パティパダー巻頭法話
Sabbe satta bhavantu sukhitatta
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No.44 (1998年10月)
「悪は、心の趣味です」
〜勇者のみ善を行う 〜
A・スマナサーラ長老

 「悪いことなんかはやりたくない」「いいことだけをして一生、生きていきたい」。誰に聞いても皆、このように考えているようです。それが本当であるならば、人間というのは素晴らしいですね。でもいにしえの昔から今まで世の中から悪が消えた例はほとんど見あたりません。悪いことなどしたくない人がほとんどなのに、この矛盾は何でしょうか。

 理想などはいくらでも作られます。大変ご立派なモットーはいくらでも言えるのです。理想というのは、頭の空回りでしかありません。立派な言葉も、将棋や囲碁の駒並べのような言葉の遊びです。上手く並べた人が勝ちますが、それに何か意味があるわけではありません。人間はゲームが好きですが、それと同じように美しい言葉並べの遊びをしているだけなのです。「正義は必ず勝つ」、というと、皆納得しますが、事実は少々違うのではないかと思います。「勝つのは真理のみである」というモットーがインドの国にもありますが、実際は嘘つきの人々がいつでも世界を支配しています。「雨ニモマケズ風ニモマケズ…・・・サウイフモノニワタシハナリタイ」と言っても、簡単にはそうなれません。

 観念的な理想と文学的な遊び心で作る名言が、世の中を善い方向へ変えるならば、今の私たちには何の問題もないでしょう。わかりやすくいえば、「考える」ことも「言う」ことも、いたって簡単ですが、「実行」はそううまくいかないということです。

 この矛盾は、「心」にあります。悪いことはしたくないと口では言うのですが、心の本音が悪いことをしたいと切望しているのです。心は、常に悪いことをしたがっています。限りない規則、法律、道徳的な価値観、習慣などで、厳密に心を縛って不自由にしておかないと、危険なものです。
いくら法律があっても、道徳があっても、宗教の教えがあっても、ちょっとした隙間があれば心は悪い方向へ行くのです。放っておけば心ほど危険なものはないのです。誰も見ていないのだから、誰にもばれないのだから、ほんのちょっとだから、一回だけだから、やってみなけりやわからないのだから、等々、何か言い訳をつけて人は悪いことをするのです。私は悪いことなどしたくないのだと思っても、自分の心を信頼しない方がよいのではないかと思います。

 隙間があればすぐ悪いことをしますが、いいことを実行するためには強い決意が必要です。気が弱い人には善いことが実行できません。平気で悪いことをする人々は、ただ単に根性が弱く、心の叫び声に負けているだけです。善いことをする人が勇者なのです。

 昔、一着しかよそいきを持っていなかった夫婦がいました。一人が出かけると一人が留守番でした。ある日、夫がお釈迦様の説法会に出かけました。説法が始まってまだ宵のうちに、大変大きな喜びを感じたこの人は、自分の上着をお布施したくなりました。「でもねえ…。これをあげたら家内にも私にも何もなくなっちゃうんだ。家内が可哀想だ。お布施はやめよう」と思いました。深夜になりました。また喜びが湧いてきました。でも、お布施する気持ちはそのときも消えました。それから夜明けまで説法を聞いていますと、また欲が消えて、お布施をしたくなりました。そのときも奥さんのことが思い浮かびましたが、勇気を出しました。「服一着に執着している私の心はなんと恥ずかしいものか。この服がなくても私たちはなんとかなる。とにかく差し上げるぞ。」と思って、明け方、お布施をしてしまいました。それで彼は大きな声で「勝ったぞー。勝ったぞー。」と叫びました。この日、コーサラ王も内緒で徹夜して説法を聞いていましたが、この貧乏人が一体何に勝ったのかと知りたくなって調べたところ、彼が必死な戦いの未に、自分の心に勝ったことを知り感動しました。王様は彼に大量の衣服を寄付しましたが、彼は全部お釈迦様に差し上げてしまうのです。最後に王様の言葉を聞いて、夫婦のための二着だけを残しました。

 この貧乏なバラモン人こそが、本当の勇者でした。彼は一晩中、心の本音の叫び声を明確に開いていました。自分一人の力では勝てなかっただろうと思います。お釈迦様が、心の汚れに勝つことのありがたみを、だんだん力強く、皆を勇気づけながらお話なさっただろうと思います。お釈迦様の智慧の力がなければ、一着のぼろ服も差し上げることはできなかったでしょう。この出来事にもとづいて、お釈迦様は、我々が日々出会っている道徳の矛盾の構造を説明されました。

 心の本来の衝動は、貪瞋痴なのです。あるいは無明です。人の生命の本能が貪瞋痴なのですから善いことをしたがらないのは当然のことです。勇気がなければ、智慧がなければ、善いことを実行できません。私たちの本能が汚れているのは仕方がないが、もっと悪いのは、偽善的にそれを隠そうとしているところです。そのために、あふれるほどの理想や、道徳的な美しい言葉が、世の中にはあるのです。自分がだまされるのはイヤだから、他人に嘘をつくな、真理を語れと言う。自分のものを取られるのはイヤだから、他人のものを盗むなという。でも自分という人間が、隙があったら、ばれる恐れがなかったら、また自分が得をするならば、罪をも犯す。そんなわけで、世の中から悪は消えません。本当に悪を消したいと思うならば、自分の心の本能を理解して、それと戦わねばなりません。

本当の道徳というのは、社会と関わるものではなく、自分自身に関わるものです。
社会に迷惑だから悪いことをやめましょうと言うのは偽善であって道徳ではありません。おのれの心が汚れている、悪いことをしようと切望している、それと戦えと言うのが本当の道徳であり、倫理です。それを知り戦う人だけが、人に知れても知れなくても悪いことはしません。

 心は悪に喜びを感じます。それを変えなければ、道徳的な世界は作れません。

今回のポイント
◎経典の言葉
Abhittharetha kalyâne - pâpâ cittam niâraye,
Dandham hi karoto puññam - pâpasmim ramatî mano.(Dh.116)
善をなすのを急げ。悪から心を退けよ。
善をなすのにのろのろしたら、心は悪事をたのしむ。(Dh.116)
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