パティパダー巻頭法話
Sabbe satta bhavantu sukhitatta
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No.43 (1998年9月)
「生きることは爆弾遊びか」
〜無常を知るものは人生を知る 〜
A・スマナサーラ長老

 人間を悩ませる苦しみについて、極限的な話をします。
釈迦尊の時代、インドに、パターチャーラー(Patâcârâ)という名の大富豪の娘がいました。彼女は、召使いの間でも特に身分の低い若い召使いと恋に落ちてしまい、駆け落ちをしました。家から遠く離れたところで、2人は大変貧しい家庭生活を始めました。彼女にとっては、天国から地獄へ落ちたような貧しい生活でしたが、好きな人と一緒になれたことであまり気にしなかったようです。

やがて彼女は妊娠しました。そして、そのときから不安を感じ始めたのです。贅沢に育てられた娘ですので、どうすればよいかただ迷うばかりだったのです。子供を産むために実家へ戻りたいと思い、旦那に必死で頼みましたが、彼は自分は家に戻れば殺されるだろうからと言って断りました。不安でいっぱいの彼女は旦那の留守の間に、一人で出かけてしまったのです。ところが森の真ん中で陣痛が始まり、彼女は一人で子供を産むことになったのでした。迎えに来た旦那は、用が済んだのだから家に帰ろうと、連れて帰りました。

二人目の子供を宿したときも、前と同じく一人で出かけました。探しに行った旦那が、森の中で陣痛に苦しんでいる彼女を見つけました。ちょうど雨期で、大変な豪雨でした。あわてた旦那は、木の葉で雨よけを作ろうと出かけたのですが、突然出くわした蛇に噛まれ死んでしまったのです。何も知らない彼女は四つんばいになって、間もなく生まれた赤ちゃんと上の子を必死にお腹の下に守って徹夜しましたが、朝、旦那の死体を見つけて、大変なショックを受けました。よりどころがなくなった彼女は、実家に戻ることしか考えられませんでした。道中洪水に荒れた川を渡らなくてはいけませんでした。苦労しながら、まず赤ちゃんを向う岸に運び、上の子を連れにまた川へ入って中程まで来たとき、鷲が赤ちゃんを狙っているのを見つけました。どちらの岸へも戻れず、彼女は大きな声で叫んで鷲を追い払おうとしました。荒れた水音と混じって母親の声を聞いた上の子は、自分が呼ばれているのだと思って水に入りました。そして大水に流されてしまったのです。

それを見た瞬間、赤ちゃんも鷲にさらわれました。
母には耐えられない苦しみでしょう。彼女は気が狂ってしまいました。さらに人に実家のことをたずねると、前夜豪雨の中落ちた雷で、家は全焼し、みんな死んだというのです。一日にして、全てが消えてしまったのです。みんな自分にとっては大変大事な命でした。人間には、このような極限の苦しみに耐えることは不可能だと思います。

 完全に狂ってしまった彼女は、着ている服も脱げ落ちて、裸で泣きながらあてもなく走り出しました。
ある親切な人に、お釈迦様が住んでいたお寺へ導かれました。しかしお寺へ入ろうとした裸の彼女を、皆が追い出そうとしました。でもお釈迦様が、大きな声で「娘さん、こちらにおいで」と呼びました。父親に呼ばれたのと同じ言葉で呼ばれた彼女の心は瞬時に落ち着きました。彼女は父親の前にしゃがみ込む娘のようにお釈迦様の前でしゃがみ込みました。よりどころの全てが消えた彼女が正気に戻るために必要だったのは、何か頼るものでした。人の心を知り尽くしているお釈迦様が、彼女を実の娘のように扱って、その心の悩みを消してあげたのです。

 極限的な話ですが、これは経典に出てくる実話です。彼女の生涯には不幸以外の何もありませんでした。たとえて言えば、砂漠の中でのどが渇いて死にそうになっている人が、一滴の朝露をおいしそうになめるようなもので、彼女には旦那の愛情だけはありました。
でもそれも、頼られる他の人々も、一日にして死んでしまったのです。財産に、親戚に、子供に、また他のものに、頼って依存して人が感じる幸福は幻のようなものです。それが消えたら、どうしますか? 結局残るのは、限りない悩み、苦しみです。

 ものに、人に、頼って、幸福だ、幸福だと思って、人間は必死で生きています。
経済活動と家庭の面倒を見ることと、自分のからだの健康を心配することが、人間の生き方の全てです。一般に幸福だと思われるもの全てが、簡単に消えてしまうはかないものです。消えたときの苦しみははかりしれないものです。まるで虎やライオン、毒蛇などをペットに飼って遊んでいるようなものです。
一歩間違えば、命がないのです。無知な人は、死ぬまで、幸福だ、生きていてよかったと言いながら、火遊び、爆弾遊びを続けているのです。このような生き方は、智慧の立場から見て、有意義だといえるでしょうか。ものに、人に頼る生き方を、人生一大の目的とするべきでしょうか。爆弾遊びだけで、人生を終わるぺきでしょうか、と考えてみる必要があります。

 幸福と思うもののはかなさ、頼ること、依存することの危険さをお釈迦様はパターチャーラーに親切に明確に教えられました。
死に襲われているものには、両親も親戚も子供も財産も、何もしてあげることはできません。そういうものがいくらあっても、人は病気になって老いてむなしく死んでしまいます。仏教の立場から言えば、一般の世界では誰もが大変ありがたがる、自慢に思う生き方、つまり、財産を殖やそう、知識を得よう、結婚して家族を作ろう、権力を獲得しよう、有名になろう、というような生き方は結局は何の意味も持たないのです。このような生き方で、100年生きていても、まったく同じことです。無知な生き方であるならば、50歳まで生きていた、80歳まで生きていた、100歳も超えた、と威張っても何のシャレにもならないのです。

 全てが無常で、消えていく、我が身も無常で消えていく、自分の身体さえも自分のものにならない、それを理解して、何ものにも頼らない心を作ることが人生の成功なのです。命はたとえ1日であろうとも、ものの生滅変化を理解し、心の執着を消した人こそが、人生の成功者です。

 説法を聞いたパターチャーラーは出家して修行に励みました。人間に耐えられないほどの極限的な苦しみが泡のごとく消えていきました。彼女は最終解脱を体験し有名な大阿羅漢になりました。

今回のポイント
◎経典の言葉
Yo ca vassasatam jîve - apassam udayavyayam,
Ekâham jîvitam seyyo - passato udayavyayam.(Dh.113)
物事が興りまた消え失せる法則を見ないで百年生きるよりも、
物事が興りまた消え失せる法則を見て一日生きることの方がすぐれている。(Dh.113)
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