パティパダー巻頭法話
Sabbe satta bhavantu sukhitatta
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No.34 (1997年12月)
実る生き方
〜最後まであきらめない〜
A・スマナサーラ長老

 釈尊がマガダ国の舎衛城(サーヴァッテイ)の竹林精舎に住んでおられたとき、タンパダーティカという王様の死刑執行人がいて、50年間この仕事を続けていました。あまりにも年をとってしまって、最後の頃には人を処刑するカがなくなり、刀で2−3回切りつけなければ処刑できなくなっていました。たとえ犯罪者であろうともこういう殺し方はあまりにも残酷ですから、タンパダーティカは解雇されました。

やっと自由になったこの老人は、乳粥をつくって欲しいと家の人に頼み、川へいって水を浴び、新しい服に着替え、身体を清めて、家に帰って乳粥を食べようとしていました。そのとき、1週間、サマーデイ(滅尽定)に入っていたサーリプッタ尊者が、サマーディから立ち上がって、どこへ托鉢へ行けばよいかと考えたところ、タンパダーティカのことを思い出し、罪深い彼を何とか助けられたらと思って、彼の家におもむきました。タンパダーティカは心清らかな修行者を初めて見て考えたのです。私は年老いるまで、犯罪者だけに関わってきた。50年間、人の首を切ること以外何もできなかった。法を聞いて心を清らかにするどころか、善人に会うことさえできなかった。今、自分には、食べ物もあるし、このチャンスを逃がすわけにはいかない。そう思い、彼は尊者を家に招き、座ってもらって自分のために作ってあった乳粥を全部尊者に施しました。

暑い日のことですから、そばにいる者が、尊者に風を送ります。見ていたタンパダーティカはだんだん空腹を感じ始めていました。すると尊者は「あなたも食べて下さいJと言われ、またそばの者に風をタンバダーティカに送ってあげるようにと頼みました。(彼にとって、生まれて初めてひとりの人間として扱ってもらった体験でした。またその相手が、偉大なる聖者でしたので余程ありがたく感じたかもしれません)食事後、尊者は説法を始めましたが、タンパダーティカは今まで犯してきた罪を思い出して後悔したり悩んだりしてなかなか説法を聞くことができませんでした。

その様子を見て、尊者は彼に聞きました。「あなたは好きで、その仕事をしてきたのですか」「いえ、王様に命令されてしてきました」「それでは今、過去を悔やんでも仕方ないのではありませんか」そう言われてやっと彼は心が落ち着き、説法に耳を傾けることができました。そして尊者が帰ってすぐ、彼は亡くなりました。釈尊のところに集まった比丘達が、人生最後の日まで悪だけを行ってきたタンパダーティカは、最後のわずかな時間だけサーリプッタ尊者に会って法を聞くことができたが、どこに生まれただろう、と考えていたところ、釈尊が「彼はTusita(兜率=とそつ)天という天国に生まれました」と告げました。その言葉に、比丘達はおそらくびっくりしたことでしょう。なぜならタンパダーティカは、若いとき強盗団の一員になって犯罪を起こし死刑に決められた人でした。そして死刑の代わりに一生死刑執行人として生活してきた囚われの身でした。清らかな精神の世界とは何の縁もなかった人でした。そこで釈尊は、年老いるまでの彼の人生の中で、最後の瞬間だけでも聖者に会って意味のある言葉を聞くことができたから、ただそれだけが彼の救いになったのですと説明しました。

 この物語は我々にいくつかのことを教えてくれます。ひとつは、たとえ悪人であろうとも、仏弟子達は、生命は平等という立場で慈しみの心で接してきたということです。上から人に命令するような立場ではなく、大衆と一緒にいて人の苦しみ、悩みを理解し、解脱の道を教えていました。

 また、人は自分のことを最後まであきらめてはいけません。心は常に悪い方向へ回転する傾向がありますが、いい方向へ導くためには、気がついたところで努力すればいいのです。私はもうだめだと思うのは、仏教的ではありません。だめで元々と思ってでも努力する必要があります。一方、世の中を見ると、社会的な目的のためにあきらめずに努力する人々が見られますが、財産、名誉のために一生をかけるなら、それは仏教の立場から見れば無意味なことです。社会のどの立場にいても、知慧が優れていても、有りあまる財産があっても、心が汚れているなちばその人の人生は何の価値もないのです。清らかな心を作ることこそ、生命にとって唯一の財産になります。それを得るために、あきらめずに努力することを勧めています。たとえ一度だけでも聖者の言葉を聞かない人生は、むなしいものです。

 この物語は、誤解されやすいところもあります。ずっと人を殺してきたのに、最後に天国に生まれたのだから、生きている間はどんな罪を犯しても、最後に許してもらえれば全部無効になりますので、楽ではないかという意見です。しかし、後でいいことをしようと、今悪いことをやっている人々は、真理をごまかそうとしているだけです。ズルをやったからといって、法則は変えられません。善悪のことを知った時点で、正しい道へ歩むべきです。この物語のタンパダーティカにはその自由さえなかったのです。善悪行為のエネルギーは簡単には消えません。ポテンシャルとして蓄積します。しかし業(カルマ)はエネルギーですから、悪いエネルギーを強い良いエネルギーで抑えることは可能なのです。タンパダーティカの場合はまさにそうでした。我々は、彼のようにサーリプッタ尊者には巡り会えませんが、タンパダーティカほど不幸でもないし、彼と比べられるほど悪いことをしているわけでもありません。それなのに、勉強で、仕事で、家族のことで忙しく、心を清らかにする善行為はできなかったと言い訳をする人生は、実に暗く危険です。過去について後悔することも悩むこともまた、危険です。人はいつでも立ち直ることができます。同様に、他人が何か悪いことをしたと、永久的に非難したり蔑視したりすることも絶対にやめた方がいいと思います。

人間は長い人生の中で、色々なことをしで生きています。でも、人が行っているすべての行為はただ生きるためか生きることを楽しむために限ります。死ぬとき、このすべては何の意味もない、無意味なものとなります。ですから生きるため、楽しむためという目的を超えて、人は、清らかな心を作るため、人格を向上させるために善行為を行うべきです。

 特に、聖者の言葉、真理の言葉には我々の自我中心的な心を正しい方向へ導く力があります。そのような真理の言葉は、普通の人間が使うすべての言葉より優れています。タンパダーティカの人生が、真理の言葉を聞くことがいかに大事かを物語っています。

今回のポイント

◎経典の言葉
Sahassam api ce vâcâ-anattha pada samhitâ
Ekam gâthâ padam seyyo - yam sutvâ upasammati.(Dh.-100)
無益な語句をたびたび語るよりも、聞いて心の静まる有益な語句をひとつ聞く方が優れている。(Dhmapada−100)
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