パティパダー巻頭法話
Sabbe satta bhavantu sukhitatta
HOMEパティパダー巻頭法話→「悪に対する抵抗力」
No.49 (1999年3月)
「悪に対する抵抗力」

〜智慧さえあればこの世の中で生きることは楽です〜
A・スマナサーラ長老

 悪がはびこるこの世の中で、心を清浄に保つことは可能でしょうか。この地球に生きている人間社会を見渡すかぎり、賄賂、搾取、弱肉強食、不正、差別、不公平、違法行為、犯罪、いじめ、脅し、また、(自然と生命体の)破壊行為、さまざまな殺戮行為…そのようなものがあふれているのではないかと思われるほど「悪」ばかりの世の中です。「善」は、人間の例外的な行動なのでしょうか。

 人間の社会は、さまざまな悪が織り交ざって構成されていますので、悪がなくては社会は成り立たないような状態になっています。だからといって、悪行為を正当化するわけにはいきません。なぜならば、人類の不幸、苦しみなどはすべて悪から生まれてくるからです。幸福になりたい、平和で生きていきたい、という気持ちは、個人個人の希望でもあり、社会全体の希望でもあります。幸福も平和も、悪行為によって成り立つものではなく、慈しみと智慧によって生まれてくるものです。

 人間の社会が、くまなく幸福になるというような確実なきざしはどこにもありません。地球の一部の人間は幸福で平和でいるかもしれませんが、他のところは不幸で争いに満ちています。また、幸福な国が今度は不幸になったり、不幸な国が次に幸福になったりする波は見えますが、人間全体として幸福になった事実はありません。国々も文化も、成長して行き、また滅び行きます。これが我々が知っている歴史です。この状態は、これからも続くでしょう。

 そこで我々が考えなくてはならないのは個人個人の幸福と平和の問題です。社会をまるごと幸福にするというのは、理想的でとても格好いい概念かもしれませんが、それはおそらくかなわない夢でしょう。しかし個人個人には、幸福になることも、平安な心を作ることも、何ら問題なく実現できることです。1人1人が幸せになれば、社会も幸福で平和になるでしょう。そして我々が幸福になりたければ、「悪」をやめることです。法を犯したり、犯罪行為をしたり、他をいじめたり、苦しめたり、破壊したりしながら、自分の幸福を得るということは決してあり得ません。

 そこで問題が起こります。もし、社会全体が、悪で織り混ぜられ構成されているならば、社会の一部である個人が、どうやって悪に汚染されないまま生きることができるでしょうか。正直言ってこれは不可能といえるほどむずかしいことです。政治制度、経済システム、産業界、金融界などのどんなシステムを見ても、あらゆる不正によって構成されています。また、個人の立場で見ても、自然や他人に対する残酷な消費者になっているのではないでしょうか。会社のために不正な行為をした人は、それは会社のための行為であり、個人としては悪いことをしたという意識はないかもしれませんが、はたして個人として悪を行っていないのでしょうか。一人の人が生きるうえで、必然的に犯す悪行為自体もかなり多いものです。考えれば考えるほど悪に汚染されない生き方は、困難であることがわかります。世の中の誰もが、善を行うことをあきらめているようです。しかしそれでは、個人に、平安も幸福も永久に訪れないということになります。結局人間は、悩み、苦しみ、不安、心配、恐怖などの重荷を背負って、生きていかなくてはならない状態になっています。

 悪の闇から脱出して平安をつかみたい人に、闇からの抜け道がひとつあります。それは、慈しみと智慧です。一切の生命に対して、慈しみの気持ちさえあれば、悪行為は自然になくなります。そのような生き方を実現するためには、悪に満たされている社会とは違う角度で世の中を見る、智慧が必要です。ものごとを明確に、論理的・合理的に、また客観的に見ることができれば、智慧が現れます。社会が個人を、いつも悪に誘惑するのです。決まりだ、みんなやっている、それくらい常識だ、習慣だ、そうしなきゃ生き残れない…などと言い訳を並べて、個人が悪に汚染されるように仕向けます。悪の闇から脱出したい個人は、社会の「みんな」の理屈をうち破って、善を行うための自分の立場を確立する必要があります。そうでないと、大変みじめな生き方になります。たとえば、ある会社の人々が汚職をして楽な生活をしているとき、汚職にも加わらず、ひとりだけわずかな給料だけで正直に生きている場合、みじめな思いを味わうかもしれません。悪いことをする人がなぜ幸福で、何も悪いことをしない自分だけが不幸なのかと思ってしまいます。悪の生き方が確かに間違いだと知ること、彼らのような生き方は短期的には楽に生きられるように見えるが、長期的には大変な不幸になるということを、しっかりと知っておかなくてはならないのです。そうすれば善を行う人は、自分のことを決してみじめに思いません。悪を正当化する理屈は、簡単にうち破られる根拠のない屁理屈です。誰でもやっているのだ、習慣だなどの言い訳は、単なる根拠のない理屈であって、これこそ人間の正しい道だといえる証拠は何一つないのです。たとえば、みんな酒を飲んでいるから自分も飲むという理屈は、だからといってなぜ、私が飲まなくてはならないのかを証明していることにはなりません。もしもみんなやっていることは自分もやる、という論理が正しければ、みんながやる一切すべてのことを私もやらなくてはならないのです。そのように考えていくと、悪を行う人々の論理は成立しないものだとわかるはずです。この智慧さえあれば、その人の心には、どんな悪にも染まらない、悪に対する抗体が生まれます。悪に対する抗体さえできれば、悪に満ちたこの世の中で汚染されることは全くなく、楽々と生きていられます。善を行っているので、幸福も心の平安も実現できて、苦しみを乗り越えることができます。我々に必要なのは悪に対する抗体、言い換えれば「智慧」という抵抗力です。

今回のポイント
◎経典の言葉
Pânimhi ce vano n'âssa - hareyya pâninâ visam,
Nâbbanam visam anveti - natthi pâpam akubbato. (Dh. 124)
もしも手に傷がないならば、その人は素手で毒を取り去ることもできるだろう。
傷がなければ毒にはおかされない。悪をなさない人(智慧が現れた人)には、悪の及ぶことがない。(Dh.124)
次の法話へ→
HOMEパティパダー巻頭法話→「悪に対する抵抗力」
© 2000-2005 Japan Theravada Buddhist Association.