パティパダー巻頭法話
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No.28 (1997年6月)
賢者人間入門(3)
〜喜びとは、真理を知ることである〜
A・スマナサーラ長老

■自分の無知を「業」や「生まれつき」だと思い込んでいないか■
 賢者という性質は持って生まれるものではありません。
智慧のある人間になるためにはそれなりの努力が必要です。それなのに普通の人間は、運命、業、定め、生まれつきのような概念を使って自分達の状態を解釈しがちです。自分の状態を納得するためにそのような解釈を使うのも構いませんが、だからしょうがないと決めつけるのは、問題です。よく考えるとこれは自分の状態が進歩、成長しないことの言い訳にも聞こえます。

因果法則を語る仏教では、何の原因もなく何かが現われるとは考えません。我々の今の状態も何らかの因縁の結果であることは確かですが、それなりの努力をすれば、悪い状態もいい方向へ改善していけるということも事実です。業の話は仏教の中にもありますが、我々の人生が過去の業で定められ、変化しえないような固定されたものと考えるのは単なる邪見にすぎません。それは無常の概念と因果論に反します。努力することは仏教の道徳の基盤です。努力さえすれば、どんな人間でもやがて完全なる賢者になれます。(人間は様々な能力を持って生まれますが、特別な人間、選ばれた人、神の子、恵みを与えられた人などの概念は、仏教の中にはない、ということを覚えておきましょう。たとえ恵まれた人がいてもそれはそれなりの過去の努力と他の因縁の結果です)自分は恵まれていない、だから無痴だと思うとその人は努力を否定する暗い人間になってしまいます。たとえ結果としてできてもできなくても努力さえすれば良くなるという考え方だけは持つべきです。

■「ありのまま」知る−−−知識から智慧へ■
 賢者になるために、どのように努力すればよいでしょうか。
賢者という言葉は、仏教の修行に関する言葉ですが、それは知識と智慧に密接な関連を持っています。人は「知識」のレベルから「智慧」のレベルへ進むべきです。

それにはまず、真理を楽しむ人になることが重要です。
知識だけにとどまっている普通の人の楽しみは、あらゆる知識の蓄積です。それはただ妄想の世界で楽しむことです。お金を儲けること、あらゆる娯楽、社会的な立場や権力を得る道などを楽しんでいることと大差ありません。たいして役に立たないにも関わらず、あらゆる情報の収集、趣味としていろいろな能力を身につける稽古ごと、冒険的な経験などにも喜びを感じます。
しかし人生をそれだけのことで終えるならば、愚か者のままで死ぬことになります。欲、怒り、嫉妬、見栄、高慢などの感情の泥沼から抜け出ることはできません。知識は人間の見栄と高慢を育て、娯楽の世界は人間の欲を育てるのです。

智慧を得るためには真理を喜ぶという方へ方向転換しなければなりません。
何が真理なのでしょう。それは知ることに興味を抱くことです。仏教では「ありのまま知る」という言葉があります。それは人間の固定概念に基づいて語られる知識的な概念に引き込まれずに、直接真理を知るという意味です。たとえば学校に通う子供をもつ親が教育を語る場合は、どんなに公平に語っているつもりでも我が子の教育という視点から離れることはできません。政治、経済、世界情勢などについても、その語る人が個人的に関心を持つ目的から離れることはできません。真理を知ろうとする人は、そのような意見も「全くそのとうりだ」と決めつけることはせず、ある立場からの意見として理解します。他の立場からも問題を見ようとします。真理により近づこうと努力します。要するに固定概念が頭にあるときは、ありのままにものは見えないということを理解します。

■「すべては無常」とは観察の結果。信じ込む必要はない■
 仏教では、いかなる方向へ観察しても、正しく観察するなら最終的には、全ては無常である、苦(dukkha)である、変化しない実体はない、因縁法則によって現われる一時的な現象のみであるという結論にたどり着きます。これ自体は固定概念ではなく「ありのまま」の事実です。
しかし全ては無常だ、その角度でものを見なさいと言ってしまえばそれもひとつの固定概念になってしまうのでは、と考えられるかもしれません。確かに何も知らずに偉そうに、無常だ、無常だと言っても何の意味もありません。その人にもありのままのものは見えないかもしれません。また社会から攻撃を受ける恐れもあります。
そうではなく、あらゆる固定概念から心をきれいにして、自分の好き嫌いの感情からも離れ、物事を観察し事実を見てみようと努力しそれに喜びを感じるようにし、やがて智慧が現われて正しくものが見えるようになったとき、はじめて結論として、何だ全ては無常ではないか、それしか真理はないのだという事実に出会うということになるのです。全てが無常だとわかったなら、その人はもうすでに賢者です。ですから、最初から「無常だ」と自分を納得させようとする必要はありません。

■真理を知る人の立場とは■
 真理を知る人は他人の意見を否定しません。そのかわりになぜこのような意見が出たのか、その人はどのように考えたか、どんな立場から考察したのか、どんな目的が最初からあったのか、その意見は生きている人間にとって役に立つか立たないか、その意見のいけない側面は何か、またその意見に対する違う意見も可能か可能でないかなどを理解します。相手に対して対立することなく、理解する立場をとります。もし有効な意見を聞き、自分も実行すべきだと思ったら、それなりに実行します。(普通の人は何かいいと思ったら、夢中になって実行しますが、それは危険です)

 真理を知る人は、自分の意見を述べるときもよく気をつけます。「これは私の意見です」「こういうわけでこういうことを考えています」「目的はこれです」などの条件つきで自分の意見を話します。また相手を納得させたいと願うとき、持論や自説にとらわれず普遍性(万人を納得させられる論拠)の立場を守ります。そのような正しい対策を用いて、他人と対立しないようにします。
(仏教を勉強するとき例に出す、他の宗教哲学などの批評、批判、社会現状の分析なども仏教の概念を容易に理解するためのものであって、相手を否定してトラブルを起こす目的ではありません。仏教概念を納得している人々も、以上述べたように相手に対立しないような広い心を持っていただきたいのです)真理を知る人のこの態度は決して曖昧なものではありません。物事をはっきりと理解しない人、また心が明晰でない人も意見に対して曖昧な態度をとりますが、真理を知る人はしっかりと物事を理解しています。ただそれにとらわれないだけです。それは中道という超越道でもあります。超越道を実践しよう、真理をありのまま理解しよう、それに喜びを感じようと思うと心が煩悩(感情)からきれいになり、悟りを開き、賢者にもなることができます。

今回のポイント

◎経典の言葉
Yathâ'pi rahado gambhîro − vippasanno anâvilo.
Evam dhammâni sutvâna − vippasîdanti panditâ.(Dh.-82)
深い湖が澄んで清らかであるように、賢者は真理を聞いて(理解して)心を清らかにする。
(Dhammapada−82)
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