パティパダー巻頭法話
Sabbe satta bhavantu sukhitatta
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No.26 (1997年4月)
賢者人間入門(1)
〜要は心の発展にある〜
A・スマナサーラ長老

 仏教における愚か者という言葉の意味はこれまでにも何度も説明いたしました。愚か者にならない方法も説明してきました。今月は賢者という言葉の意味を考えてみましょう。

 進歩、発展という言葉は、どんな時代にあっても人間の好む言葉です。
進歩しよう、発展しようと努力して我々は文化というものを作ってきました。新しい世代が古い時代を変えていくという形で、社会が進歩していきます。そのような場面でいつも起こってくるのは、新しい世代のやり方に古い世代が反対し、批判するということです。
そこで当然ながら新しい世代はそれを好まず、親に子供が反対するという社会現象が見えてきます。しかし、古い世代はいつも新しい世代を批判するわけではないし、いつも新しい世代が古い世代にさからうというわけでもありません。古い世代は現在の社会常識をまったくひっくり返すような大胆な行動に反対するだけで、新しい世代もそのようなことをすれば社会から追い出されるということを知っているわけですから、それほど大胆な変化は考えていません。そんなわけで、ごく自然に社会は世代ごとに変わっていきます。それは一般的に社会の「進歩」や「発展」という言葉で認識されています。

 人は誰でも、昔よりは現代の方が進歩していると誇りに思っています。しかしこの社会の進歩というのは、本当に我々が誇れるものなのでしょうか。

まず我々はなぜ、進歩したがるのかを考えてみましょう。
最初に考えられることは、新しい世代の人々が今の環境に飽きてしまうということです。飽きたから進歩したいという人にとっては、質的な進歩でなくても、何かが変わればそれで十分です。髪の毛を茶髪にするとか、衣服のデザインや色を変える、言葉遣いを少し変えてみるなどです。

次に考えられるのはより楽しくなろうという気持ちです。その場合も楽しければそれで十分です。次から次へと新しい音楽や芸術的な活動、娯楽を作っていきます。そういうものも前にあったものと変わればそれでよいのです。たとえば音楽の場合は、必ずしも現代音楽が古い伝統音楽より質的に高いわけではないということは誰もが知っています。食べ物を見ても同じことが言えます。よりおいしく、より楽しく食べられるように食文化は変化していきますが、その食べ物は結局徐々に体に悪いものになっていく傾向もあるのです。

そしてその次に考えられるのは楽をしようとしての進歩です。新しい世代から見ると古い世代は、苦労して生きてきたように見えますので、生きるための苦労を嫌い、どうすれば楽になれるかと考えてその方向へ社会を変えていきます。我々の科学文化、発明文化はそのようにして生まれてきました。原始時代から人間は様々なものを発明してきました。科学的思考を見出したころから急激に発明文化が進歩してきましたが、この進歩の目的は楽に生きることです。現代の我々の知識のみならず、過去にあった占星術や錬金術なども楽に生きるため考え出されたものです。この目的で進歩すると楽であればそれでいいと考え、それによってどんな危険が生まれるかということは気にしません。今我々が悩まされているあらゆる汚染の問題、自然破壊などはその結果です。楽に戦争しようと思い、核兵器、化学兵器まで作ってしまいました。ですからこの「楽」という概念に基づいて起こる変化も進歩と言い切れるかどうか疑問です。いろいろな面で楽になったことは確かですが、他の面で新しい苦しみが生まれてくることも事実です。たとえば、飛行機や新幹線で人は楽になりましたが、それによって大変忙しく慌ただしく生きなければならなくなりました。また、オゾン層の破壊のように解決法のない苦しみも徐々に出てきます。苦しみを克服するため、人間はいつまでも「楽に生きる」努力から逃れられません。

 さらに楽に生きるための発明文化が進歩すればするほど、それを使用するために、お金もかかるようになります。そのため必死に仕事をしてお金を儲けなくてはいけない羽目になりました。そこで発明する側、物を生産する側も、より多くお金を儲けることを目的にするようになり、使う人の役に立たないものや、危険性のあるものまで作るようなことも起こってきています。遺伝子工学的な農業や生物学、医学などが今後どんな結果を生むか、今はわかりません。

 このように見てくると結論として言えるのは、進歩や発展というのは言葉だけであって、質的にはそういうものは見出せないということです。しかし社会自体は常に絶えず変化はしていきます。

 仏教の智慧から社会の変化を考え直すと違う側面が見えてきます。
現状に飽きてしまうことで変化すると常に現状に飽きるのできりがなく無限に変化し続けますが、満足は得られません。楽しければよいという変化であるならば何のコントロールもなくなってしまい、麻薬、暴力などのよこしまな娯楽が出てきて、せっかくの楽しみも消えて苦しみになります。楽を目的にすると根底に見えるのはいかに怠けるかということです。「怠ける」ための「努力」というのは相反することでもあり、前述のように楽に生きるための進歩は進歩とは言えず、ただの変化ということにになります。

 結局、社会にあるのは「進歩」ではなく「変化」だけです。またその変化も、最終的には長く生きたいという目的に限っています。皆、死と戦おうとしますが未だに勝った人は一人もいません。

 社会にあるのは貪瞋痴の衝動により起こる「変化」であって「進歩」ではないというのが仏教の考え方です。
文字通りの進歩、発展は社会の根源にある貪瞋痴に打ち勝つことです。つまり心を成長させるために生きることです。

楽をするために努力するという社会的概念は、一見正しいようで実は「進歩」とは相反する「怠けたい」という衝動に基づいていますから、逆に怠けたがる心を育てるのです。人間の「進歩・発展」を求める心は常に不満を感じています。物質的な発展は未だに心の不満を満たしてくれず、我々は「進歩・発展」という名目で限りなく社会を変えていきます。
しかしこのままでは心の不満は決して消えません。それは高度な智慧によって消していくしかありません。楽をするため苦労するのではなく、本格的な平安、安穏な心を作る努力をすることです。

 仏教では「怠け」を決して認めません。かわりに絶えず精進しなくてはなりません。宗教の中でも、祈ることによって救ってもらおうとするような、無気力な怠け精神に基づく他力本願が見えますが、本来の仏教は徹底した自力主義です。放っておいても社会は変化しますが、心は進歩しませんので、心の成長こそが本当の社会の進歩、発展なのです。

今回のポイント

◎経典の言葉
Udakam hi nayanti nettikâ − usukârâ namayanti tejanam,
Dârum namayanti tacchakâ − attânam damayanti panditâ.(Dh.-80)
(人の役に立つものになるように)水道を作る人は水をみちびき、矢を作る人は矢を打ちのばし、
大工は木材を削りととのえ、賢者は自己をととのえる。(Dhammapada−80))
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