パティパダー巻頭法話
Sabbe satta bhavantu sukhitatta
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No.38 (1998年4月)
「祈り」は宗教とは無関係
〜幸福を願うなら聖者に道を学びなさい〜
A・スマナサーラ長老

 宗教には、儀式、儀礼などがつきものです。文明といっしょに、宗教という概念も生まれ発達してきましたが、文明の初期時代の宗教というのは、何らかの儀式を行うことだったと考えられます。何か超自然的な対象を創造して、その対象に対して宗教的な儀式、儀礼を行ってきました。あるときは、自然現象(大地、空、雨、雷、山など)が神として崇められ、時間を経るに従って、自然現象より高い次元にそれらを支配している神が存在すると考えるようになりました。そして崇められる神々は多数現れてきました。さらに時代を経ると、多神教は一神教に変わり、全てを創造し、支配し、やがて破壊するというはたらきを営む「神様」という概念が生まれ、今日まで続いています。概念は多少変わっても習慣は変わっていません。人間の次元を超えたこの超自然な存在に対して、祈る、従う、讃える、儀式、儀礼を行うことは今もかわりがありません。人間にとって宗教とは、結局「祈る」ことでしょう。

 昔も今も人間は、神様(自分たちの信仰している宗教対象)にお祈りをし、賛美歌を歌います。お供えをするし、決められたいろいろな儀式、儀礼を行います。しかし人間より偉い、また人間の運命をコントロールしている神様が、ごはん、果物、お酒などを食べたり飲んだりするのか。またロウソクを立ててあげないと暗くて困るのか。お香をたててあげないと、悪臭で困るのか。…そんなことを考える人はおそらくいないと思います。ただ人間がいいと思うものを神様も好きであろうと勝手に思っているだけではないでしょうか。高次元の「神」の好みが、下次元の「人」の好みと一致するわけはないと思います。ひとつの例で考えてみましょう。牛の好物は草です。その牛が、自分より高次元の人間の機嫌をとろうと、草を口でくわえて人間にくれても、人間にとってはそれは迷惑なだけで食べられないだろうと思います。人間も、宗教においては、似たことをやっているのではないでしょうか。お釈迦様が現れる時代までは、インドでも、この現象が見られました。つまり人間は肉をおいしく食べますが、それを神様も好きだろうと思い、経済的な負担も気にせず神様に生贄を捧げる儀式を行ってきました。旧約聖書にも、神に羊の生け贅を捧げることが明確に書かれています。人間が考え出した「高次元の」神様に、「下次元の」人間が好きだと思うことをしてあげても、人間の切望する「幸福になること」を実現できるはずがない。そう考えるほうが、論理的ではないでしょうか。では、仏教の立場から考えてみましょう。

 仏教でも、人間だけが生命だということはありません。人間より下次元的な存在も高次元的な存在もあるという立場で真理を考察しています。でも、ある生命が他の生命の運命を操ることは不可能です。人間の社会には、王様や浮浪者などいろいろな立場の人がいますが、人間としては皆平等です。さらに、生命として見ると、神も人間も動物も皆同じです。ある生命が他の生命に、助けてくれ救ってくれ、幸福にしてくれと、懇願しても、何か無理があると思います。(お祈りだけはたくさんしますが、ほとんどかなわないでしょう)人の生き方の流れを変えることができるとするならば、それは心の次元を乗り越えて生命の次元を脱出した聖者だけです。たとえ神であろうと人間であろうと、生命として居るということは、仏教でいう輪廻の中に居るということです。生死の次元を超えてはいません。超えるためには、悟りによって輪廻にとらわれている心の汚れを絶って解脱しなくてはいけません。その人にだけは、我々の運命を変える手助けができます。

 お釈迦様の一番目の弟子、智慧の第一人者サーリプッタ尊者は、自分の友人のあるバラモン人に聞きました。「自分の命が救われるようなことを何かしていますか」「はいしています。私は毎月お供えの儀式をしています」と彼は答えました。また別の友人のバラモン人に同じ質問をしたところ、「毎月、ヤギ1頭を神様に生け贄としてさしあげています」と答えました。これは幸福に至る道ではないので、サーリプッタ尊者は、この二人をお釈迦様のところに連れていきました。

 お釈迦様はこのように彼らを説得しました。毎月千枚の金貨を費やして、百年間儀式を行っても何も価値はありません。もし心を育てた人(煩悩を絶って心の次元を乗り越えた聖者)に、わずかなものでも、一度だけでもお供えするならば、そのお供え自体が百年の儀式よりすぐれた結果を導きます。なぜならばその聖者が我々に、幸福になる道を実際に教えてくれるからです。幸福になりたい、生死を乗り越えたいと思うなら、言われるままに非合理的、迷信的な儀式を続けても、希望通りの結果にはなりません。神という概念は時代によって変わるし、儀式、儀礼の習慣も同じく変わっていきます。神がいるかいないかということも、儀式、儀礼によって希望の結果が得られるか得られないかということも、誰もわかっていません。結果は、原因がなければ生れません。わけのわからない行為からはわけのわからない結果しか得られません。幸福になることも、不幸にになることも、生死を繰り返し苦しむことも、心の弱みによるものです。心を客観的に見て、不幸になる原因、生死を繰り返す原因を、根本から取り除けばよいのです。それこそが宗教です。儀式を行うことではありません。儀式、儀礼にとらわれるのではなく、心を育てる道を実践することが宗教です。幸福を願う人々は、今までやってきた迷信的な儀式、儀礼をやめて、心を育てた聖者の言葉に耳を傾け、その具体的、合理的な方法を、学ぶべきです。神に従うのではなく、聖者に従うぺきです。聖者が道を知っています。聖者は自分が先に実践して、幸福に達した経験者です。わずかなお供えでもして、一度だけでも聖者に会って教えを乞うならば、幸福になる道を説いてくれるでしょう。将来、幸福になる「かもしれない」という、中途半端な希望で何かをやるのが世間が知る宗教ですが、仏教が教える宗教は、しっかりと具体的に、自分の努力によって幸福をつかむことです。

 宗教的な儀式、儀礼、祭などは文化として長い間続けてきたので、人間は気持ちいいものだと感じるかもしれませんが、それらによって心を成長させることも、生命の次元を脱出することも不可能であることを理解していただきたいのです。

今回のポイント
◎経典の言葉
Mâse mâse sahassena - yo yajetha satam samam
Ekañca bhâvitattânam - muhuttam api pûjaye
Sâyeva pûjanâ seyyo - yañce vassa satam hutam(Dh.106)
百年の間、月々千回づつ祭を営む人がいて、またその人が自己を修養した人を、一瞬間でも供養するならば、その供養することの方が、百年祭を営むよりもすぐれている。(Dh.106)
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