パティパダー巻頭法話
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No.254 (2016年4月)
錐先に載せた芥子の種

 ~普通のこころと聖者のこころ~
 Detachment yields wisdom
A・スマナサーラ長老     
◎今月の巻頭偈
Dhammapada Capter ⅩⅩⅥ Brāhmanavagga
ダンマパダ(法句経) 第26章 婆羅門の章

401.
   Vāri pokkharapatteva
   Âraggeriva sāsapo
   Yo na limpati kāmesu
   Tamaham brûmi brāhmanam
401. 蓮の葉の 露の如くに
   錐(きり) 先の 芥子(けし)の如くに
   愛染(あいぜん)に 染まらずあるを
   バラモンと 我は説くなり

           (和訳 江原通子)

聖 者

 煩悩を滅尽して、完全な覚りに達した方のことを阿羅漢と言います。完全な覚りに達するというのは、解脱に達する過程で四つの段階があると説かれているからです。長い過去から徳を積んで修行の経験もある方々は、この四つの段階をたちまち通過します。お釈迦さまに出会う徳があった方々はほとんど、このような能力の持ち主でした。
しかし時間をかけて修行しなくてはいけない修行者も出てきたので、解脱の四つの段階が明確に現れたのです。

お釈迦さまの特色

 お釈迦さまも、阿羅漢の一人です。「正覚者の解脱が優れている。弟子たちの解脱は不完全である」という考えが、仏教を理解していない人々から現れたのですが、それは間違いです。真剣に修行する人たちのことを非難する目的で、この根拠のない話を異端者の方々が作ったかもしれません。
お釈迦さまは自分一人で解脱の道を拓いたのです。存在を乗り越える次元を発見するのは、存在に定着している生命にとっては不可能なことです。お釈迦さまにこれが出来たのですから、その能力に等しい生命はどこにも存在しないのです
。しかし、解脱の境地は一切の現象を超越したところなので、差は成り立ちません。お釈迦さまには、十力、九徳、七十三種類の智慧などなどが備わっているのです。阿羅漢に達した弟子たちにもその能力のいくつかがあるかもしれませんが、すべては揃わないのです。

 この情況も、右に述べた誤解を招く原因になったかもしれません。お釈迦さま特有の能力はすべて、現象世界に関するものです。解脱の境地に関する優劣の問題ではないのです。ですから、人を解脱に達するまで導く能力はこの上のないものである、人の性格のみならず潜在煩悩まで読み取れる能力がある、生命の過去をどこまででも辿って知ることができる、などなどがお釈迦さま特有の能力になっているのです。それらはすべて、生命に関する、現象世界に関する能力です。

バ ラ モ ン

 バラモンとはインドにある四つのカーストの一つです。彼らは自分のカーストが最上位だと自賛していたが、それが他のカーストの人々に認められたかどうかは分かりません。文献というものはすべてバラモンが作ったので、証拠も見つかりません。しかしバラモンは知識人でもあったので、王家に雇われていました。王家はクシャトリヤ・カーストと言うのです。ですから現実的には、クシャトリヤ・カーストが最上位にいたのです。お釈迦さまも出家する以前、クシャトリヤ・カーストの一人でした。
お釈迦さまから見れば、人間は同じ種ですが、行なう仕事によって区別が成り立っているという考えです。ですから、バラモン・カーストの人であっても、田んぼを耕して生計を立てているならば農民なのです。王家に生まれても、人のものを盗むならば盗人なのです。
 バラモン・カーストの職業は、教育と知識関係でした。当時では哲学と宗教の区別はな かったので、バラモン・カーストは人々の宗教的な要求にも応じなくてはいけなかったのです。それを勘違いしたバラモンたちが、自分こそ優れているというデタラメを言い出して、それをヴェーダ聖典にも書いておいたのです。お釈迦さまは、祈り、祈祷、呪詛、シャーマニズムなどは宗教の管轄だと思わなかったのです。それらは煩悩のせいで怯えている人々が行なう気休めの迷信に過ぎないとしたのです。

宗 教 と は

 宗教・精神世界は、こころを清らかにする仕事です。修行者は、こころを清らかにする実践を行なわなくてはいけないのです。
どんな人間にもこころがあります。誰のこころも汚れています。ですから、誰にでもこころを清らかにするべきという意欲を惹き起こすことができます。どんな人間でも、その仕事にとりかかったならば、宗教世界の人間です。
仏教と他宗教の違うところは、他宗教の方々は、いくらかこころを清らかに保つことができたとしても、完全にこころを清らかにする方法を見つけられなかった点です。

お釈迦さまの批判

 お釈迦さまは、バラモン・カーストがバラモンの家で生まれたという理由だけで「自分たちが聖職者である」と自賛したことを非難したのです。一部のバラモンたちは「自分たちこそ救われる者だ。他のカーストの人々は救われないのだ」というところまで自賛をエスカレートさせました。彼らは、バラモン=聖職者=救われた者=聖者という意見を持っていたのです。
お釈迦さまの立場は、こころ清らかにする仕事が宗教的な行為であり、成功したならば、他の人間を乗り越えた聖者である、というものです。そうであるならば、バラモン・カーストが「聖者」という意味でその単語を使うのは間違いです。バラモンの家で産まれたかも知れませんが、(真の)バラモンではないのです。真のバラモンとは、煩悩を根絶した宗教家なのです。

第一人称は使わない

 インド社会では、バラモンといえばバラモン・カーストの人々を指すので、「こころ清らかにした人こそがバラモンであると私は説く(Tamaham brûmi brâhmanam)」と、お釈迦さまが強調するのです。

 お釈迦さまは説法する時、できるだけ第一人称を避けるのです。ご自分のことを示す場合も、「私」という単語ではなく、「如来」という第三人称の単語を使います。しかし時々、社会に向かってブッダ自身が思っている意見を述べなくてはいけなくなるのです。また、社会が一般的に持っている意見と正反対の意見が正しければ、それも言わなくてはいけないのです。
その場合に限って、第一人称の「私」という主語を使うのです。それは自我を張る目的ではなく、言葉に対してお釈迦さまご自身で責任を持つという意味です。

聖者のこころ

 聖者のこころは一般人に理解できないものです。しかしある程度で理解してもらわないと、人々は解脱に挑戦しようとは思わないのです。その場合も、俗世間の人間に比べて聖者はいかに明るく安穏に生きるのか、という対照的な説明をしなくてはいけないのです。世間から離れた人だ、世間との関係のない人だ、社会から離れて森に隠れている人だ、などなど言うと、ネガティブな言葉になるのです。世間は「私たちと関係ない人なので完全に無視しよう。役に立たない人間だ」と思うので、結果もネガティブです。

 お釈迦さまは、「聖者とは生命の役に立つ唯一の存在だ。俗世間の尊敬と供養を受けることに値する存在だ。俗世間に限りのない幸福を与える無上の福田だ。有意義な生きかたを成功した人だ。智慧の眼が顕れた人だ。一切の苦しみを乗り越えた人だ」などなどの肯定的な言葉で説明するのです。そのような言葉を聞くと、一般人は「私たちと違った生きかたをするかもしれませんが、関係ない方々ではありません。あえて関係を結ぶべき方々です。私たちの役に立つ方々です」という気持ちになるのです。
お釈迦さまの完全な言葉づかいのおかげで、仏教は世間に拡がったのです。差別のない真理の世界が、世に拡がったのです。

無 執 着

 聖者のこころの特色は、無執着です。この概念は理解し難いのです。
こころは執着があってこそはたらくものです。眼に光のデータが触れたとしましょう。眼はそのデータを受け取って、脳に連絡するのです。脳は自分好みの概念を作るのです。脳の仕事は、細胞の維持管理です。細胞を維持管理できるようにと、脳がデータを改良するのです。それで、ものを見たという認識になります。その認識に基づいて、脳と身体が反応するのです。それが生きるというプロセスです。生命は客観的な現実に基づいて生きているのではありません。自分の細胞組織に合わせて、客観的なデータを改ざんするのです。生命が持っている知識は真理ではなく、都合によって改ざんされた認識です。

 生きるというこのプロセスを起動するためには、執着が必要です。執着とは、「生きていきたい。死にたくはない」という一般的な言葉にも入れ替えられます。一般知識で理解できないのは、この執着がなくなったらどうなるでしょうか、ということです。この場合は、例えで説明したほうがよいのですが、適切な例えも思い浮かばないのです。

 身体は執着があるから生きているのです。車は燃料があるから動いているのだとしましょう。燃料がなくなったら、車は止まるのです。燃料を入れたら再び動くし、燃料をまったく入れないならば、車は壊れていくのです。しかし、身体の燃料である執着がなくなっても、身体が停止して動かなくなることはありません。いったん捨てた執着を再び入れることも不可能であるならば、身体はどうなることでしょうか?

 細胞組織は、執着がなくても自分が持っている寿命までは持ちこたえるのです。燃料を入れない車にしても、手入れをしなくても各部品は自分が持っている寿命まで持ちこたえるのです。

 ひとが修行して解脱に達したら、生かす燃料である執着が二度と現れないように消えるのです。執着は燃料にしましたが、燃料のように外から入れるものではないのです。こころが絶えず執着を作り続けるのです。眼耳鼻舌身意に入る情報に対して、執着を惹き起こすのです。その執着を生かして、さらに眼耳鼻舌身意でデータを取り入れようとするのです。
命というシステムには、燃料切れという情況は成り立ちません。見たものが美しいと判断して、欲を作って執着するのです。または醜いと判断して、怒りを作って執着するのです。受けているデータがどのようなものであっても、こころは執着を作ります。執着という生かすエネルギーは自己増殖するので、終わりがないのです。生命の身体が壊れて死んでも、執着(渇愛)というエネルギーは残っているので、再び命を構成します。この流れに終わりがないので、輪廻と言うのです。

仏 弟 子

 仏弟子が修行して智慧を開発して、執着を捨てることにします。しかしまだ生きているのです。燃料が切れた車なら、答は簡単です。車は止まります。執着を捨てた生命組織は どうなるでしょうか?
 解脱に達すると同時に、全細胞が止まって身体が物体になるわけ ではないのです。解脱者もふつうに呼吸するのです。ものも見えるのです。ひとと話すこともできるのです。食事も摂るのです。身体も洗うのです。不思議で仕方がないのは、執着がないのになぜそんなことができるのか、ということです。

 執着がなくても、生きることはできます。しかし、どうしても生きていきたい、決して死にたくない、という執着はないのです。細胞組織にまだ寿命があるから、生きる活動が起きているだけです。私たちはものを見る。見たいから見ているのです。見て、こころに刺激を与えたいのです。しかし、眼がある人に、見えるという能力も備わっているのです。眼にデータが触れたら、見るのではなく、見えるのです。見えたものを、細胞組織を維持する目的で捏造しないで、そのまま認識するのです。聖者のこころに起こるのは、このような反応です。食べる場合も、美味しいから、体力をつけられるから、楽しいから、決まりだから、長生きしたいから、死にたくないから、健康になるから、食べているのではないのです。細胞組織が壊れたから、細胞組織に必要な材料をあげているのです。それが聖者の食べかたです。聖者もふつうの人間として生きているが、こころのなかに起こるファンクションはすべて、一般人と違うのです。

聖者の認識の仕方

 このややこしい情況をお釈迦さまは、分かりやすい言葉で説かれているのです。「蓮の葉の上にある水の如く。」蓮の葉の上に水滴が溜まっていることを誰でも見ていると思います。ちゃんと水が溜まっているのに、葉は濡れてないのです。簡単に落ちるのです。水滴と蓮の葉の間には執着はないが、受けて止めてあげることができるのです。「錐先に芥子の種を載せるように。」これも注意さえあればできる仕事です。しかし、簡単に落ちます。錐先と芥子の種の間には執着はありません。

 聖者にも眼耳鼻舌身意があります。色声香味触法が触れますし、認識もするのです。しかしその認識は、こころと対象の間に執着がないので、生きるという渇愛がなく起こる出来事なので、認識は蓮の葉の上にある水滴のような、錐先に載せた芥子の種のような認識に過ぎないのです。ですから、いかなる場合もこころは揺らぎません。動揺しません。完全たる安穏な状態でいられるのです。
しかし一般人より明確に、如実に、外のデータを認識もしているのです。私たちは認識しようとしてデータを捏造します。聖者はデータを捏造しないので、誰よりも智慧が優れているのです。認識能力も一般人より遥かに優れているのです。

今回のポイント

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