かの話です。

命 の 危 険

私たちの知識は、事実であってほしいのです。なぜならば間違った知識で行動すると、命の危険に晒されるからです。そこで「私が知っているものはすべて事実だ」という錯覚を作って、自己満足しようとするのです。しかし生きるために必要な知識が、必ず事実でなければいけないという決まりはありません。嘘の知識も大いに役に立ちます。私たちは芸術作品、映画などを鑑賞して喜ぶでしょう。暇つぶし、楽しみ、感情の掻きまわし、なども生きることを支えてくれます。芸術作品、映画などは、完全な嘘です。しかし誰一人として、「これは嘘だからやめましょう」という気にならないのです。

 いま飽食の時代に生きています。食べるものに対して、有機栽培か否か、賞味期限以内かどうか、あれこれの添加物が入っているか否か、養殖物か天然物か、どこで作られたものか、などなどをやけに気にしますね。その上、何を食べれば癌になるのか、何を食べれば癌予防になるのかも気にします。このような知識は、事実であると思っているのです。
しかし、すべて嘘です。飢餓状態が現れたとしましょう。その時は、添加物が入っているか否かを考えますか?

 いままで食べたこともない木の皮まで食べるようになるし、いままで食べたこともない動物まで食べるのです。要するに、知識のポイントとは「生きられるか否か」です。生きられるならば贅沢思考を育てて、余った時間を埋めるのです。

 私たちは自分を生かすための知識を取り入れているだけです。真偽を問う能力はありません。たとえ嘘であっても、生きることを支える知識は、その個にとっての事実です。ですから、私が正しいと思うものを、他の人が正しいと思わないことは当然です。「私が正しい、相手が間違っている」と喧嘩をしたくなるのは本能かもしれませんが、意見の真偽を問う争いは無駄なことです。データは同じであっても、存在欲によって現れる知識が変わるのです。人間には花は美しいものとして見えるが、毛虫には食べものとして見えます。
海は人間にとって居心地の良い棲家にはなりません。しかし魚にとっては、陸上は危険な場所で、海は居心地の良い棲家なのです。どちらの意見が正しいのか、ということではありません。生きられるか否かの話です。

命 の 危 険

 存続するために、様々なデータを認識していきます。データを認識して判断すると、命を支えるものより命を危険に晒すもののほうが比較にならないほど多いと発見します。例えば、植物の種類は無数ですが、人間に食べられる植物の数は少ないのです。我々は沢山、危険なものに囲まれて生きています。危険なものだと認識したら、それを嫌悪しなくてはいけないのです。そのものから逃げるか、そのものを壊すか、どちらかしなくてはいけない。壊すことも逃げることもできない場合は、困難に陥ります。存在欲を支えてくれないデータに対して、私たちは怒りという感情を作るのです。嫉妬、怨み、落ち込み、後悔なども、怒りの変身です。国の財産を大量に軍事費として使うこと、優れた知識人の能力と大量の資金を使って武器開発することは、怒りの結果です。要するに、存続に危険と推測したものに対しての反応です。

怒ることが本能です

 私たちの一日の生きかたを観察してみましょう。気持ちの良い・役に立つ経験より、避けなくてはいけない・嫌な気持ちにさせる経験のほうが大量であると発見します。ひとの話を聞いても、聞きたい話より、つまらない・聞きたくない話のほうが多いのです。そういうことで、私たちは毎日、大量に怒りを溜めていきます。溜まった怒りは、突然、爆発するのです。存在を支えてくれるものを見て、聞いて、嗅いで、味わって、触れて、考えて、生きていきたいのに、環境はその気持ちに合わせてくれません。期待と正反対のものを認識せざるを得ないので、こころは常に怒りで揺らぐのです。

 お釈迦さまが語る解脱の世界は、認識範囲を超えた境地です。存続する目的の認識は、真理ではありません。個を存続させるための知識です。しかし、その知識のおかげで個は存続できるのでしょうか?

 できないのです。必ず個体は壊れて、死ぬのです。ということは、生命が持っている知識は曖昧中途半端なもので、真理ではないのです。一日、千五百キロカロリー程度の量を摂取しなくてはいけない、一日三十品目を食べるのが理想的、野菜を大目に食べたほうが良い、ジュースにしたほうが一日に摂るべき野菜の量を簡単に摂れる、などなどの知識があります。このような話は、事実でもないし嘘でもないのです。このような決まりを守って正しく生活しても、まったく無視して生活しても、結果は同じです。老いて死ぬだけです。活性酸素のはたらきで細胞が衰えるから、抗酸化物質を取り入れたほうが良いので、みな果物などを食べています。しかし肉体は老いるのです。とにかく人間がやっていることで、何かしら生きているから、知識は嘘とは言えないのです。何をやっても、存続という目的には達しないので、事実でもないのです。

 決して達しない目的のために、曖昧中途半端の知識を使ったり、貪瞋痴の感情に悩まされたりして生きることには、意味がないのです。ですから、仏道を歩む人々は、存続目的という次元を破るのです。そこで初めて、真理が観えるのです。存続という目的は成り立たないと発見するのです。それは執着を捨てることだと言うのです。執着を捨てた人は、もう人間でも、普通の生命でもありません。生命という組織が、まだ壊れていないからあるだけです。執着を捨てた人は、生命の次元を乗り越えたのだ、聖者になったのだと、お釈迦さまが説かれるのです。

怒りからの解放

聖者になっても、私たちと同じ環境のなかで生きていなくてはいけないのです。気持ちのいいものに触れたり、気持ちの悪いものに触れたりもします。ひとに褒められたり、非難侮辱されたりもします。食べたものが身体に合ったり、合わなかったりもします。食べ物が身体に合わなかったら、苦しくもなります。このような状況を聖者も認識します。適切な知識も現れます。しかしその知識は、一般人と違うのです。怒りの感情が無いのです。「生きていきたかったのに。楽しく存続したかったのに」という気持ちを超えているのです。

 ひとに非難侮辱されても、怒りが起こらないのです。しかし、相手が怒っていること、相手が自分を傷つけようと努力していること、相手が話す言葉はどんな意味を持っているのかということ、なぜ相手がこのような気持ちになったのかということ、などなどを明確に知っています。侮辱されたら、一般人は激怒する。頭が混乱する。反撃しようとする。
自分を守ろうとする。相手をさらに強く侮辱しようとする。津波のように感情が現れるが、状況はまったく理解していないのです。安穏にいることはできないのです。釈尊の教えを実践して解脱に達した人は、いかなる悪環境にいても安穏に過ごすのです。それは存在欲が無くなったからです。(Akkodhanam 怒りのない)

道 徳

 道徳とは、一般人に理解できる概念ではありません。個人にとっては、自分のためになるものは何でも良いものです。目的は存続だけです。健康に良いからと大量に魚を食べるが、自分のため可哀想に死んでしまった魚たちに対して憐れみは起きないのです。犬猫を殺したら、動物虐待という罪に問われますが、鶏を殺すことは合法的な商売なのです。自国を守るために戦争するのは良いことです。そのために、たくさん人を殺すことは殺人ではないのです。たくさん殺しをした軍人は英雄として讃えられます。しかし、その軍人が自分の奥さんを殴ったら、法律違反で裁かれます。なぜこのように、道徳世界はわけも分からない混乱状態になっているのでしょうか?

 道徳を知識で判断するからです。知識にはその資格は無いのです。知識とは、個を存続させるためのノウハウに過ぎません。存在欲そのものが悪の根源だと決めたほうが良いのです。釈尊は、貪瞋痴が悪の根源であると説かれています。存在欲を完全に分析すると、貪瞋痴になるのです。

 ですから、存在欲を脱出する努力こそが、純粋な道徳なのです。聖者に達した人は、道徳の実践を完了した人になります。本物の道徳者なのです。私たち一般人も、嘘をつかない、邪な行為をしない、ひとのものを盗らない、社会に迷惑をかけない、などなどの道徳を守っています。だからといって、道徳者にはならないのです。道徳が完全ではないのです。なぜならば、存続する目的はそのままだからです。存続が危険に晒された瞬間に、いままで守ってきた道徳が破れてしまいます。存在欲・貪瞋痴を根絶した人にとっては、たとえ自分が殺されるような情況にいても、自己防衛のために相手を傷つける気持ちは起きないのです。(Vatavantam, sīlavantam 道徳の人・戒を完成した人)

感 情

 感情とは煩悩のことです。こころの汚れとも言います。存続する目的があるならば、こころが必ず汚れます。存在欲そのものも、こころの汚れです。真理の発見に蓋を被せたことになります。人類が持っている膨大な知識も、貪瞋痴で汚れているのです。また、真理ではないのです。身体に何かデキモノが現れたとしましょう。それが炎症を起こして腫れているのです。身体のその部分に何が触れても、痛くなります。服が触れても痛くなるから、気をつけなくてはいけないのです。煩悩とは、こころのデキモノです。眼耳鼻舌身意にデータが触れると、煩悩というデキモノが敏感に反応するのです。それは気持ち良い情況ではありません。要するに、すでに怒りというデキモノがある場合は、何か聞いただけで、見ただけで、考えただけで、怒りが反応を起こして拡大します。真理を発見した聖者は、存在欲を根絶したので、何のデキモノもこころに無いのです。眼耳鼻舌身意にいかなるデータが触れても、精神的に安穏でやすらぎを感じて居られるのです。(Anussadam 煩悩が無い)

訓 練

 俗世間の訓練(調御)とは、ある分野で一人前の人間になるために必要な知識と技術を学ぶことです。生まれた赤ちゃんが完璧にわがままな存在であるならば、何も学ぶことはできません。自転車に乗ったり、ボール遊びをしたり、学校で読み書きを学んだりすることは、ある程度でわがままを制御することです。では超一流の知識人になった人なら、完全にわがままを制御して調御を完成しているのでしょうか?

 そうではないのです。俗世間のすべての知識・技術などは、存続を目的にしています。表面的にわがままを抑えるが、わがままは消えないのです。存在欲そのものがわがままなのです。

 仏道を実践する方は、存在欲を根絶するので本物の調御を完成できるのです。表面的・一時的に、わがままを制御するのではないのです。ですから人格の完成者なのです。(Dantam 調御者)

輪廻の脱出

 存在欲は強烈なエネルギーです。生きようとするたびに、生きられないということにも気づくので、存在欲が消えるのではなく、さらに強くなります。飽食の人間が飢えるはめになったら、木の皮でも生肉でも食べます。存在欲が強くなったのです。ものごとは瞬間瞬間、壊れていきます。こころがそれを否定するのです。存続したいと思っているのです。ごまかししてでも、自分を騙してでも、存続したいという気持ちを維持します。どんな酷い目に遭っても、末期状態になっても、生きていきたいのです。このように生命組織が、変化しつつ流れるのです。これがこの世で見える輪廻転生です。この世にあなたが生まれたわけではありません。母親の胎内に一個の細胞が構成されただけの話です。その細胞が壊れて、徐々にたくさんの細胞が現れたのです。母の身体から出てからも、絶えず細胞が壊れて、新たな細胞が生まれるのです。このシステムに、仮に「私」と言っているだけです。「私」とはどんな細胞でしょうかと訊かれても、主になる細胞は見つかりません。四十兆の細胞すべてだと言っても、正しい答えではないのです。なぜならば各細胞組織を示して質問すると、これは私の足、手、眼、心臓、肺などなどと言わなくてはいけないからです。四十兆の細胞は私のものですが、私はいないのです。私というのは存在欲です。ただの感情です。

 輪廻転生は、この世で終わるものでもないのです。存在欲が細胞組織を維持管理するエネルギーになっているので、この細胞組織が壊れても、別なところで生命組織を作って維持管理することができるのです。それが死後の輪廻転生です。つねに拡大する存在欲がある限り、輪廻転生は止まらないのです。仏道を実践して成功したならば、存在欲は根絶されます。その細胞組織には、輪廻転生は成り立ちません。言葉として、解脱に達した、涅槃に入られたと言います。言葉のラベルを貼ったからと言って、存在欲に限られた知識のハンディを負っている人々に、理解できる概念ではないのです。(Antimasārīram 最後身)

バ ラ モ ン

 お釈迦さまの時代に、主流だった宗教はバラモン教と言います。後に変身してヒンドゥー教となったのはバラモン教です。バラモンとは、基本的に知識人です。社会を維持管理するために、様々な能力のある人々が協力しあわなくてはいけないのです。昔風に言うならば、皆をまとめる管理者が必要です。それは王です。国を守るために、戦う能力のある人々が必要です。それは軍隊です。農業をやる人、さまざまな生業をする人々、商人、ゴミを処分する人、遺体を処分する人、などなどが必要になります。それから、読み書き計算をできる知識人も必要です。昔からの人間の歴史の流れを憶えておく必要もあります。問題が起きたら、その解決策を見いだせる理解能力も必要です。病、その他の危険に晒されたら、精神的に落ち着かせてくれる人々も必要です。バラモンは、それら知識人の仕事を担っていたのです。昔の職業は世襲制度だったので、バラモンの息子が親の仕事を継いだのです。

 一般的に考えれば、知識人の立場は他の人々より上ではないかと思われてしまうのです。王様さえ、バラモンのアドバイスを聞かなくてはいけないからです。そこで、バラモンは調子に乗ったのです。自分のカーストだけが聖職者であると、森羅万象を創造した神の親族であると言い張ったのです。しかしお釈迦さまから見れば、それはただのホラ吹き以外のなんでもありません。バラモンも、存続のために自分の能力を社会に提供しただけです。ですから、ただ生まれだけで、人間の祈祷儀式を行なうだけで、聖職者にはならないと説かれたのです。お釈迦さまの立場から見れば、存在欲を根絶した人こそが真の聖職者なのです。真のバラモンなのです。バラモンはただのカースト名に過ぎず、公に発表している聖職者・こころ清らかな人という意味は無いと強調するために、真のバラモンとは解脱に達した阿羅漢であると説かれたのです。(Tamaham brûmi brāhmanam 彼がバラモンであると我は説く)

今回のポイント

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