パティパダー巻頭法話
Sabbe satta bhavantu sukhitatta
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No.36 (1998年2月)
本気でチャレンジ
〜されど競争相手は作るな〜
A・スマナサーラ長老

 インドのラージャガハ(王舎城)という町にクンララケーシーという娘さんがいました。両親は大金持ちで、その娘を一歩も外へ出さないほど、大変大事に箱入りに育てました。娘が年頃になったある日、窓から外を見ていると、捕まえられた大泥棒が処刑場に連れていかれるところが目に入り、その大泥棒に恋をしてしまったのです。そしてすぐ両親に、その人と一緒になれないなら自殺すると訴えました。困った両親は、役人たちに大金を払ってその大泥棒を密かに帰してもらい彼女と結婚させたのです。処刑になる運命にあった男が突然、大きな城で贅沢な暮らしをするようになりました。

 ところが、暮らしてみると、彼にとってはこれも結構不自由な生き方でした。どこを見ても高価なものがいっぱい目に入ります。彼はそれを盗んで逃げようとたくらみ、自分のことを必死に愛してくれるクンララケーシーにこのように告げました。「私は処刑されていくとき、処刑場の神様にお願いしました。もし命を助けていただけるならば必ずお礼のお供えをしますと。この家を出ることさえできない私は神様との約束を果たせず、今では生きる元気もなくなりました」これを聞いた彼女は、すぐ大きなお祭りをしてあげますと言ったのですが、彼は「お供えは内緒でする約束でしたから、二人だけでみんなに内緒で出かけましょう。ありったけの宝石でからだを飾ってきなさい」と言いました。

その地方では、犯人を崖から突き落として殺す処刑方法でしたから、ニ人はその崖に登りました。上まで登ると男は「ここまで来たのはあなたの宝石を盗みたかったからだ」と言い、彼女にその宝石を全部からだからはずすよう命じました。殺されることに気づいたクンララケーシーは、私を殺さなくても家の全財産はあなたのものではないかと言いましたが、彼は納得しませんでした。そこで彼女は、「私はあなたのことをずっと愛し尊敬してきました。最後の別れの礼だけでもさせてください」と言い、インドの習慣に従って、彼の周りを3回右回りして、土下座の姿で3回礼をするという最高の礼をし始めました。そして3回目、後ろから礼をしようとした瞬間、彼を崖から突き落としました。
(箱入り娘で、わがままに生きてきましたが、結構頭は良かったのです)

 すべてが嫌になった彼女は家にも戻れず、遊行者のところで出家しました。遊行者たちが詭弁法を教えてくれました。遊行しながら他の行者を詭弁法で言い負かして行くことが修行でした。もし自分が負けたら、その人の教えを習うのです。しかし彼女はそれが大変上手で、誰も勝てませんでした。彼女がどこかへ行くと、そこにいた行者たちは逃げるようになりました。

 彼女は旅の途中で舎衛城(sâvatthi)に向かいました。はたし状の替わりに、村の入り口に砂の小山を作り木の枝を一本さしておきました。論争したい人はその枝を抜けばよいのでした。でもあまりに恐しくそれを抜く者はありませんでした。

そこでサーリプッタ尊者が子供たちにその枝を抜くように言いました。子供たちはすっかり喜んで砂の山を無茶苦茶にして遊び、枝を倒しました。クンララケーシーはサーリプッタ尊者に対し論争を始めました。しかし彼女の千以上の詭弁法を、尊者は何のこともなく破ってしまったのです。最後に尊者に「一」の意味が分かりますかと聞かれ答えられず彼女は負けてしまいました。仏教の論争法を勉強するため彼女は出家せざるを得なくなりました。出家してまもなく、彼女は修行して大阿羅漢になりました。戦いだけの彼女の人生も、最後に自分自身と戦うことで目的を達成することができ、最高の勝利を得ることができたのです。

 無数の宗教哲学者が生きていた当時に、行者たちに恐がられるほどだった彼女は、女性としてなかなかのものでした。彼女は何にもめげず、自分の目的に向かって突っ走るパワ−を持っていました。生きるということはチャレンジの連続です。ひとつ終わったら、次のチャレンジが待っているのです。次から次へと目的を達成できる生き方は、大変幸福な生き方だと思われています。でも自分が勝てば幸福ですが、一方で、負ければ最悪です。チャレンジですから、勝つ確率よりは負ける確率の方が高いのです。生きるということは、この競争の中で負けたり勝ったりすることの連続です。勝ったら楽しいし、負けたら苦しい。負ける確率は高いものですから、人は誰でも生きていることは大変だと感じています。では何にもチャレンジしなかったら、どうなるでしょうか。その人は人生で何も得られません。何の行動もできなくなります。そのように究極的なうつ病になりたい人もないだろうと思います。何かにチャレンジすることは人の生き甲斐です。

 ではチャレンジ(競争)だけの人生は面白いでしょうか。ただ競争だけで元気よく生きていてもどこかでむなしさを感じ始めます。それでまた人生の意味を探すことになりますが、なかなか見つかりません。教育も仕事もチャレンジの連続です。からだの健康を維持することもひとつの戦いです。人間とうまくつきあうこともまた、大変な戦いです。死ぬまで戦って死ぬことで人生は終わります。結局、何のために必死になって戦ってきたかと回想すればむなしさばかりが見つかることでしょう。私たちの人生は、クンララケーシーのようにどんなチャレンジにも勝てるほど強くはないのです。ですから悩み、苦しみ、失敗、失望などにあふれています。人生は競争ですが、競争の恐い側面は競争相手です。つい人は競争の相手を作ってしまうのです。そうするとその人と競争しなくてはいけなくなるのです。厳密に考えると我々の競争相手は結局は社会そのものです。社会と競争して、個はその社会のなかにいきていなくてはならないのです。それはとてつもなく恐い状態です。チャレンジするのは悪いことではありません。それがなくなったら生きることさえも消えてしまいます。でも戦いの相手を作ってしまったらその大事なチャレンジをできなくなります。人生にチャレンジできるほどの自信がない人の心の中を見ると、社会を競争相手としているということが簡単に見いだされます。

 幸福を味わうためには、誰かと競争するのではなく自分自身にチャレンジするべきです。ライバルは自分であって他人(社会)ではありません。幸福に生きたいのは自分です。それができないならばその原因も自分の中にあります。自分へのチャレンジだと理解すれば、社会を敵に回すこともなく、負けても悔しがることもなくどこまででもチャレンジできます。人生の幸福だけではなく、人の最高の目的であるべき解脱も、自分との戦いであって、自分自身にチャレンジすることです。

今回のポイント

◎経典の言葉
Yo sahassam sahassena - sañgâme mânuse jine,
Ekañca jeyya m'attânam - sa ve sañgâma juttamo.(Dhammapada.103)
戦場で百万人に勝つよりも、ただひとつの自己に克つ者こそ、実に最上の勝利者である。(Dh. 103)
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