パティパダー巻頭法話
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No.31 (1997年9月)
聖者(阿羅漢)の心(2)
〜真の自由人間への道〜
A・スマナサーラ長老

 先月号では「おまけ」を目的に vipassanâ 実践をしない方が賢い生き方ではないかと申し上げました。

解脱を目的として実践を続けると、心は確実に清らかな方向へ変わって行くことが感じられます。その道の終点として解脱があるのです。しかし言葉に引っぱられると余計な解釈、誤解などに陥りやすいので、初期仏教の精神に沿って説明したいと思います。

 解脱者の心の状態を説明する場合は、欲が消えた心、無執着の心、何にもとらわれない心、などの言葉を使います。直接この言葉を聞くと、一般的には暗い感覚で理解する方が多いようです。それは、我々の普通の世俗的な価値判断で、世俗レベルを超越した聖者の心を理解しようとするからです。仏教で説かれている真理というものは、修行として体験しなければ完全には理解しがたいものなのです。ですから、我々が解脱を暗く否定的に感じるというのはやむをえないことなのです。
そこで考え方を変えれば、解脱こそ、人間が到達するべき目的であることを理解できます。

 私たちが、存在、輪廻、生命、生きることなどの言葉で考えている生の世界は苦(Dukkha)であり、その生の苦しみから脱出した心の状態が「解脱」です。ですから「解脱」は本来確実に明るくて幸福な状態です。問題は、人間はものごとをまず言葉によって理解しますから、その言葉の壁を乗り越えられない私たちにとって、解脱はなかなか理解しにくいものだということです。だからといってあきらめずに、言葉で理解できるところまで理解してみましょう。

 修行は sati (気づき)の実践ですから、修行の完成者は sati の完成者でもあります。その人の人生はすべて、Satiそのものになります。私たちはsatiの実践が始まると、ものごとを言葉で確認してゆっくりと行動することを行います。普通我々はものすごい勢いで大急ぎで行動しますが、Sati の実践の場合は反対に、極力スローモーションで行動するのです。この方法を紹介すると、必ずといっていいほど「こんなにスローモーションでは、社会の中で生きていけない」という不平が返ってきます。私たちはそれでもやりなさいと勧めます。それにはわけがあります。

 普段の行動も速いとは思いません。あせること、あわてること、心配すること、どうしようどうしよう、どうなるだろう、うまくいくだろうか、と悩んだり心配したりすること、自分の行動についてしっかりした自信がなくて、いろいろ考えたりすることで、かなりの時間が無駄に消えていきます。言い換えれば、悩むため、また妄想するためにも、結構時間が必要ですから、あせらなければ行動できなくなっているのです。仏教の立場からいえるのは、あなたがたは仕事が速いわけでも忙しいわけでもない、悩んだり妄想したりすることで、時間を無駄に使っているのではないか。そのために行動する時間がなくなっているので、あせって行動せざるを得ないだけではないか、ということです。ですからスローモーションの実践を否応なしに勧めます。

 たしかに、妄想しながら、悩みながら、ヴイパッサナ一実践をすると、どんな行動にもかなり時間がかかります。それでもあきらめずに続ければ、あせらないで行動することが身につきます。あせらないということは、悩みがまったくないということです。それによって時間の無駄遣いがなくなります。ということは、行動をスローモーションで始めたが、結果としては普段の行動より効率的でとても速いということになります。忙しいだけでは、なんの意味もありません。のんびり行動しても、忙しい人より効率が抜群によければ文句はないでしょう。

 修行を完成した阿羅漢の場合はどうでしょうか。阿羅漢は常に行動しています。時間の無駄遣いはまったくないのです。私たちの行動には必ず目的があります。それでその目的を達成できるかできないかと、考えたり悩んだりしなくてはならなくなります。目的達成に必要な条件を揃えたり、目的達成を妨げる条件を排除したりしなければならないので、うまく簡単に行動できるわけはありません。そして達成したら感情的に舞い上がったり、失敗したら落ち込んだりしなくてはいけません。そのうえ、確実にストレスもたまります。ですから目的があれば、行動するということは大変なことなのです。(一般的には、確かな目的さえあればスムーズに行動できると考えがちですが、仏教では逆のことを言っています)阿羅漢の行動の場合は、自我に基づいた目的はありません。その瞬間で、するぺきことを行うだけです。ストレスもまったくたまりません。ですから、修行完成者の行動は世の中の誰の行動よりも、効率的で速いのです。怠けたり、休んだり、また悩んだりしないので、あせったりもしないのです。スローモーションの実践は、世の中の誰よりも、速く行動できる人間を育てることができます。

 人間の行動を妨げる精神的な状態が、もうひとつあります。
それは home(家)です。わかりやすくいえば、自分の居場所です。なんのためにがんばるか、行動するかという適切な理由をつけてくれる自分の家、家族、会社や組織などです。そういうもののためであるならば、我々は精一杯がんばれます。仏教はこれにもまた反対の立場をとっています。行動の中心になる home というものがあれば、それによって行動が制限されます。会社、家族、自分の立場などを守らなくてはいけない何かあると、それを突破して大きな範囲で行動することは不可能です。阿羅漢にはこの精神的によりどころにする home が要りません。心は完全に自由です。戻る家はありませんが、逆にいえばどこでも家なのです。どんな条件でもどんな場合でも、力強く行動できるということです。普通の人には、よりどころがなければ、まず行動などできません。自分のよりどころがなくなるような場合、普通人は、自殺するか、破壊行動に出るかのどちらかでしょう。悟った人の場合は、自分の行動を妨げる「よりどころ」がないので完全たる自由のもとで行動できるようになるだけです。

 sati を完成した阿羅漢の場合は、行動のじゃまになる悩み苦しみもないし、行動によってストレスもたまらないし、行動を制限するよりどころ(home)もないので、最高に自由な行動人間になるのです。その行動も、決して自分のためではなくて、生きとし生けるものの幸福のために、亡くなるまで、絶えず止まることなく続くのです。

今回のポイント

◎経典の言葉
Uyyuñjanti satâmanto − na nikete ramanti te
Hamsâ'va pallam hitvâ − okamokam jahanti te(Dh.-91)
sati の実践者は、(常に)つとめ励む。彼らにはよりどころ(家、home)はない。白鳥が池を立ち去るように、彼らはあの家、この家(さまざまなよりどころ)を捨てる。(Dhammapada−91)
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